きみが見た未来 5
文字数 6,457文字
何事もなかったかのように静かな朝だった。窓に映り込む自分の顔を見て、マリーはいつの間にか外をぼんやりと眺めていることに気づく。小さくため息をついてからまた歩き出し、重い足取りで廊下を曲がった。
目的の部屋が近づいてきたとき、ドアがゆっくりと開く。
「あら、マリーちゃん」
医務室から出てきたのは遠子 だった。
「才 くんのお見舞い?」
「ええ。様子はどう?」
「まだ眠ってる。能力を使いすぎたせいだから、休んでれば問題ないってドクターが」
「それなら良かった。寝ているところを邪魔するのも悪いし、わたしは部屋に戻ることにするわ」
「良かったら、少しお茶でも飲んでいかない?」
そう言われて少し迷ったが、他にできることも思い浮かばない。
「そうね、ご一緒するわ」
マリーはうなずいて、遠子と一緒に歩き出す。エントランスのカフェスペースか食堂に向かうのかと思っていたが、到着したのはミーティングルームだった。
「お茶の用意するから、少し待っててね」
そう言われ、ソファーへと座らされる。見慣れたはずの部屋が別の場所のように感じ、何とも形容しがたい感情が、ざわざわと胸をかき乱した。
「トーコの薬を飲めば、サイは早く元気になるんじゃない?」
「そうかもね。だけど時には体が欲するまま、ゆっくり休むことも大切だと思うの。マリーちゃんは大丈夫? 無理してない?」
「……じっとしてると、嫌なことばかり考えちゃうの。でも、できることも思いつかないし」
「そういう時は、美味しいものでも食べましょう?」
そう言って遠子は、紅茶と一緒にケーキを持ってくる。
「今は食欲もあまりなくて……これ、駅前にあるお店のケーキ?」
「ええ。雨稜 さんが持ってきてくれたの」
「ウリョウが!?」
「昨日マスターが理沙 ちゃんのことを伝えたら、『お疲れさまでした、皆さんで食べてください』って」
「ウリョウもきっとショックが大きいでしょうに……」
「もちろん心配しているとは思う。マスターは『ゲート』の点検業務と並行して『ムー』の調査もしてるんだけど、雨稜さんも一緒に行ったみたい。エレナさんのことは知ってるかもしれないけど、色々と話を聞くためにジュノさんたちと一緒に彼らの世界に渡ったみたいね」
皆、それぞれが出来ることに向き合っている。何もしていない自分が腹立たしくもあるが、周囲からはしばらく休めと何度も釘を刺されていた。その理由も理解できる。力が枯渇してしまったかのような疲労感は中々取れてはくれない。
「……トーコは、無事だと思う?」
思わず口に出していた。その言葉が希望を吹き消してしまうような気がして、言ったことを強く後悔する。
「絶体絶命のピンチ。奇跡でも起こらない限り助からない」
はっと顔を上げたマリーに、遠子は微笑む。
「――でも、私たちにとっては、もう少し現実的なことだわ。だって祥太郎 くんはいまや一流の転移能力者で、理沙ちゃんは『気』のスペシャリストだもの」
そして彼女は、どこかで聞いたようなことを言った。
マリーは黙ってケーキを口に運ぶ。昨日はあのあと倒れこむように眠ってしまい、目覚めた時には夜になっていた。まともな食事も取っていない体に、甘味がじわりと染みこんでいく。
「わたしも、そう信じたい……」
遠子は知らないのだ。あの継ぎはぎされた闇に囲まれたときの絶望感を。
それでもマリーは、祈るようにつぶやく。
「リサ、ショータロー……どうか無事で、帰ってきて」
◇
名前を、呼ばれた気がした。
見えたのは無数の岩が針のように突き出す天井。周囲にはねっとりと濃い霧が立ち込めていて、およそこの世のものとは思えない景色だった。
――ああ、自分は死んだのか。
そんなことをぼんやりと思う。それともこれは、死ぬ前に見ている夢だろうか。近くにはこちらを覗く理沙の顔が見える。ほっとしたようなその笑顔が懐かしく感じた。
