33)慈覚大師・円仁の平安京結界
文字数 1,589文字
ここまで、主に真言密教を、稲荷信仰・アラハバキ信仰とのかかわりの観点で紹介してきましたが、いわゆるライバル関係にあった天台宗(天台密)は、アラハバキにどのようにかかわったのでしょうか。(第30章の表を再掲。アラハバキ解のフレームワークです。)
ご存じの通り、天台宗は伝教大師 ・最澄 が開基 した比叡山延暦寺 を総本山とし、顕 ・密 ともに発展しました。唐の長安 で恵果 (阿闍梨 )に学んだ空海の真言宗は密教に特化し東密 、一方、天台山で学んだ最澄の仏教の密教部門というほどの意味で台密 と称されています。遣唐使の同期ですが、空海が私費留学、最澄は公費留学であったところに、当時の朝廷の最澄に対する期待があらわれています。
国家鎮護のいわゆる国教的な扱いで朝廷の権威を背景に、第三代天台座主 、慈覚大師 ・円仁 (下野国 (現在の栃木県)の生まれ)の代に、蝦夷 の国々の在地の古い神々を本地垂迹 を説きながら書き換え、関東・東北地方を北進して行ったことは紹介した通りです。
延暦寺の荘園の拡大が最大の動機で、地方の大きな社を中心に次々に、神仏習合の神宮寺 (別当寺 、神護寺 とも)を開き、神官を兼務する別当を置き園地を管理しました。円仁の代だけで関東200あまり、東北300あまり、一説には700に上ると言われています。
この成功を契機に、天台宗は平安京で朝廷と結びついた大勢力となり、後に皇族や藤原氏嫡流 の公家 が延暦寺の座主を入れ替わり務めるようになりました(門跡 制、天台三門跡)。
話を円仁に戻します。
遣唐使としての円仁の道行 は波乱万丈(入唐求法巡礼行記 に詳しい)で、結局、目指す天台山に行くことができず、代わって五台山 と長安に巡礼求法 した後、紆余曲折がありつつも無事帰国し、故郷の下野国から国内教化の旅を始めます。苦労人だけに行動力と法話力に優れていたと見え、たいへん大きな業績を残し、実力で天台座主に上り詰めました。おそらく一種強引な手法に反発する勢力(円珍 )もあったと考えられ、山門派 として、寺門派 とされる派閥との抗争の矢面にも立ったようです。
円仁(794~864年)は亡くなる際に、おそらく、安慧 に遺言し、その遺命により創建(888年)されたのが、比叡山の西南の麓、修学院離宮にも近い赤山社 、現在は赤山禅院 と称される天台寺院です。
赤山禅院は、泰山府君 いわゆる赤山大明神 を御本尊とする比叡山延暦寺の塔頭 のひとつですが、重要なのは平安京の東北、いわゆる表鬼門 に位置していることです。なお禅院は禅宗とは関係がなく、神宮寺と同じような意味で命名されています。立派な鳥居があることから、もともとここには何かの社があったのかも知れません。(写真↓:赤山禅院、赤山鳥居と山門)
赤山禅院の境内に入ってすぐ、赤山大明神を祀る本殿の手前、御拝殿の屋根には金色に輝く神猿 像が籠に入れられて置かれています。
御拝殿 の手前、写真の左こちら側に小さな祠があり、先代の神猿が現役を見守るように安置されています。左手に鈴なり、右手に御幣 を持っています
天台宗は、延暦寺が創建される前に、比叡山で信仰されていた地主神を祀る日吉 の山王神 を守護神としていますが、その神使 であることから御拝殿の屋根に神猿を置いています。籠に入れられているのは、猿が夜な夜な騒がないようにするという意味があります。
境域を見張る神猿が見守る方向には、京都御所、東北隅の猿が辻。
猿が辻にも籠に閉じ込められた神猿が安置されています。
近くの案内板には『御所の築地塀 が折曲がった部分の屋根裏に、一匹の木彫りの猿が見られます。烏帽子 をかぶり御幣 を担 いだこの猿は、御所の鬼門 を守る日吉山王 神社の使者ですが。夜になると付近をうろつき、いたずらをしたため、金網を張って閉じ込められたといわれています』と紹介されています。
ご存じの通り、天台宗は
国家鎮護のいわゆる国教的な扱いで朝廷の権威を背景に、第三代天台
延暦寺の荘園の拡大が最大の動機で、地方の大きな社を中心に次々に、神仏習合の
この成功を契機に、天台宗は平安京で朝廷と結びついた大勢力となり、後に皇族や藤原氏
話を円仁に戻します。
遣唐使としての円仁の
円仁(794~864年)は亡くなる際に、おそらく、
平安京と御所を守護する結界を結ぶ
よう弟子の赤山禅院は、
赤山禅院の境内に入ってすぐ、赤山大明神を祀る本殿の手前、御拝殿の屋根には金色に輝く
天台宗は、延暦寺が創建される前に、比叡山で信仰されていた地主神を祀る
境域を見張る神猿が見守る方向には、京都御所、東北隅の猿が辻。
猿が辻にも籠に閉じ込められた神猿が安置されています。
近くの案内板には『御所の