06)アラハバキ解(1)宮城と奈良の二社比較

文字数 1,544文字

 宮城県多賀城市の荒脛巾(あらはばき)神社と、奈良県葛城市の加守(かもり)神社の比較図を描いてみました。
 荒脛巾神社(上)は境内社の配置、加守神社(下)は御由緒に基づいて、それぞれ描きました。
 アラハバキの「わかりにくさ」の一例として、その信仰の姿を解くために、まずは

して考える必要があることを示す好例です。
 図(上)の番号(①~④)は、多賀城市の荒脛巾(あらはばき)神社の4つの謎です。
 番号に沿って解いてゆきましょう。なお、本章では概説となります。(詳細は今後、書いてゆきたいと思います)


 ①一体化した道祖神とアラハバキの社の謎
 まず、なぜ道祖神がアラハバキ神と繋がっているのか?。二つの神社を要素に分解した上で、共通する点を赤い線で繋いでみました。


 荒脛巾(あらはばき)神社の二連の社は、全体として、縁結び、和合、出産を祈願することが本来の姿です。
 ただ、現在はその意味が薄れ、靴・履物を奉納して、腰から下の病の回復や道中安全を祈る社に変容したことが窺えます。

 雪深い日本海・東北では、山仕事や狩猟で(すね)にワラ製や毛皮のハバキを巻きますが、それらが、路傍(ろぼう)の道の守り神、道祖神(どうそじん)のイメージと重なり、履物や靴の奉納物になりました。(写真は佐渡・新穂歴史民俗資料館にて)


 一方、西日本、特に北九州では(ほうき)()くことを「(はば)く」と言います。前章で紹介した通り「(ほうき)()く」は、後産(あとざん)で排出される「(かに)胎盤(たいばん))を(はら)う」助産(じょさん)に由来した言葉です。

 この西(南)の信仰が、東(北)の道祖神(どうそじん)の信仰と混ざり合い、相互に転訛(てんか)しながら、二連の社の「ハバキ」の信仰にまとまったと考えられます。(写真は新潟市・白山神社の餅つき道祖神(江戸期)。男女一対・子孫繁栄のイメージ)


②「二荒神社」の碑の立ち位置と意味
「二荒神社」という文字を見るのははじめてでした。調べると北関東や新潟に、二荒山(ふたあらやま)二荒(ふたら)などの神社名が見えます。栃木県の日光(にっこう)二荒(にこう)に由来します。
 関西に住んでいると荒神(こうじん)さんは

のイメージですが、碑の立ち位置に、

の荒神、荒神はふたつ、という意味が込められているように読み取れました。
 奈良・葛城の加守神社はこの疑問に答えをくれました。「荒」は「アラ」「誕生」として考えると、「助産の加守(かもり)」と「養育の倭文(しとり)」の

を構成要素としていたからです。神仏習合の荒神信仰よりも古いスタイルが「加守(蟹守(かにもり)掃守(かもり))+倭文(しとり)」で「二荒神社」の意味がよくわかります。


 このことはもう一つの重要なことを示唆しています。宮城・多賀城の荒脛巾(あらはばき)神社は、神仏習合のカタチである荒神信仰の以前からの、加守神社と同じく古い社であるということ。この点を頭に入れて今後、考察してゆきたいと思います。

③バラバラな御利益(ごりやく)と奉納物の謎
 靴・履物、男性のシンボル像、ハサミ、一見すると、これらの奉納物や御利益(ごりやく)はバラバラで、トータルとして理解することは難しいでしょう。
 しかし、加守神社の「加守(蟹守(かにもり)掃守(かもり))+倭文(しとり)」の考え方を当てはめてみると理解しやすくなります。例えば、養蚕(ようさん)神社のハサミの奉納物は倭文(しとり)機綴(はたつづり)道祖神(どうそじん)の男性シンボル像は二上(ふたかみ)男神の縁結びにぞれぞれ対応します。



④「聖徳太子」の碑
 聖徳太子(上宮皇子(うえのみやのおうじ))は「以和貴(いわき)」、()(もっ)(たっと)しとなす、を定め、いわゆる当時最新の学問としての仏教を広めた人でありました。律令国家が目指した蝦夷(えみし)の恭順化においては重要な思想になったものと思われます。
 あまり知られていませんが、聖徳太子は子孫を多く残した人でもあります。(日本書紀では一族郎党(いちぞくろううとう)、蘇我氏に滅ぼされたことになっています。)
 太子が青年時代を過ごした明日香(あすか)には、それらしき伝承が残されています。(写真は明日香村立部(たちべ)定林寺(じょうりんじ)厩戸皇子(うまやとのみこ)の愛馬のつなぎ石。向こうに若き太子が熱心に通ったと伝えられる尼寺跡)

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