「……理沙ちゃん」
名前を呼んでみる。彼女は何かを言っているように見えたが、声がくぐもっていてよく聞き取れない。祥太郎は身動きも取れぬまま、こみ上げてきた思いを吐き出した。
「ぼ、僕と結婚してくださいぃぃぃぃぃ! ――いや違うな、まずは付き合ってくださいぃぃぃぃぃ!!!! ……い、生きてるうちにそういうこと言ってみたかった……」
言いながら涙があふれてくる。そんな祥太郎の頬が、両側から力強く引っ張られた。
「いでででででででっっ!」
痛みで急に意識がはっきりとしてくる。頭を動かした勢いで耳の中から何かが落ち、周囲の音も急によく聞こえるようになった。
「祥太郎さん、しっかりしてください! あたしたち、生きてるんですよ!」
「へっ……?」
あわてて起き上がろうとするが体は動かせない。よく見ると全身を何かでぐるぐる巻きにされている。
「えっ、なにこれ? 僕、ネギで縛られてるの?」
「ちょっと待ってくださいね。今外しますから」
理沙がそう言って解いてくれるが、やはりそれはやたらと長いネギにしか見えなかった。先ほど耳の穴から落ちたのも、小さくて短いネギだ。
「ありがとう。ええと……」
ゆっくりと起き上がって座り、深呼吸してからもう一度考えてみるが、何もまとまらない。助けを求めるように理沙を見ると、彼女も困ったような顔をした。
「あたしも同じようにネギ? で、ぐるぐる巻かれてて……自力で何とか脱出して、祥太郎さんがいるのも見つけたんです」
「僕たち、何者かに捕まったってことなんだろうか?」
「あたしもよくわかんないんですけど、いつの間にか元気になってるんですよね。だからどっちかというと、助けてくれたような気がします」
「えっ――あ、ほんとだ」
足の痛みは完全に引いていた。だがズボンはざっくりと裂けて乾いた血も付着している。あの時は体が思うように動かせず確認すら出来なかったが、怪我をしたのは記憶違いではないようだ。
もう一度あたりを見回してみる。そこは洞窟のような場所だった。岩肌がぼんやりと紫色に光っている。おかげで薄暗くはあるものの、お互いの姿や、近くに何があるのかを把握することは出来た。
「だけど助けてくれたって、誰が――あっ」
「なにか思い出したんですか?」
「僕、手を取ったんだ。才が、そんなことを言ってたから」
「手、ですか……?」
あの場所が崩壊し、もう終わりを受け入れかけた時。祥太郎は今度こそ二人を押しつぶそうとした巨大な塊の表面から伸びる、細い手を見たのだ。
それが何であろうが迷いはなかった。ただ必死で手を伸ばした。
「そういえば、あの手――」
――どこかで、見たことがある気がする。
そう考えたとき、甲高く耳障りな音が聞こえた。
「祥太郎さん!」
「うん」
声だ。それには聞き覚えがあった。
「隙間鬼 だ」
ねっとりとした霧をかき分けるようにして現れた隙間鬼は、両手いっぱいにネギのようなものを抱えている。それを見て理沙は警戒を少しゆるめ、問いかけた。
「もしかして……あたしたちを助けてくれたのも?」
「ギギギッ!」
隙間鬼は何度もうなずき、ネギを地面へドサっと置くと飛び跳ねる。理沙と祥太郎が思わず顔を見合わせたとき、地響きが起こった。それが何度か繰り返された後、小さな隙間鬼の背後から強大な影がぬっと現れる。
見上げるような巨体。こちらを見下ろす顔は、牙の生えた大きな口でニィっと笑う。
「あれ? もしかして、あたしたちが戦った隙間鬼さんじゃないですか?」
「じゃあ小さいのは、僕がその前に戦った『スピードスター』?」
それを聞いた二匹は上機嫌で足踏みを始めた。地震のような凄まじい揺れに、祥太郎だけではなく『スピードスター』までがひっくり返る。
「祥太郎さん、大丈夫ですか?」
「うん……ありがとう」
体力がすっかり回復した理沙が、この程度でバランスを崩すことはない。祥太郎が助け起こされる頃には揺れがおさまり、隙間鬼たちは何やら話し合いを始めた。
