49)物部の十種神宝【布留は振る】

文字数 2,638文字

 ヤマト創世記において物部氏(もののべし)布留(ふる)川流域を拠点とし、石上神宮(いそのかみじんぐう)(伝・崇神(すじん)天皇7年、奈良県天理(てんり)市布留町)を創建しました。(第19・47章、ヤマト古代豪族の勢力図を参照)
 【第44章の図再掲。布留(ふる)遺跡。天理参考館パネル。赤い線囲みが物部祭祀の核心エリア。天理教本部の真下。中央を流れるのが布留川。すぐそばに石上神宮】


 石上神宮は御祭神が布都御魂(ふつのみたま)、その魂が宿る布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)を御神体とします。社伝では素戔嗚尊(すさのおのみこと)八岐大蛇(やまたのおろち)を斬った十握剣(とつかのつるぎ)が、石上布都魂(いそのかみふつみたま)神社(岡山県赤磐(あかいわ)市)から石上(いそのかみ)(うつ)されたとも伝えられます。
 布都は「フツ」とモノを断ち切る音・様子を云うところから由来するとしており、物部氏の軍事、すなわち力による支配をあらわす言霊(ことだま)と考えてよいでしょう(経津(ふつ)も同じ)

 また、物部氏はヤマトの祭祀も支配しましたが、布留遺跡のこん跡とともに、石上神宮に伝わる祭式から、物部祭祀は「フル」を言霊としていました。布留という地名はそれに由来します。
饒速日命(にぎはやひのみこと)の子、物部氏の祖・宇摩志麻治命(うましまじのみこと)が神武天皇と皇后の長久(ちょうきゅう)を祈る際、天璽(あまつしるし)十種(とくさ)瑞宝(みづだから)を用いて鎮魂祭(みたまふりのみまつり)を斎行した」のが始まり(先代旧事本記(せんだいぐじほんき))で、玉の緒で結んだ十種の御魂(みたま)(瑞宝)を振動する(振る)祭祀でした(石上神宮、HP)

 石上神宮では、毎年11月22日の鎮魂祭(みたまふりのみまつり)、節分前夜の玉の緒(たまのお)祭において、神拝詞(しんぱいし・のりと)の中、十種祓詞(とくさのはらへのことば)で、いわゆる

として十種(とくさ)神宝(かんだから)が唱えられます。

 『高天原(たかまのはら)神留(かむづま)()す 皇親神漏岐(すめむつかむろぎ) 神漏美(かむろみ)(みこと)()ちて皇神等(すめがみたち)鑄顕(いあらは)(たま)ふ 十種(とくさ)瑞寶(みづのたから)を 饒速日命(にぎはやひのみこと)(さず)(たま)ひ 天津御祖神(あまつみおやのかみ)言誨(ことをしへ)(にり)(たま)はく (いまし)(みこと)この瑞寶(みづのたから)()ちて 豊葦原(とよあしはら)中國(なかつくに)天降(あまくだ)(まし)て 御倉棚(みくらたな)(しず)(おき)て 蒼生(あをひとぐさ)病疾(やまひ)(こと)あらば (この)十種(とくさ)瑞寶(みづだから)()ちて (ひと)(ふた)()()(いつ)(むゆ)(なな)()(ここの)(たりや)(とな)へつつ 布留部(ふるべ)由良(ゆら)由良(ゆら)布留部(ふるべ) かく(なし)ては(まかりし)(ひと)生反(いきかえ)らむと (こと)(をし)(たま)ひし(まに)まに 饒速日命(にぎはやひのみこと)天磐船(あまのいわふね)に乗りて 河内國(かわちのくに)河上(かわかみ)哮峯(たけるがみね)(あま)(くだり)(まし)(たま)ひしを 爾後(そののち)大和國(やまとのくに)山邊郡(やまのべのこおり)布留(ふる)高庭(たかにわ)なる石上(いそのかみの)神宮(かみのみや)(うつ)(しず)(いつ)(まつ)り 代々(よよ)()瑞寶(みづたから)御教言(みおしえごと)蒼生(あおひとぐさ)(ため)に 布留部(ふるべ)神辭(かむごと)(つかえ)(まつ)れり (かれ)この瑞寶(みづたから)とは 澳津鏡(おくつかがみ) 邊津鏡(へつかがみ) 八握劔(やつかのつるぎ) 生玉(いくたま) 足玉(たるたま) 死反玉(まかるがへしのたま) 道反玉(ちがへしのたま) 蛇比禮(へみのひれ) 蜂比禮(はちのひれ) 品々物比禮(くさぐさのもののひれ)十種(とくさ)を 布留御魂神(ふるのみたまのかみ)(とおと)(うあやま)(いつき)(まつ)ることの由縁(よし)を (たいら)けく(やすら)けく聞食(きこしめし)て 蒼生(あおひとぐさ)(うえ)(かか)れる災害(わざわい)(また)(もろもろ)病疾(やまい)をも 布留比除(ふるいの)(はら)()(たま)ひ 壽命(いのち)(なが)伊加志(いかし)八桑枝(やぐわえ)(ごと)()(さかえ)しめ常磐(ときわ)堅磐(かきは)(まも)(さきわ)(ため)へと(かしこ)(かしこ)みも(もう)す』

