50)生玉と足玉。クニウミの景色

文字数 2,811文字

 十種神宝(とくさのかんだから)のうち、生玉(いくたま)足玉(たるたま)の手がかりは、御祭神を生島大神(いくしまのおおみかみ)足島大神(たるしまのおおみかみ)相殿神(あいどののかみ)三輪(みわ)大物主大神(おおものぬしのおおかみ)とする生国魂(いくたま)神社(難波大社(なにわのおおやしろ))にあります。
 生国魂神社はもともと、古代上町半島の水辺、現在の大阪城あたりに鎮座していましたが、豊臣秀吉の築城に際して、現在地(大阪市天王寺区生玉町)に遷座しました。
 なお、大物主大神は物部氏の関りと支配-出雲後物部(いずものちもののべ)-を示すと考えています(第48章)

 (地図:生國魂神社跡は大阪城大手門・お濠外の南側に記念碑)


 現在の大阪城天守閣一帯は、後世(戦国時代)に『石山(いしやま)』と云われた、おそらく縄文以来、出雲の弥生時代にも継承運営された御神体山(イワクラ群)があったところで、生國魂はその遥拝(ようはい)社だったと考えられます。
 豊臣期と徳川期の築城・(ほり)の掘削に伴う大規模な地形変更で、現在地図との比較が難しく、詳細地の特定は困難ですが、石山合戦配陣図(和歌山市立博物館蔵、※)が大坂城以前の、おおよその位置関係を理解するのに参考になります。亀ケ池という大池の南、鳥居マークの「生玉」がそれです。
 ※織田信長公の1570-1580年に作成された原図を模写した図。昭和17年。

 話は()れますが亀ケ池の北に「天王寺旧跡」の字も見え、元四天王寺・石山創建説の根拠でもあります。
 (資料:石山合戦配陣図の石山一帯を部分拡大。北を上に回転)


 航空写真の南東に見える物部守屋(もののべのもりや)の居館跡と伝えられる鵲森宮(かささぎもりのみや)は、玉作稲荷神社の北側、至近に鎮座しています。
 つまり石山一帯も、物部氏の支配地で、古墳時代の生國魂の祭祀を物部氏がとり行っていたと考えられます。(地図資料(第41章再掲):物部氏の支配エリアはイエロー線の南北。大阪歴史博物館パネル。同博物館は大阪城の近く)


 そのように考えるもうひとつの理由が八十島(やそしま)(まつり)(神事)です。
 鎌倉時代に途絶えたようですが、古い時代の新天皇の即位における国家祭祀であり、生島巫(いくしまのかんなぎ)と云われた特別な神職が、新天皇の着衣を箱に入れ、

と伝えられています(生國魂神社・略誌)。
 明らかにクニを生む自然の力を取り入れる意図があり、大変重要な神事といえるでしょう。


 当時の石山は、古代上町半島(現在の上町台地)の先端近く、西の難波津(大阪湾、瀬戸内海)、東の古代河内湖(かわちこ)の間、海退(かいたい)と堆積(第2章・第47章)でクニが「生」まれ、北に勢いよく「足」を伸ばして行くクニウミの現場でした。

 最初は水面にあらわれた小さな砂洲(さす)に鳥が種を運び、「(あし)」や(かや)などの水辺の植物が繁り、地を固め、いくつもの「八十島(やそしま)」が生まれては繋がりながら、大きな土地になり、人が入り「道」ができ、農耕と定住が始まり、豊かなクニに生れかわってゆきます。

 当時の人々は、そのような自然の摂理を-生島大神足島大神-神々の意思と捉えたことでしょう。そのクニウミの魂(生玉(いくたま)足玉(たるたま))を大王(おおきみ)の着衣に取り込むのが、八十島神事の本質であり、ゆえに「フル、布留」のだと考えます。
 着衣を振る時に、物部祭祀においてのもうひとつの重要なパーツ、鈴の音をリンリンと鳴り響かせたのではないかと想像しています。箱の中には現世とあの世を繋ぐ孔のあいた、大きくて特別な勾玉(生玉と足玉)も一緒に入れられていたのかも知れません。(【参考】第43章、唐古(からこ)(かぎ)遺跡・弥生の宝石箱)