「揺らしすぎて怒られてるんですかね?」
「どうなんだろう。僕たちが隙間鬼に助けてもらったのは確かみたいだけど、何か企んでるんだろうか」
「もしかしたら、あたしたちが勝ったから親切にしてくれる……とか?」
ひそひそとやる二人を、再び揺れが襲う。だがそれは間もなく終わった。巨大な隙間鬼は去り、この場に残った『スピードスター』が手招きをする。
「呼んでますけど、どうします?」
「ここまで来たら、行くしかないよね」
二人は歩き出した『スピードスター』のあとをついていく。周囲の霧はどんどん濃くなっていくため、足元に注意しつつ、前を行く小さな背中を見失わないように進まねばならなかった。
それから十分以上は歩いただろうか。急に目の前が明るくなる。
「――なんだここ?」
祥太郎たちは岩肌から突き出すようにして作られた展望台のような場所に立っていた。そこから巨大な洞窟内が見渡せる。
「祥太郎さん、街ですよ!」
ここと同じく洞窟のあちこちにあいた穴から延びた道は、壁に沿ってカーブしたあと長い階段につながっていた。中央は大きくスペースがあいていて、まるでショッピングモールにある吹き抜けのようになっている。
遥か下に見える広場には円錐形をした建物がたくさん建っていた。一見するだけでも住居のようなものがあり、店がある。まさに街だった。
「人がいる!?」
祥太郎が驚いたのはそれだけではない。隙間鬼に混じって、明らかに自分たちと同じ人間がいる。
「みんな隙間鬼さんたちと勝負した人たちなんですかね?」
「どうだろう……? 能力者でもそれなりに強くないと勝てなさそうだけど」
だが、捕らわれてるようには見えない。隙間鬼も人間も同じように立ち話をして、買い物をして、遊んで、笑っている。
「ギイッギイッ!」
話し込む二人を急かすように、『スピードスター』が飛び跳ねる。祥太郎と理沙は再び進みだした小さな背中を追いかけた。
「あの、ところで」
祥太郎は視線を少し足元に向け、もじもじとしながら言う。
「さっきの話なんだけど……」
「さっきの話、ですか?」
「な、なんていうかその、忘れていただけると――あ、いや、でも、忘れられるのもちょっと寂しいというか、困るといいますか」
「あっ……なーんにも覚えてないので、大丈夫です!」
珍しくそっけない言い方に顔を上げると、理沙は街の方に視線を向けている。
「え、それって、覚えてるってことじゃ……?」
「だって生きてるうちに? 言っとけば? あたしじゃなくても? 誰でもよかったみたいですし?」
「ごごごごめん! そ、そんなつもりじゃなくて! ――こ、今度はちゃんと」
「ギギギギギィッ!」
「ほら、『スピードスター』さんも早く来いって怒ってますよ! とにかくまずは『アパート』に帰ってからの話です!」
「え、じゃあ――帰ったら話、聞いてくれるってこと……ですか?」
「と、とにかく! まずは帰るのが大事なんです!」
「ギャギャギャギャッ!」
言って走り出した理沙を、『スピードスター』も面白がって追いかけていく。
「ちょっと待って理沙ちゃん! ――うわめっちゃ速ぇ! 本気出し過ぎだって!」
祥太郎も必死で走る。その騒ぎに街の人々も気づいたが、まるで日常の出来事であるかのように穏やかに見守り、笑っていた。
◇
白い部屋だった。ぼやけていた全身の感覚は、波が引くように中心へと集まり、さめていく。
――医務室だ。
現実と記憶がようやく一致すると、才は体を起こし、走った頭痛に顔をしかめた。ベッドに寝かされ、点滴をされている。手足をそっと動かし、見える範囲を確認してみたが、他に異常はなさそうだった。
そこでふと視線を感じる。周囲に目を向けると、近くの壁にあった落書きのようなものがぺらりと剥がれた。
「ししょー、起きたっピ?」
棒人間だった。言葉を発せずにいる才の顔をじっと見て、ぴょんぴょんと嬉しそうに跳ねる。
