24)馬の古代史
文字数 1,876文字
使役馬は不明な点が多いため、本章では主として乗馬・軍用馬の歴史を概略、考察します。
日本では、現存種8種、絶滅種(12種ぐらい)も含めて約20種の在来馬(和種馬)が、北海道・東北・関東・北陸・中部・四国・対馬・南九州・南西諸島で確認されています。いずれも人がそこに持ち込んで飼育したのが始まりとされています。
日本書紀のヤマトの征夷 の記録としては、第12代・景行天皇25年7月(西暦95年)、東方に派遣され視察から帰った武内宿禰 が「(東夷 は)土地が肥沃で馬が多くこれを取るべし」と報告したという記述が初出です。
ただ、武内宿禰は景行(弥生晩期)~成務~仲哀~応神(古墳時代前期)~仁徳の五代、の約280年もの間、忠臣として記紀(古事記では建内宿禰)に登場し続けた人物で、個々の話の信ぴょう性には疑問が残ります。
一方で、まだ多くのことが不明ですが、考古学的資料としては、少なくとも乗馬種は馬具・乗馬術とともに、古墳時代の畿内(河内)に輸入・飼育され、後の古墳・飛鳥・奈良・平安時代にヤマト王権の拡大とともに、主に軍用馬として支配域の辺縁部に拡大していったと考えることができます。(写真は笹鉾山 古墳群・馬と馬曳 きの埴輪、古墳時代)
武人系である武内がどこで馬を見たのかは不明ですし、馬具も乗馬術もない景行期の時代に(使役馬であるならばともかく)軍用馬という概念があったとは考えにくく、また、古墳時代以降の移入という考古学的事実と矛盾します。
つまり日本書紀の記述は書紀の成立期(奈良時代)の事情、つまり武内宿祢の英雄譚として、脚色されて書かれたと考えられます。(武内は多数の古代豪族の祖の祖という英雄的存在)
(写真↓:大阪府立近 つ飛鳥博物館・解説パネル)
(写真↓:大阪府立近つ飛鳥博物館展示・出土した埋葬馬の全身骨格。蔀屋北 遺跡)
武内宿祢は、現在の青森県北部で南部馬 を目撃したとする説もありますが、古墳時代においても北海道に馬のこん跡が見つかっていない事実は、ひとつの反証材料になります。なぜなら、津軽と渡島(道南)の縄文以来の活発な交流が様々な出土物(円筒土器、遮光器土偶)や遺構(土壙墓 )で確認されているにもかかわらず、使役馬としてすら道南に渡っていないというのは、とても考えにくい話です。現在の道産子 は、南部馬が祖先というのが定説ですからなおさらです。
道産子が確実に存在していた証拠(馬の骨)は西暦1500年前後(鎌倉末期)ということから考えても、南部馬の登場はどんなに早くても奈良時代から平安時代の間と推定されます。
したがって在来馬(和種馬)とされる南部馬も、元々は古墳時代の畿内から移入した馬種と考えてもよいのではないかと考えています。南部馬のほかに東北の在来馬(和種馬)は、北から秋田馬、最上馬(山形県)、仙台馬、三春馬(福島県)があげられますが、記録でも奈良時代をさかのぼることはなさそうです。(いずれも絶滅種)
さて、前章の続き。
人馬一体で天駆ける聖徳太子(厩戸皇子 )と、人頭馬身で描かれた坂上田村麻呂 公は、その人生の闘いの局面において、特に毘沙門天を奉祀し、また、不殺生を基本姿勢とした偉人という点が共通しています。
厩戸皇子が物部守屋 を破った丁未 の乱では、白膠木 で自作した四天王像に戦勝祈願し、戦後に四天王寺を創建しました(日本書紀、用明二年秋七月)。長じて仏の五心の一つ不殺生を説きました(殺生戒 )。また太子は毘沙門天を本尊とする朝護孫子寺 を開基。