 (布留遺跡 祭場 復元(推定)。天理参考館。中央の小机で鎮魂祭が斎行されたのかも。『ひと ふた み よ いつ むゆ なな や ここの たりや ふるべ ふるべ ゆらゆらと ふるべ』『(当用漢字表記)興津鑑(おきつかがみ)辺津鑑(へつかがみ)八握剣(やつかのつるぎ)生玉(いくたま)足玉(たるたま)死反玉(まかるがえしのたま)道反玉(ちがえしのたま)蛇比礼(へみのひれ)蜂比礼(はちのひれ)品物比礼(くさぐさのもののひれ)』)


 十種神宝には、鏡が二、剣が一、玉が四、比礼(布)が三で、『鏡』『剣』『玉』の要素が含まれ、後世の三種の神器とも共通し、むしろ、その起源になったと考えられます。
 材質保存性の問題から、本来は比礼(布)を含む四種であったものが三種と解釈されるようになった可能性もありますが、三種の様式は、稲作文化・太陽祭祀の始まり、糸島(いとしま)平原(ひらばる)(第39章、弥生時代後期、平原弥生古墳)に起源を発し、前期以降、中期~後期の古墳時代の副葬品として、大王だけでなく地方首長クラスの前方後円墳でも広範囲に見られるようになります。

 つまり副葬品としての神器(鏡、剣、玉)は、前方後円墳に埋葬される大王や首長には必須であったということ。
 なぜ必須なのか。。。それを考える手がかりが十種祓詞、死者蘇生の言葉です。

 葬られた大王や首長が、やがて蘇生しこの世に戻ってくる、その祭祀が『ふるべふるべゆらゆらとふるべ・・・の祝詞と十種神宝による祭祀であり、

、すなわち、御荒(みあ)れの墓としての前方後円墳であったのではないでしょうか。
 たとえば、石室内を真っ赤な水銀朱で塗り固めるのは、再生した大王が迷わずに現生に戻れるように”赤=明るく”しておく意味があると思われます(←→ 黒=暗い、第11章)

 この理論は大王だけでなく、全国の首長からも絶大に支持されたことでしょう。なにしろ一度死んでも、また生き返ることができるんですから。
 ゆえに物部氏はそのニーズに応えるため、前方後円墳の築造に精を出し(第19・47章、ヤマト古代豪族の勢力図と前方後円墳の分布)、古墳時代の中期以降、さらに大王の権威に応じて古墳を巨大化、河内国をモデルとした大規模土木(治水灌漑)工事の時代、つまり、渡来技術文化の招聘による新しいモノづくり、クニづくりの時代へと疾走していった、というのがこの時代の全体的なシナリオです(第46-47-48章)

 十種神宝のそれぞれの意味について考えてきて、まだ十分とは言えませんが、現段階までに考察してきたことを書き出しておきます。
 まずは、二面の鏡(興津(おきつ)鑑、辺津(へつ)鑑)と一振の剣(八握(やつか)剣)について。
 鏡は太陽を映す水源の水鏡。興津は源流域の湧水地、辺津は下流域の河口あるいは入江。
 剣について、武力の象徴とする考え方もありますが、私はそう考えていません。
 興津(奥津、沖津)と辺津は、宗像(むなかた)大社や三輪山(みわやま)の祭祀空間に見られるように、宗像三女神(水神、龍神)の内の二柱の姫巫女神(ひめみこがみ)(タゴリヒメ、イチキシマヒメ)をあらわすと考えており、八握剣は、残り一柱の中津、つまり、タキツヒメと考えるからです。
 (画像:左)宗像大社の祭祀空間。右)三輪山の祭祀空間)


 ではなぜ剣のカタチをしているかというと、タキツヒメは川の中流域の『瀧、滝』をあらわしています。三輪山の中津磐座の近くには、禊ぎ(水垢離)のお滝場があります。また全国には数か所、多岐といわれるタキツヒメ(阿陀加夜努志多伎吉比売命(あだかやぬしたききひめのみこと))を御祭神とする神社があり、例えば、桃川(ももかわ)多伎(たき)神社(新潟県村上市)では、

となっています。(島根県の阿太加夜(あだかや)神社(松江市東出雲町出雲郷(あだかえ))の御祭神でもあります)



 武器としての剣であれば、冒頭に紹介した素戔嗚尊(すさのおのみこと)八岐大蛇(やまたのおろち)を斬った十握剣(とつかのつるぎ)でよいと思いますが、しかし道や川の分岐をあらわす『八衢(やちまた)(八岐)』を暗喩(あんゆ)する八握剣(やつかのつるぎ)としていることがポイントと考えています。

 この一点の発想の転換(武器ではない水の流れである)ができれば、全体として前方後円墳における蘇生(つまるところ不老不死)の祭式とあわせて、十種神宝の解釈がスムーズになります。
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