「良かったっピ! 心配したっピよー!」
「おう……」
「ドクター! ししょーが起きたっピー!」
それから棒人間は、すぐにドクターを連れてきた。
「気がついたか、青年」
ドクターは才へと近づくと、銃のような形をした道具をカチカチとやり、銃口から出した光で何度か照らす。
「ししょー、だいじょぶだっピ?」
「そうだな、大丈夫と言って差し支えない」
「よかったっピーーーーー!!!!!」
「ドクター、ありがとな。俺、どのくらい寝てた?」
「ここへと運ばれてきてから三日になるな」
「そんなにか……」
生の実感が戻ってくると、これまでの記憶も一気によみがえってきて胸が苦しくなった。
「サイが目を覚ましたの?」
外から声が聞こえてくる。マリーだった。彼女はドアの隙間から遠慮がちにこちらを覗き、才と目が合うとほっとした表情となる。
「ああ。私と棒人間は向こうへ行っているから、ゆっくり話をするといい」
「ボクもカエル星から帰ってきたばっかりだからー、ししょーとお話したいっピー!」
駄々をこねる棒人間をつまみ上げ、ドクターは部屋を出ていった。マリーが入れ替わりに部屋へと入ってきて、ベッドの近くにあった椅子に腰かける。それから、少しぎこちなく微笑んだ。
「良かった。ずっと寝ていたみたいだから。調子はどう?」
「ああ、まだちょっとだるいが問題ない。迷惑かけちまって、ごめんな」
「迷惑だなんて……」
沈黙に空気が重くなる。才はまだ上手く働かない頭で言葉を探した。
「マリーちゃんは平気か?」
「わたしは、サイほど力を使っていないから。大したこと、できなかったもの」
「俺だって同じだよ。……なーんも出来なかった」
目頭がじわりと熱くなって、思わず片手で顔を覆う。必死でルートを探って、だがそれは次々潰されて――あの時と同じだった。そして結局、ここに祥太郎と理沙は居ない。元気に走り回っていた二人の幻がまぶたの裏へと浮かんだ。
「夢を……」
言葉にしかけたところで、喉が詰まったようになる。不審げにこちらを見たマリーに何気なく聞いた。
「すまん、なんでもない。そういやゼロは? 帰ったのか?」
「ええ、サイが寝てる間に。また改めて来るって」
「他には? 何か言ってなかったか?」
するとマリーは少し困惑した表情を浮かべながらも、それを伝える。
「ぼくは何にも言えないからってことをサイに伝えといて、みたいなことを言ってたわ」
「なんにも言えないから……」
「たぶん、気づかいの言葉だとは思うのだけれど」
才は首を振った。何かを言う代わりに、自らの中の『スクリーン』へと心の目を向ける。流れてゆくたくさんの『未来』。眺めているうちにやがて、雑踏の片隅にひっそりと咲く花のような『それ』に気づいた。
壊れ物を扱うかのように、慎重に意識を引き離す。息をついた瞬間、涙がこぼれ落ちた。
「……サイ?」
今度は笑いが込み上げてくる。涙を流しながら笑う才を見て、マリーはあわてて立ち上がった。
「サイ、どうしたの!?」
「いや、大丈夫だ。でも、言えねぇんだ。――言えねぇけど、大丈夫なんだ!」
「言えないけどって……?」
怯えるような表情を見せていたマリーの表情が、次第に明るくなっていく。
「まさか、大丈夫なの? そういうことでしょう?」
「そうだよ、そうなんだ! 大丈夫なんだ! 言えねぇけど!」
「聞けないけど……聞けないけど本当に良かった!」
「どうしたんだ二人とも!?」
涙を流し、抱き合って喜ぶ二人を、やってきたエレナたちが驚きの目で見る。しばらくどうしていいかわからず眺めていたが、マスターが急に「ああ」と手をたたいた。
「きっと今はわからないような良いことが、そのうちに起こるんじゃないかな? ――ね?」
それから人差し指を自分の唇に当て、遠子の方を見る。彼女はマスターの仕草を真似て微笑んだ。
そうして詳細は明かされないまま、気心の知れた仲間たちに希望が拡がっていく。