若き田村麻呂は病気になった妻・高子の良薬(鹿の生血)を求めて音羽山 に入り、修行中の僧・延鎮 から殺生の罪を説かれ、後に征夷大将軍として蝦夷 平定後、無事、都に帰還した感謝に京都清水寺の大改修に尽力、観音像の脇侍に地蔵菩薩と毘沙門天の像を祀 りました。
この二人の生き方がヤマトの蝦夷に対する感化・統治政策において、おおいに利用されたものと考えられます。
毘沙門天は方位を護る四天王の中、北方守護の多聞天 であり、ヤマトから北方の蝦夷に対して、信仰と武力の示威の両面から、北方鎮護の毘沙門天にからめて聖人化、シンボルとされたのでしょう。
畿内にくらべて、関東・東北など東日本各地には駒形の地名や馬にまつわる信仰-謂 れ・信仰の始まりを考える時、
(写真↓:駒形の奉納。左)厳鬼山神社 右)大石神社(どちらも津軽・岩木山麓の神社))
日本では、現存種8種、絶滅種(12種ぐらい)も含めて約20種の在来馬(和種馬)が、北海道・東北・関東・北陸・中部・四国・対馬・南九州・南西諸島で確認されています。いずれも人がそこに持ち込んで飼育したのが始まりとされています。
日本書紀のヤマトの
ただ、武内宿禰は景行(弥生晩期)~成務~仲哀~応神(古墳時代前期)~仁徳の五代、の約280年もの間、忠臣として記紀(古事記では建内宿禰)に登場し続けた人物で、個々の話の信ぴょう性には疑問が残ります。
一方で、まだ多くのことが不明ですが、考古学的資料としては、少なくとも乗馬種は馬具・乗馬術とともに、古墳時代の畿内(河内)に輸入・飼育され、後の古墳・飛鳥・奈良・平安時代にヤマト王権の拡大とともに、主に軍用馬として支配域の辺縁部に拡大していったと考えることができます。(写真は
武人系である武内がどこで馬を見たのかは不明ですし、馬具も乗馬術もない景行期の時代に(使役馬であるならばともかく)軍用馬という概念があったとは考えにくく、また、古墳時代以降の移入という考古学的事実と矛盾します。
つまり日本書紀の記述は書紀の成立期(奈良時代)の事情、つまり武内宿祢の英雄譚として、脚色されて書かれたと考えられます。(武内は多数の古代豪族の祖の祖という英雄的存在)
(写真↓:大阪府立
(写真↓:大阪府立近つ飛鳥博物館展示・出土した埋葬馬の全身骨格。
武内宿祢は、現在の青森県北部で
道産子が確実に存在していた証拠(馬の骨)は西暦1500年前後(鎌倉末期)ということから考えても、南部馬の登場はどんなに早くても奈良時代から平安時代の間と推定されます。
したがって在来馬(和種馬)とされる南部馬も、元々は古墳時代の畿内から移入した馬種と考えてもよいのではないかと考えています。南部馬のほかに東北の在来馬(和種馬)は、北から秋田馬、最上馬(山形県)、仙台馬、三春馬(福島県)があげられますが、記録でも奈良時代をさかのぼることはなさそうです。(いずれも絶滅種)
さて、前章の続き。
人馬一体で天駆ける聖徳太子(
厩戸皇子が
若き田村麻呂は病気になった妻・高子の良薬(鹿の生血)を求めて
この二人の生き方がヤマトの蝦夷に対する感化・統治政策において、おおいに利用されたものと考えられます。
毘沙門天は方位を護る四天王の中、北方守護の
畿内にくらべて、関東・東北など東日本各地には駒形の地名や馬にまつわる信仰-
駒形山の信仰、遠野のオシラサマ伝説、馬頭観音など
-が圧倒的に多いですが、それらのカタチや人馬一体
・人頭馬身
のイメージが繰り返されているように思います。(写真↓:駒形の奉納。左)厳鬼山神社 右)大石神社(どちらも津軽・岩木山麓の神社))