32)アラハバキ解(4)京都伏見・稲荷山のこん跡
文字数 1,824文字
伏見稲荷大社は西から東に、正面鳥居-楼門-外拝殿-本殿が一直線に並びます。背後の稲荷山の各峰には明治期に盛んに建立されたお塚 と呼ばれる小社群が密集し、主に七ケ所の神蹟 を千本鳥居をくぐりながら巡ります。
四ツ辻を起点に、稲荷山七神蹟(お塚)とそれぞれの親塚の神名を確認しながら①から⑦まで左回りし、次のように考えてみました。
①春。田の神が荒神峰に御荒 れ(御生れ=降臨)(田中大神、神使は権太夫狐 )
※大社・配神の田中大神
②春。発芽させ苗代 造り(白菊大神 。縁結びと安産。白山 の菊理姫 を勧請 )
※大社・御祭神の大宮能売大神 (天之鈿女 )
③梅雨~夏。稲は青々とした葉を勢いよく伸ばす(青木大神 )
※大社・御祭神の佐田彦大神 (猿田彦 )
④今年の稲にもたくさんの実が入るように伊勢の神にお願いし(伊勢大神)
⑤秋。稲穂の実が大きくなり、末広がり「八」の字を描くように首 を垂れる(末広大神)
※大社・御祭神の宇迦之御魂大神
⑥収穫の合図は稲妻(劔石 はふるくは雷石 。上賀茂の賀茂別雷大神 を勧請)
※長者社の御祭神は賀茂玉依姫 (下鴨の御祭神)
⑦晩秋~冬。稲作の無事と豊穣を感謝し稲荷神に御膳をお供え(御饌石 )
稲荷山一巡で一年。伏見稲荷大社・配神の四大神 (四季)のタイムテーブルを巡って稲作の無事と豊穣を祈る空間として設計されていると考えられます。
私が弘法大師・空海が稲荷山の稲荷信仰の創生にかかわっていると考えるのは、荒神峰 に始まる巨大な祭祀空間設計のエレガントさです。
もしかすると高野聖 たちは全国を遊行 する前に東寺 に参拝し、あわせて稲荷山を一巡して稲作(原理)を学んだのかも知れません。
佐田彦大神は猿田彦(鼻高神 、写真手前)と考えられ、例えば日本神話や、椿大神社 (三重県)で妻神として対応するのが天之鈿女 ですから、大宮能売大神は天之鈿女と考えられます。
サルタヒコとアメノウズメの対応関係から、稲荷信仰の底流に男女一対のアラハバキ信仰があると理解することができます。宇迦之御魂大神は全過程を見守り、豊穣を守護する稲荷の最高神格(地母神 )でしょうか。
秦氏 以前の稲荷山は、出雲の水神と竜蛇神の要素をあわせ持つ荷田竜頭太 (信仰)の印象が色濃く、御神体山だった可能性が高く、つまり三ノ峰・二ノ峰・一ノ峰にはそれぞれにイワクラ群があったものと推理しています。
類似する大和三輪山 と比較して、⑦の御膳谷奉拝所 一帯、山北の谷側が遥拝所・登拝口であった可能性を考えて稲荷山を一巡し、薬力社 あたりに、かつてのアラハバキ信仰のこん跡が残されていました。(写真地図は上のマップを90度左に回転)
(写真↓:薬力社のあるお塚。鳥居左におせき社。中央向こうに石井社)
(写真↓:薬力社の「わらじ」の奉納物)
アラハバキのこん跡を探していない限り「おせき社-石井社-薬力社-わらじの奉納物」は一見脈絡がなく結びつくことはありません。
ところが、この組み合わせは、第4章、第6章で紹介した多賀城市の荒脛巾 神社のフィールドワークと解で考察したアラハバキ要素を含んでいます。
薬力社のわらじの奉納物は道祖神 の信仰を示しています。荒脛巾神社では「脛巾 」つまり履物を、長旅の道中安全や下半身全般の病気快癒 を祈って奉納されていましたが、薬力社では道の神としての意味は失われ、病気快癒の祈りに変化したと考えられます。
どのようにして薬力に特化したのかというと、荒脛巾神社の道祖神社の古い奉納物-男根 像-と、隣接する養蚕神社のハサミの奉納物(病の根を切る)をセットで考えるとわかります。
関東一円には、中世~近世において農地開拓や井戸の掘削 で、まれに出土した男根を模した石棒 (縄文時代)を石神 とし、その音と形が似ていることから「(子どもの)咳鎮 めの塩澤寺 の痰切りまっちゃんもこれに類似)
石神(石棒)像へのハサミの奉納は、痰を切る、咳を鎮める「おせき」に、さらには病を鎮める「薬力」に結びついていると考えることができます。
(写真↓:山梨県北杜市 、金生遺跡 。出土した立石タイプ・石棒のモニュメント)
荒脛巾神社と同様の信仰スタイルが稲荷山にもあった可能性が考えられ、ゆえに「おせき社」「石井社」「薬力社」が
四ツ辻を起点に、稲荷山七神蹟(お塚)とそれぞれの親塚の神名を確認しながら①から⑦まで左回りし、次のように考えてみました。
①春。田の神が荒神峰に
※大社・配神の
②春。発芽させ
※大社・御祭神の
③梅雨~夏。稲は青々とした葉を勢いよく伸ばす(
※大社・御祭神の
④今年の稲にもたくさんの実が入るように伊勢の神にお願いし(伊勢大神)
⑤秋。稲穂の実が大きくなり、末広がり「八」の字を描くように
※大社・御祭神の
⑥収穫の合図は稲妻(
※長者社の御祭神は
⑦晩秋~冬。稲作の無事と豊穣を感謝し稲荷神に御膳をお供え(
稲荷山一巡で一年。伏見稲荷大社・配神の
私が弘法大師・空海が稲荷山の稲荷信仰の創生にかかわっていると考えるのは、
もしかすると
佐田彦大神は猿田彦(
サルタヒコとアメノウズメの対応関係から、稲荷信仰の底流に男女一対のアラハバキ信仰があると理解することができます。宇迦之御魂大神は全過程を見守り、豊穣を守護する稲荷の最高神格(
類似する
(写真↓:薬力社のあるお塚。鳥居左におせき社。中央向こうに石井社)
(写真↓:薬力社の「わらじ」の奉納物)
アラハバキのこん跡を探していない限り「おせき社-石井社-薬力社-わらじの奉納物」は一見脈絡がなく結びつくことはありません。
ところが、この組み合わせは、第4章、第6章で紹介した多賀城市の
薬力社のわらじの奉納物は
どのようにして薬力に特化したのかというと、荒脛巾神社の道祖神社の古い奉納物-
関東一円には、中世~近世において農地開拓や井戸の
おしゃもじ様
」として小社に祀る信仰が残っています(東京都大田区・港区・青梅市、埼玉県北本市、神奈川県座間市など。甲府市湯村・真言宗の石神(石棒)像へのハサミの奉納は、痰を切る、咳を鎮める「おせき」に、さらには病を鎮める「薬力」に結びついていると考えることができます。
(写真↓:山梨県
荒脛巾神社と同様の信仰スタイルが稲荷山にもあった可能性が考えられ、ゆえに「おせき社」「石井社」「薬力社」が
そこ
に集まっていると考えることができます。