『隙間鬼』たちの手を借りて祥太郎と理沙が帰ってくるのは、もう少しだけ先の話である。
目的の部屋が近づいてきたとき、ドアがゆっくりと開く。
「あら、マリーちゃん」
医務室から出てきたのは
「
「ええ。様子はどう?」
「まだ眠ってる。能力を使いすぎたせいだから、休んでれば問題ないってドクターが」
「それなら良かった。寝ているところを邪魔するのも悪いし、わたしは部屋に戻ることにするわ」
「良かったら、少しお茶でも飲んでいかない?」
そう言われて少し迷ったが、他にできることも思い浮かばない。
「そうね、ご一緒するわ」
マリーはうなずいて、遠子と一緒に歩き出す。エントランスのカフェスペースか食堂に向かうのかと思っていたが、到着したのはミーティングルームだった。
「お茶の用意するから、少し待っててね」
そう言われ、ソファーへと座らされる。見慣れたはずの部屋が別の場所のように感じ、何とも形容しがたい感情が、ざわざわと胸をかき乱した。
「トーコの薬を飲めば、サイは早く元気になるんじゃない?」
「そうかもね。だけど時には体が欲するまま、ゆっくり休むことも大切だと思うの。マリーちゃんは大丈夫? 無理してない?」
「……じっとしてると、嫌なことばかり考えちゃうの。でも、できることも思いつかないし」
「そういう時は、美味しいものでも食べましょう?」
そう言って遠子は、紅茶と一緒にケーキを持ってくる。
「今は食欲もあまりなくて……これ、駅前にあるお店のケーキ?」
「ええ。
「ウリョウが!?」
「昨日マスターが
「ウリョウもきっとショックが大きいでしょうに……」
「もちろん心配しているとは思う。マスターは『ゲート』の点検業務と並行して『ムー』の調査もしてるんだけど、雨稜さんも一緒に行ったみたい。エレナさんのことは知ってるかもしれないけど、色々と話を聞くためにジュノさんたちと一緒に彼らの世界に渡ったみたいね」
皆、それぞれが出来ることに向き合っている。何もしていない自分が腹立たしくもあるが、周囲からはしばらく休めと何度も釘を刺されていた。その理由も理解できる。力が枯渇してしまったかのような疲労感は中々取れてはくれない。
「……トーコは、無事だと思う?」
思わず口に出していた。その言葉が希望を吹き消してしまうような気がして、言ったことを強く後悔する。
「絶体絶命のピンチ。奇跡でも起こらない限り助からない」
はっと顔を上げたマリーに、遠子は微笑む。
「――でも、私たちにとっては、もう少し現実的なことだわ。だって
そして彼女は、どこかで聞いたようなことを言った。
マリーは黙ってケーキを口に運ぶ。昨日はあのあと倒れこむように眠ってしまい、目覚めた時には夜になっていた。まともな食事も取っていない体に、甘味がじわりと染みこんでいく。
「わたしも、そう信じたい……」
遠子は知らないのだ。あの継ぎはぎされた闇に囲まれたときの絶望感を。
それでもマリーは、祈るようにつぶやく。
「リサ、ショータロー……どうか無事で、帰ってきて」
◇
名前を、呼ばれた気がした。
見えたのは無数の岩が針のように突き出す天井。周囲にはねっとりと濃い霧が立ち込めていて、およそこの世のものとは思えない景色だった。
――ああ、自分は死んだのか。
そんなことをぼんやりと思う。それともこれは、死ぬ前に見ている夢だろうか。近くにはこちらを覗く理沙の顔が見える。ほっとしたようなその笑顔が懐かしく感じた。
「……理沙ちゃん」
名前を呼んでみる。彼女は何かを言っているように見えたが、声がくぐもっていてよく聞き取れない。祥太郎は身動きも取れぬまま、こみ上げてきた思いを吐き出した。
「ぼ、僕と結婚してくださいぃぃぃぃぃ! ――いや違うな、まずは付き合ってくださいぃぃぃぃぃ!!!! ……い、生きてるうちにそういうこと言ってみたかった……」
言いながら涙があふれてくる。そんな祥太郎の頬が、両側から力強く引っ張られた。
