25)ヤマトと蝦夷の境界で生まれた馬頭の信仰

文字数 1,609文字

 古墳・飛鳥時代(~8世紀初頭)、奈良時代(8世紀)、平安時代(9世紀以降)と、前線が北上するとともに、ヤマトの影響が及んだ地域から順に、蝦夷(えみし)の人々との交易を通じて、支配に飲み込まれる以前から、文化的交流が進んでいたことが知られています。

 当初、戦いの最前線において蝦夷の人々は、随身(第21章)に見られるように、ヤマト武人の人馬一体の騎馬技術を人頭馬身の神業(かみわざ)として受けとめましたが、征夷の北上とともに馬の移入も進み、かつては神秘的なイメージだったものが、騎乗する人と馬の姿として現実化し、やがて乗馬技術や馬具の移入とともに、自らの乗馬、馬産技術として会得していったと考えられます。

 八世紀後半のものと推定されますが、青森県八戸市の丹後平(たんごたい)古墳群からは馬の埋葬墓・馬の歯、鹿島沢(かしまざわ)古墳群からは(くつわ)杏葉(ぎょうよう)などの馬具が出土しており、ヤマトと蝦夷の界面とその各後方地では、かなりのスピードで馬の移入が進んだようです。

 平安時代になると、おそらく南部馬に代表される蝦夷(陸奥国・太平洋側)の馬は優良との認識から、貴族らが競って買い求めたようです。
 阿武隈(あぶくま)川(福島県~宮城県)、最上(もがみ)川(山形県)、北上(きたかみ)川(岩手県~宮城県)、雄物(おもの)川(秋田県)、馬淵(まべち)川(岩手県~青森県)などの一級河川の中・下流域には、餌になる草が豊富で、(まき)(古代の牧場)に適した広大地が多くあったことが理由でしょう。
 また東北地方の南北に長い傾斜の多い内陸路の移動に馬は最適で、多頭飼育の中から性格面でも移動や輸送に適した馬が選別され、ひとつの馬種として比較的短期間で確立させやすかったこと、そして、それらの中から農耕馬などの使役馬として大型馬種や用途も広がっていったものと考えるのが自然です。

 騎馬、輸送、使役など。
 馬の用途が広がり事故やケガ、病気、さらには酷使などで命を落とす馬が増えるとともに、馬の成仏を願い弔う馬頭観音(ばとうかんのん)の信仰が、かつて蝦夷の人々の土地であった地方ほど深く浸透していったようです。
 馬頭観音は、路傍の馬頭形の立石(たていし)や石仏、木像、立像や坐像、乗馬像など多様なスタイルで、はじまりは大乗仏教、後に真言密教や宗派仏教と習合した各像容(ぞうよう)として、さらには民間信仰として定着していった様子がうかがえます。(写真:路傍の馬頭形の立石、岩手県遠野市で採集したものを国立民族学博物館で展示)


 真言宗(密教)や宗派仏教での木像物は数が少ないですが、石仏も含め、天冠台(てんかんだい)の正面に馬頭を掲げ、三面六臂(さんめんろっぴ)(顔三面に六本の手)、観音像では他にない憤怒の形相、馬口印(まこういん)がおおむね共通した特徴でしょうか。持ち物は宗派によって異なりますが、写真の左・中の真言宗二体は宝剣・斧・転法輪(てんぽうりん)・金剛棒のようです。
 (写真:左は福井県・中山寺(鎌倉時代)、中は同・馬居寺(まごじ)(平安時代)の木造馬頭観音坐像、真言宗。右は石川県・豊財院(ぶざいいん)(平安時代)の木造馬頭観音立像、曹洞宗。いずれも重要文化財)


 馬頭といえば、遠野に伝わるオシラサマを避けて通ることはできません。今一度、オシラサマ伝承を整理しておきましょう。

 

(岩手・遠野伝承、馬娘婚姻譚のパターン)

 これまでにたくさんの民俗学者・歴史学者が考察してきた有名な伝承ですが、私には、人頭馬身の神秘的イメージから始まり、人馬一体の姿への現実化、つまり、馬の幅広い利用に至るまでの(第23章~本章)、蝦夷の地における人と馬の歴史の変化、異文化の衝突と習合を象徴したストーリーのように思えてなりません。
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