 新しいクニの道(八衢(やちまた))には(しるべ)として、土・大地の性質の道祖神(どうそじん)を置き、良き「幸」を招き、悪しきものを「塞」ぎ、子孫繁栄と五穀豊穣を祈願します。
 すなわち、十種神宝(とくさのかんだから)道返玉(ちがえしのたま)死返玉(まかるがえしのたま)。サイノカミ信仰を継承した概念です。

 土地が生まれて人びとが住み始め、農耕とともに、モノづくりが盛んになり、ますますクニは栄えます。
 すなわち、十種神宝の蛇比礼(へみのひれ)蜂比礼(はちのひれ)品物比礼(くさぐさのもののひれ)。(具体的にそれぞれが何をあらわすのかは、まだ判りません。和薬、酒造、武具、農具、工具、その他生活に必要な品々、あるいは生業(なりわい)を考えています)

 物部氏は、古代上町半島の生國魂の社において、ヤマト出雲の時代(古墳時代前期、第46章)から、さらに祭祀を洗練し、様式化し、河内・巨大古墳の古墳中期以降の時代を主導してゆきます。

 その意味で、古墳時代中期より後の前方後円墳は、

、前期よりも物質世界(現世利益)に重きを置く方向で祭祀を運営したように思います。(第46章との比較)
 葬られる王は、復活(御荒(みあ)れ、御生れ)するだけでなく、復活した時、かつて自らが治めたクニが、さらに豊かになっている姿を夢見ながら眠りについたことでしょう。
 ゆえに生きている間に善き国を造る。古代の王家に課せられた帝王学だったのかも知れません。

 *****

 お気づきになったでしょうか。
 生玉と足玉のクニウミの景色はイザナギとイザナミの始まりの国生み神話、道返玉と死返玉はイザナギとイザナミの永遠の別れの黄泉比良坂(よもつひらさか)の神話をイメージさせます。

 国生み神話で、二神は天沼矛(あめのぬぼこ)で、ただ漂うだけの混沌とした大地をかきまぜ、矛から(したた)り落ちたものが積もって淤能碁呂島(おのころしま)(淡路島が定説?)が生まれたと書かれています。
 天沼矛が東の生駒山(哮峯(たけるがみね)、第49章十種祓詞(とくさのはられのことば)の中)から見下ろす古代上町半島のカタチを暗喩しているのでしょうか。
 生駒山からの視座ですと、晴天の見通しの良い日には、上町半島の向こう、西の海に浮かぶ淡路島が見えたことでしょう。

 黄泉(よみ)の国から戻ったイザナギが追いすがるイザナミらを閉じ込めるため、千人力を要する千引(ちびき)きの大岩で黄泉比良坂(よもつひらさか)を塞ぎますが、この大岩を、日本書紀では泉門塞之大神(よみどのさえのおおかみ)(サイノカミ)、道返大神(ちがえしのおおかみ)と呼称しています。

 こうして考察していますと、物部の十種神宝が、奈良時代に成立した記紀神話に非常に強く影響を及ぼしたことが推定され、つまり、生島大神(いくしまのおおみかみ)足島大神(たるしまのおおみかみ)が、イザナギ・イザナミのモデルになったと考えるようになりました。

 もう一社、生島大神・足島大神を祀るのは、生島足島神社(いくしまたるしまじんじゃ)(長野県上田市下之郷)。塩田平(しおだだいら)という古代千曲川(ちくまがわ)の湿地帯の中心の丘の上、かつてクニウミの景色が見られたところに鎮座しているのが生國魂神社との共通点でしょうか。
 諏訪(すわ)のタケミナカタ(第38章)が創建にかかわったとされる大変ふるい社で、つまり

であったことがうかがえます。(写真:生島足島神社と荒魂社(あらみたまのやしろ)。第7章の写真再掲)


 二社の直接的な関係はわかりませんが、古代・上町半島(上町台地)と信州・信濃は、古くは善光寺(ぜんこうじ)本田善光(ほんだよしみつ)の由緒(難波の堀江に棄てられた仏像を善光寺に持ち帰った)、また四天王寺の物部守屋祠(もりやのほこら)と善光寺の守屋柱(もりやのはしら)天王寺蕪(てんのうじかぶら)と野沢菜、近くは大阪冬・夏の陣の六文銭・真田幸村(さなだゆきむら)信繁(のぶしげ))の真田丸の活躍から安居(やすい)天神での終焉まで、何かと(ゆかり)のある地どうしです。
 (写真:四天王寺境内、野沢菜と天王寺蕪の由緒碑)
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