17)アラハバキ解(2)奥明日香 祭祀・信仰のこん跡

文字数 1,594文字

 まず、(くなと)について簡単に説明します。(くなと)は、八岐(やちまた)のように、道が分岐してゆく様子、あるいは分岐点のことを言います。
 (くなと)の「く」が「ふ」に転じて、奥明日香で「フナト」川の名になったようです。

 道をやってくる者、川水の流れに対して、分岐や滝などのある地点・境界をサカイ(際)として、良いものは受け入れ「(さい)」、悪いものは防ぐ「(さい)」。サイノカミ(幸の神)信仰の「サイ」は神名であり、言霊(ことだま)です。
 例えば「サイ」は、後の(小乗)仏教がひろがる中で、あの世とこの世の境目『(さい)の河原』の「サイ」になったりします。

 男の「陽物・塞」、女の「陰物・幸」という男女和合の結果の子孫繁栄、実を結ぶ五穀豊穣の祈願とも結びついているのが、フナト川(飛鳥川)のサイノカミ信仰、男綱(おずな)女綱(めずな)のカンジョ神事であることは容易に想像できます。

 フナト川流域・奥明日香の面白いところは、民間習俗として継承されてきたサイノカミ信仰を、川に架けられた男綱・女綱として、一年中見ることができるとともに、日本書紀で伝えられる皇極(こうぎょく)女帝の水の龍神祭祀の跡をあわせて見学できることです。このようにひとつところに古い信仰のスガタが

は、他にはないのではないでしょうか。

 14章~16章の皇極-斉明女帝の話を振り返って、ひとつの概念図として描き出してみました。(女帝の業績は、中央ヒト型から実線。関連する話は周囲に配置。番号は本著の章番号)



 図から、石神(しゃくじ)(14章)、サイノカミ(15章)、龍神(竜蛇神、16章)3つの信仰が要素として導き出されます。いずれもアラハバキの信仰に深くかかわるものです。
 ・男性のシンボルを遥拝する石神(しゃくじ)は、石棒(せきぼう)や丸石を造形した縄文以来の信仰で
 ・その和合イメージは再生への祈りを内包するサイノカミ信仰に通じ(第13章、長者ヶ原遺跡の例)
 ・(さい)(さい)の概念は、道祖神信仰のベースであり
 ・龍神(竜蛇神)の男龍と女龍の概念もまたサイノカミ信仰に通じます
 ・九頭龍(くずりゅう)は、川の分岐する様子を表しています(葛神社の拝殿に架けられていた木札)


 少し複雑ですが、推古女帝の時代にモノノベ神道が消滅し(丁未の乱)、巫女(みこ)大王(おおきみ)として、大乗仏教のプレッシャーがある中で、皇極-斉明女帝がいかに試行錯誤をしていたか、読み取れたらと思います。
 もちろん皇極女帝の時代、祈雨に関して当初は仏教の力に頼ろうとしたのですが効果が弱く、古神道式の祈祷(水の祭祀)をしたところ、おそらく彼女が驚くほどの効果があらわれ、また世の評価を得たことから、新しいスガタで神道を復活させる方向に舵を切ったのだと思います。そのこん跡が酒船石の遺跡群や狂心渠(たぶれごころのみぞ)だということです。
 酒船石遺跡の中腹で見つかった石積みは人工堤の遺溝の一部で、岡本宮の東、飛鳥の段丘(現在の大字岡)上に大きな人工湖を造り、そこから土管(ドビ)を引いて、亀型石造物と小判型石造物の装置を経由して運河の溝に繋がる「水を生み出す」仕組みを造ろうとしたと見ています。岡あたりでは、長い漏斗状の絞りのある円筒で、繋いで土中に埋めて使用された可能性のあるドビがいくつか出土しています。

 彼女がなぜこれほどの大規模な土木工事を決行したのかについては、狭山池(さやまいけ)(大阪府狭山市、日本最古のため池式ダム)の開発で、広大な下流域の水不足の解消に道筋をつけた推古女帝時代の実績に習おうとしたことが、主な動機だったのではないでしょうか。(写真は狭山池から大阪南部を眺望するジオラマ。下の写真は江戸期の状態の出水路。多量の古墳石棺が利用されています。大阪府立狭山池博物館)



 ではなぜ、皇極-斉明女帝がフナト川での祭祀を重視したのでしょうか。飛鳥川の源流なので当たり前ではあるのですが、奥明日香を舞台にした飛鳥時代の大王(おおきみ)は彼女と息子の天武天皇だけです。そこにアラハバキ信仰に結び付くと判断する理由があります。
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