28)仏教の浸透と本地垂迹

文字数 1,466文字

 奈良時代の半ば(743)、第45代聖武天皇の勅により、開墾地の永年私有を認める『墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)』が発布されて以降、蝦夷(えみし)の地にはヤマトのモノづくり文化とともに仏教もなだれ込んでゆきます。
 当時のヤマトの諸豪族、南都の仏教勢力(顕教(けんきょう))にとって東北日本は新天地・フロンティアで、現在の関東・甲信越を足掛かりに広大な陸奥国(むつのくに)出羽国(でわのくに)にモノづくり文化をもたらしつつ仏教化を図り、私有地としての初期荘園の開発に乗り出します。
 平安時代になると、弘法大師・空海の真言宗、伝教大師(でんきょうだいし)最澄(さいちょう)の天台宗の密教系も同じように進出します。
 真言宗は稲荷(いなり)信仰、天台宗は山王(さんのう)信仰(日枝(ひえだ)・日吉信仰)とともに北上し、在地の産土(うぶすな)として永らく鎮座していた神々の本地垂迹(ほんじすいじゃく)を説きながら神仏習合を進めてゆきました。
 本地垂迹とは、八百万(やおよろず)の神々は仏が化身となって日本の各地に現れた権現(ごんげん)であるという考え方です。
 例えば、下野国(しもつけのくに)(栃木県)生まれの慈覚大師(じかくだいし)円仁(えんにん)(第三代天台座主(ざす))は唐での放浪修行からの帰国後、関東・東北地域の神仏習合化に尽力し、関東に二百あまり、東北に三百あまりの寺を開山したと言われます(浅草寺、平泉中尊寺、恐山菩提寺(現在は曹洞宗)など)

 ここが本著のテーマであるアラハバキ解に深く関係するのですが、その際、縄文以来の信仰をベースに弥生時代に出雲、古墳時代に物部(もののべ)の信仰と、相当な時間をかけて混ざり合っていた蝦夷の信仰(古神道)を、顕・密の仏教が総力を挙げて、神仏習合の名のもと、書き換えてゆくことが行われたと考えられます。
 御祭神の書き換えとは、具体的には、本地垂迹の理論による仏教化です。
 特に密教系の巧妙な点は、いきなりの仏教の伝道では26・27章で紹介したオシラサマで伝承されるような在地の人々の反発が強く、また先行した顕教に対しても後発で不利であったため、稲荷信仰や山王信仰をワンクッション入れ、包囲を狭め、後に核心部分(古神道の社)の御祭神を本地垂迹を説きながら書き換えてゆくという、戦術ともいえる展開をしたあたりでしょうか。

 山王信仰は比叡山(ひえいざん)の麓の日吉大社が総本山ですが、天台宗の開祖・最澄が延暦寺(えんりゃくじ)を開基する時、もともと比叡山に鎮座していた大山咋神(おおやまくいのかみ)大物主神(おおものぬしのかみ)地主神(じぬしのかみ)として延暦寺の守護神としたことから始まったもので天台宗との関係は明白です。
 なお最澄が学んだ唐の天台山は、天帝が居る所、つまり、北斗の紫微星(しびせい)(北極星か?)を支える三台星(さんたいせい)の真下にある山という伝説があり、多くの僧・仙・道士が共棲した聖地でした。日本では北極星は真北の方位・導きの星であることから、同じく方位・導きの神である猿田彦(さるたひこ)と関連付けられ、山王信仰では神猿(まさる)を眷属とするようになったと推定されます。天台宗の宗紋は三台星を表す三ツ星の三諦章(さんたいしょう)です。(オリオン座の三星とは違います)

 (写真は伏見稲荷・稲荷山の千本鳥居)

 稲荷信仰は、稲荷山(いなりやま)の麓の伏見稲荷大社が総本山で、その由緒には渡来の秦氏(はたうじ)とともに、それよりも以前と考えられる荷田竜頭太(にだりゅうとうた)の伝承が残されています。稲荷山は神奈備(かんなび)の山でイワクラや

こん跡が見られ、稲作に関して、先住の出雲と後の秦氏の信仰の間で何らかの習合があったことが推察されます。弘法大師・空海は稲荷山に先住していた荷田竜頭太(竜の頭をした山の神の化身?)を、自身が開基した京都・東寺(とうじ)教王護国寺(きょうおうごこくじ))の竈戸殿(かまどでん)に招いたという古い説話が残されています。第9章で紹介した通り、弘法大師と(かまど)の神・荒神(こうじん)との関係は深いと考えていますが、ここにもその点と線を見ることができます。
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