30)アラハバキ解(3)転法輪の秘密

文字数 1,528文字

 少々、話が拡散してきましたので、ここでいったん整理をしておきたいと思います。
 アラハバキに関して、これまで紹介してきたことも含めて俯瞰(ふかん)できるように(第一稿。顕教(けんきょう)の要素は入れていません。)
 青文字で強調したところが、第6章・解(1)宮城県多賀城(たがじょう)市・荒脛巾(あらはばき)神社で抽出したアラハバキ信仰の要素です。



 アラハバキ信仰を紐解(ひもと)く難しさは、まさにここにありという感じです。様々な要素が複雑に絡み合う中に埋もれてしまっています。
 ヤマトと蝦夷(えみし)の文化が衝突し混ざってゆく過程で、(けん)(みつ)の仏教が、蝦夷の古神道の御祭神を本地垂迹(ほんじすいじゃく)で書き換えたり、馬・稲作・養蚕(ようさん)などの文化技術と引き換えに教化転法(きょうかてんぽう)を奨めたりする中で、古来からの在地信仰に覆いかぶさってゆきましたが、それらの事象をまとめて考察するための試案として書き出しました。

 前章で飛鳥時代に始まる聖徳太子信仰は仏教を受容するための基礎教育、平安時代に始まる真言・天台の密教は応用教育と書きました。
 例えば馬の移入・伝播に伴い、太子信仰では殺生戒(せっしょうかい)をセットにして仏教的態度の素地をつくり、真言宗はそれを受けて、おそらく三宝荒神(さんぽうこうじん)(第9章、29章)を下敷きにした馬頭観音(第25章)の像容(ぞうよう)を編み出しました。屋内と屋外型があるのも共通点でしょうか。
 お気づきでしょうか。三面六臂(さんめんろっぴ)の像容は聖徳太子が推進した釈迦仏教の転法輪(てんぽうりん)をあらわしています。左右各三本・計六本の腕に、尊像の頭と身体は、八角の転法輪を表象します。
 転法輪とはインドの初転法輪(しょてんぽうりん)

-に由来しており、仏教の教義を理解するための基本概念とされています(四諦(したい)八正道(はっしょうどう)中道(ちゅうどう)=真理、正しい行い、対立や離反を離れていること)
 ここが太子の智慧(ちえ)かと思いますが、日本ではそれ以外の意味も含まれます。転法輪は太陽、そして、八方向に分岐する八街(やちまた)、つまり方位も表していると思われます。具体的には太陽信仰と熊野信仰の内包です。
 太子の『和を(もっ)(たっと)しとなす』という中道の思想、神仏習合の理念が、ここにあらわれているものと受け止めています。

 (写真:大阪 四天王寺 西大門 転法輪、無料写真ACより)


 (写真:国宝・信貴山縁起絵巻。天翔ける転法輪と『剣の護法』。おそらく太陽をあらわす)


 (写真:左は福井県・中山寺(鎌倉時代)、右は同・馬居寺(まごじ)(平安時代)、おそらく糸車に見立てた転法輪の他、道具を持つ木造馬頭観音坐像、真言宗系。重要文化財。馬居寺は聖徳太子が建立)


 





 宗教的なヤマトの蝦夷の地への北進(教化伝播)においては、出羽国(日本海側)ルートと陸奥国(多賀城からの内陸側)ルートのイメージに分かれるのですが、出羽は飛鳥時代の早い段階から崇峻(すしゅん)天皇暗殺後の蜂子皇子(はちこおうじ)能除大師(のうじょだいし))の動きにより、穏やかにヤマト文化が融合していったと考えられます。もちろん蜂子皇子の状況もあったのですが、その背景には厩戸皇子(うまやとのみこ)、つまり、聖徳太子の協力もあったことは想像に難くありません。
 厩戸皇子(574年生)は奈良県明日香村上居(じょうご)、蜂子皇子(推定562年生)は同・桜井市下居(おりい)、山ひとつで隣り合った「上」と「下」で青年期を過ごした歳の近いいとこ同士。二人には仏教を通じて深い交流があったと考えられます。
 桜井市下居の下居神社境内には、羽黒山(山形県鶴岡市)の下居社(おりいしゃ)との由縁を書いた石碑(平成5年)が建てられています。(写真:上は羽黒山・下居社。下は桜井市・下居神社境内の石碑)

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