04)フィールドワーク(多賀城・荒脛巾神社)

文字数 1,047文字

 ここまで、考え方だけではわかりにくいと思いますので、実際にアラハバキを(まつ)る神社を訪れてみましょう。
 宮城県多賀城(たがじょう)市の荒脛巾(あらはばき)神社です。
 奈良~平安時代の律令国家が、「まつろわぬ者」蝦夷(えみし)対峙(たいじ)した最前線が多賀城ですが、現在は国の特別史跡となっているその城跡(じょうし)のすぐ近くに鎮座しています。
 民俗学者の谷川健一(たにがわけんいち)氏も、当社を訪れ、アラハバキを考察しています。

 鳥居をくぐると、そばに多賀城教育委員会の説明板が立っているだけで、神社の御由緒書(ごゆいしょがき)は見当たりません。
 説明板には、創建時期が不明であること、旅の安全・足の神様として信仰されたこと、江戸期の史料から塩竃(しおがま)神社の末社として配置されたようであること、が書かれています。

 境内図を描いてみました。鳥居をくぐった正面に、二つのお(やしろ)が並び、その左側に聖徳太子と書かれた石碑と太子堂(たいしどう)があります。




 正面二つのうち、左のお(やしろ)は、前に荒脛巾社(あらはばきしゃ)、後ろに道祖神(どうそじん)という二連のたいへん珍しい構造で、まずそれがひとつ目の謎(①)です。
 右に養蚕(ようさん)神社、左の二連のお(やしろ)との間に「二荒神社」の石碑が建てられています。これが二つ目の謎(②)。
 三つ目の謎(③)は、荒脛巾社(あらはばきしゃ)の靴・履物、道祖神(どうそじん)の男性シンボル像、養蚕(ようさん)神社のハサミ、というバラバラでお互いに繋がりようのない奉納物、そして御利益(ごりやく)です。
 さらに、聖徳太子の石碑と太子堂(たいしどう)があること。日本には神仏習合(しんぶつしゅうごう)の時代がありましたから、お地蔵さんが神社にあることが謎ではありません。なぜ、この場所に聖徳太子を(まつ)るお(どう)があるのか、それが謎なのです(④)

 神社仏閣をよく巡り、一社一寺の全体を考察することを基本としていますが、神社の統一感や祭祀の整合性という点で、これほど理解不能な神社を参拝したことがありません。
 大阪に戻ってから約一か月半、アラハバキについての史料や先人の考察を読み、情報を集め、考えましたが、まさに、隔靴掻痒(かくかそうよう)をかく・・・厚い靴底からかゆいところを()いている感じが続きました。

 アラハバキというと、津軽(つがる)蝦夷(えみし)、つまり、古代東北の地域的な信仰祭祀という

があって、それが、考察の妨げになっていたことに気が付いたのは、意外にも、以前、奈良県のある静かな神社を参拝した時の資料を整理していた時でした。

 謎解きの手掛かりが、遠く離れた奈良にあること、そもそも、多賀城が古代律令国家(平城京・平安京の時代)と蝦夷(えみし)の文化がぶつかり合った最前線であったことを考慮していませんでした。

 いったん、ここ宮城県を離れ、奈良県に飛ぶことにします。
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