41)ヒスイのものづくり史(5)河内期・物部氏の興隆と難波玉作部

文字数 1,987文字

 物部氏は北部九州で勃興(弥生中期・紀元前二世紀あたりか?)し、出雲文化(都市国家群)と直接的な影響を及ぼし合いながら、おそらく紀元前後の太陽祭祀の東遷(第39・40章)あたりから王権に深く関わるようになったと考えられます。
 後に、丁未の乱(587年)で宗家(そうけ)物部守屋(もののべのもりや)の代で滅亡するまで日本古代史における長きにわたる物部氏の歴史を画期するため、本章の表題を河内期・物部氏(AD300年前後~587年)としています。

 硬玉ヒスイのモノづくり観点での考察において、明らかに物部氏が登場するのは古墳時代(AD300年代)の難波玉作部(なにわたまつくりべ)です。
 (写真:左は玉造稲荷神社・玉作岡の碑と神紋。右は玉祖神社・狛鶏と勾玉形の奉納物)


 第37章の冒頭で紹介した古代の上町半島の玉造稲荷(たまつくりいなり)神社(現在の大阪市中央区)、生駒山麓の玉祖(たまおや)神社(同・八尾市神立(やおし こうだち))の一帯。両社は仁徳期(AD300年代)には草香江(くさかえ)と称されていた古代河内湖の水路、あるいは、旧大和川の堆積で生まれつつあった平野部の陸路(玉祖道(たまのおやのみち))で繋がっていました。(図:大阪歴史博物館パネルに書き込み)


 現在の八尾市は古代河内国(かわちのくに)渋川郡(しぶかわのごおり)あたりで、河内期・物部氏(もののべし)の本拠であった弓削(ゆげ)が中心でした。(奈良時代の怪僧と伝えられる弓削道鏡(ゆげのどうきょう)の生誕地でもあります)
 八尾・弓削に加えて加美(かみ)鞍作(くらつくり)など、古代のウォーターフロントには軍事・祭祀にかかわるモノづくり地名が残されていますが、現在でも八尾市や隣接する東大阪市・大阪市平野区は、大阪中小企業のモノづくりの集積地です。
 地図の住吉津(住吉大社)から東の旧大和川に向かって進む八尾街道(やおかいどう)磯歯津路(しはつみち))に沿って、多米連(ためのむらじ)(稲作、紙衣(かみそ))や阿刀連(あとのむらじ)(水運)などの連姓(むらじせい)、つまり物部氏系の諸族(部民(べみん))のこん跡が点在しており、古代上町半島からヤマト方面に至る水路・陸路のほとんどを物部氏が掌握していたことを窺わせます。なお、阿刀氏は平安時代の弘法大師・空海の母方(玉依御前(たまよりごぜん))の家系となります。

 西暦400年代の古墳時代(中期)は『()五王(ごおう)時代((さん)(ちん)(さい)(こう)())』と言われますが、日本では第15代応神天皇から第25代武烈天皇までの期間に相当します。誰を誰に比定するかについては、ここでは触れませんが、いずれにしても、

し、行政全般、特に軍事・祭祀において王権の代執行者となり、巨大前方後円墳の造営の動員力と、それを支える広範なモノづくりの力を背景に、河内湖沿岸をほぼ掌握するほどに興隆しました。

 参考に書いておきますと、弥生最晩期に古墳が出現(AD200年代半ば)した後、古墳時代が始まり、①前期(AD250年以降)、②中期(AD300年代終わりから、倭の五王時代)、③後期(AD500年代以降)に画期されます。AD600年以降は飛鳥時代の古墳終末期とされています。①②③が纏向(まきむく)箸墓(はしはか)古墳をさきがけとした前方後円墳の時代、物部氏が河内国を掌握していたのは②③の時代です。

 実は古墳時代の副葬品でみる限り、弥生勾玉(やよいまがたま)のような硬玉ヒスイ(jade)の加工品は少なくなる一方、メノウ・碧玉(へきぎょく)・水晶の勾玉、あるいは、ガラス製勾玉(鋳型(いがた)品)などに材質・色彩ともに多様化します。
 では、ヒスイの玉作は衰退したのでしょうか。しかし、そうなると難波玉作部が存在したことと矛盾します。需要があるからこそ職人集団がそこに存続していたはずですから。
 この謎を解くカギが大阪府八尾市の玉祖神社の近くの心合寺山古墳(前方後円墳)から出土したヒスイ製の(ぞく)(装飾矢じり、7.4cm。写真左)です。(写真左:八尾市立歴史民俗資料館所蔵品の写真。右:韓半島南部出土品、博物館誌掲載[Arrowhead―shaped Jade]品。なおヒスイはよく知られた青緑系以外に黒・紫・白があります。矢じりはおそらく黒ヒスイ)

 ご覧の通り-

穿

-高度な熟練技術がないと造れないヒスイ製の(ぞく)は、八尾と韓半島南部の二個しか出土しておらず、それが意味することの答えはひとつです。八尾で造られたものが韓半島に渡ったということ、つまり、八尾の玉作集団(積組連(つぶくみのむらじ))を掌握していた物部氏は韓半島南部に足掛かりを持っていたということです。

 何のために?、また、拠点を持つことと硬玉ヒスイがどうして関係するのでしょうか?
 この点については次章で考察を書きますが、『三国志魏書東夷伝・弁辰条(さんごくしぎしょとういでん・べんしんじょう)』の次の一文が参考になります。
國出鐵 韓濊倭 皆従取之 諸市買皆用鐵 如中国用銭
 (弁辰の)国は鉄を産出し、韓・濊・倭(の人々)は皆、同じように鉄を採り、市では、中国で銭を用いるように、皆、鉄で買う。
 確実に言えることは、遅くともAD200~300年代には、半島南部に鉄を介した国際マーケットが存在しており、倭人も参画していたということです。
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