18)斉明と天武。母子を支えた縄文血統の集落

文字数 2,193文字

 (本章および次章は飛鳥のアラハバキ信仰解明の背景となる諸情報を含めて、少し寄り道しながら書いています。)

写真は薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)。仏様が道教の仙人のように空中に浮かんでいるように表現されています。


 日本史で初めて天皇(すめらみこと)の言葉があらわれたのは、法隆寺の金堂に安置されている薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)光背銘文(こうはいめいぶん)冒頭です。
 『池邊大宮治天下天皇。大御身。勞賜時。歳次 丙午年池邊大宮(いけべのおおみや)で天下を治めておられた天皇がご病気であった。丙午の年(586年、用明期)のこと)』
 この銘文について様々な論争と諸説がありますが、私は素直に「池邊大宮(いけべのおおみや)で天下を治めておられた天皇」と尊称された人は用明天皇、つまり、聖徳太子(上宮皇子(うえのみやおうじ))のお父上と考えています。尊称したのは薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)を制作した百済(くだら)から渡来した鞍作(くらつくり)の仏師。現在の明日香村阪田あたりに居住していました。阪田には渡来集団・鞍作(くらつくり)氏の氏寺(うじでら)とされる阪田寺跡があります。
 当時、百済(くだら)は隣国の新羅(しらぎ)から絶え間ない侵略を受け、日本に支援を求めていましたが、一部の職業集団が国の行く末を案じ、すでに日本に避難してきていた時代です。彼らは自分らが信奉する仏教(道教思想が習合した百済仏教)に、日本ではじめて帰依(きえ)した用明大王に対し、中国王朝で最高の称号とされていた「天帝(てんてい)」を上回る『天皇(てんのう)』と尊称しました。
 光背銘文(こうはいめいぶん)は「この坐像はその用明天皇を供養するため、丁卯の年(607年、推古期)に小治田(おはりだ)大王天皇(だいおうてんのう)東宮聖王(とうぐうせいおう)によって造られた」と結んでいます。時期と文脈から大王天皇(だいおうてんのう)は推古女帝、東宮聖王(とうぐうせいおう)は聖徳太子ということになります。

 *****

 その約六十年後(673年)、壬申(じんしん)の乱に勝ち、日本ではじめて正式に天皇(すめらみこと)を名乗ったのが大海人皇子(おおあまのおうじ)天武(てんむ)天皇。
 以来、天皇と尊称する制は今日まで続いています。


 さて、天武天皇は斉明(さいめい)女帝の息子ですが、実はその生年と出自について論争があります。生年には614年、622~623年、626年と諸説があり、なぜそれが問題になるかというと、正史では同父(舒明天皇)・同母とされる天智天皇(中大兄皇子(なかのおおえのおうじ))との関係性に矛盾が生じるからです。626年説なら斉明女帝は双子を産んだことになります。一方、614年と622~623年説だと宝皇女(たからのひめみこ)だった斉明(さいめい)女帝が舒明(じょめい)天皇と再婚(626年ごろが有力)する前の子どもになります。宝皇女(たからのひめみこ)には漢皇子(あやのみこ)という前夫(用明天皇の孫の高向王(たかむくのおおきみ)とされる、生年・没年・事蹟不明)との間に連れ子があったことは知られていますが、生年・没年・事蹟とも不明。そこから天武天皇は漢皇子(あやのみこ)ではないかとする考え方が根強くあります。この論争について、少なくとも626年説が示唆するところの天智・天武天皇が双子であったとは、なぜか正史に記録もなく、つまり、事実であったとは思えません。

 よって私は614年説を含む「天智天皇よりも年上説」を採りますが、そう考える別の理由として、前章の最後で書いた「奥明日香を舞台にした飛鳥時代の大王(おおきみ)は彼女(宝皇女(たからのひめみこ))と息子の天武天皇だけ」という点を挙げます。
 中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)はわずかに飛鳥稲渕行宮(あすかいなぶちのあんぐう)仮宮(かりのみや)、奥明日香稲渕)に一時的に滞在したという説話はありますが、それだけです。
 かたや、大海人皇子(おおあまのおうじ)は奥明日香・入谷(にゅうだに)に彼を支持する

の集落があり「皇子は彼らに吉野行の相談をしたり協力を求めていたとされる」という伝承が今に伝わっています。(参考:明日香村の大字に伝わるはなし・入谷(にゅうだに)。位置は16章の地図を参照。栢森(かやのもり)の奥)
 入谷(にゅうだに)には大正期ごろまで、入谷千軒(にゅうだにせんげん)といわれる大集落があり、吉野と飛鳥をつなぐ交通の要衝(ようしょう)でした。壬申(じんしん)の乱のきっかけになった大海人皇子(おおあまのおうじ)剃髪(ていはつ)出家(しゅっけ)の吉野行はもちろん、天皇になった後のサララ姫(後の持統女帝)との吉野行幸のルート上にある集落でした。

 現在の入谷(にゅうだに)は十戸もない(くず)の生い茂る静かな集落。一番高いところに大仁保(おおにほ)神社(御祭神;罔象女神(みつはのめのかみ))。神社境内は展望台で大阪市内・あべのハルカスも見えます。


 入谷(にゅうだに)の「にゅう」は「丹生(にう)」すなわち水銀朱(すいぎんしゅ)に由来し、「入谷の海人族(かいじんぞく)は、漁、航海に優れた技術をもっていたとされるが、米作り、水銀採取も行った多彩な一族であったようである」と紹介されています。(参考:同上)

 驚くべき内容ですが、海人族が山奥に住みつき、飛鳥時代に至るまで入谷の集落で縄文血統を守ってきた証拠となる大変貴重な記録です。

 なぜ、「縄文血統の海人族-山奥-水銀朱(すいぎんしゅ)」が繋がるのか、それがわかる地図を作りました。


 渥美(あつみ)半島には旧石器時代から縄文時代に至る貝塚遺跡が複数見つかっていますが、そのうちの保美貝塚(ほびかいづか)から二上山(にじょうざん)で産出したサヌカイト製の石器が出土しています。同じく出土した縄文人男性の上腕骨は特異的に太く「漕ぎ舟による外洋での漁に加え、活発な海上物資輸送で鍛えられたため」という研究結果も報告されています。彼らは海路と中央構造線に沿った狭隘(きょうあい)な陸路を通って、はるか昔から交易移動していました。そのルート上にあるのが、吉野・国栖(くず)の里であり、入谷(にゅうだに)なのです。水銀朱は四国・九州を含めて、中央構造線に沿って産出することが知られています。ひとつ、伊勢神宮がこのライン上に鎮座していることも記憶しておいてください。

 このような地理的背景を頭に入れて、大海人皇子(おおあまのおうじ)・天武天皇と宝皇女(たからのひめみこ)斉明(さいめい)女帝の母子と、縄文血統・海人族との深い繋がりについて考察したいと思います。
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