「いでででででででっっ!」
痛みで急に意識がはっきりとしてくる。頭を動かした勢いで耳の中から何かが落ち、周囲の音も急によく聞こえるようになった。
「祥太郎さん、しっかりしてください! あたしたち、生きてるんですよ!」
「へっ……?」
あわてて起き上がろうとするが体は動かせない。よく見ると全身を何かでぐるぐる巻きにされている。
「えっ、なにこれ? 僕、ネギで縛られてるの?」
「ちょっと待ってくださいね。今外しますから」
理沙がそう言って解いてくれるが、やはりそれはやたらと長いネギにしか見えなかった。先ほど耳の穴から落ちたのも、小さくて短いネギだ。
「ありがとう。ええと……」
ゆっくりと起き上がって座り、深呼吸してからもう一度考えてみるが、何もまとまらない。助けを求めるように理沙を見ると、彼女も困ったような顔をした。
「あたしも同じようにネギ? で、ぐるぐる巻かれてて……自力で何とか脱出して、祥太郎さんがいるのも見つけたんです」
「僕たち、何者かに捕まったってことなんだろうか?」
「あたしもよくわかんないんですけど、いつの間にか元気になってるんですよね。だからどっちかというと、助けてくれたような気がします」
「えっ――あ、ほんとだ」
足の痛みは完全に引いていた。だがズボンはざっくりと裂けて乾いた血も付着している。あの時は体が思うように動かせず確認すら出来なかったが、怪我をしたのは記憶違いではないようだ。
もう一度あたりを見回してみる。そこは洞窟のような場所だった。岩肌がぼんやりと紫色に光っている。おかげで薄暗くはあるものの、お互いの姿や、近くに何があるのかを把握することは出来た。
「だけど助けてくれたって、誰が――あっ」
「なにか思い出したんですか?」
「僕、手を取ったんだ。才が、そんなことを言ってたから」
「手、ですか……?」
あの場所が崩壊し、もう終わりを受け入れかけた時。祥太郎は今度こそ二人を押しつぶそうとした巨大な塊の表面から伸びる、細い手を見たのだ。
それが何であろうが迷いはなかった。ただ必死で手を伸ばした。
「そういえば、あの手――」
――どこかで、見たことがある気がする。
そう考えたとき、甲高く耳障りな音が聞こえた。
「祥太郎さん!」
「うん」
声だ。それには聞き覚えがあった。
「
ねっとりとした霧をかき分けるようにして現れた隙間鬼は、両手いっぱいにネギのようなものを抱えている。それを見て理沙は警戒を少しゆるめ、問いかけた。
「もしかして……あたしたちを助けてくれたのも?」
「ギギギッ!」
隙間鬼は何度もうなずき、ネギを地面へドサっと置くと飛び跳ねる。理沙と祥太郎が思わず顔を見合わせたとき、地響きが起こった。それが何度か繰り返された後、小さな隙間鬼の背後から強大な影がぬっと現れる。
見上げるような巨体。こちらを見下ろす顔は、牙の生えた大きな口でニィっと笑う。
「あれ? もしかして、あたしたちが戦った隙間鬼さんじゃないですか?」
「じゃあ小さいのは、僕がその前に戦った『スピードスター』?」
それを聞いた二匹は上機嫌で足踏みを始めた。地震のような凄まじい揺れに、祥太郎だけではなく『スピードスター』までがひっくり返る。
「祥太郎さん、大丈夫ですか?」
「うん……ありがとう」
体力がすっかり回復した理沙が、この程度でバランスを崩すことはない。祥太郎が助け起こされる頃には揺れがおさまり、隙間鬼たちは何やら話し合いを始めた。
「揺らしすぎて怒られてるんですかね?」
「どうなんだろう。僕たちが隙間鬼に助けてもらったのは確かみたいだけど、何か企んでるんだろうか」
「もしかしたら、あたしたちが勝ったから親切にしてくれる……とか?」
ひそひそとやる二人を、再び揺れが襲う。だがそれは間もなく終わった。巨大な隙間鬼は去り、この場に残った『スピードスター』が手招きをする。
「呼んでますけど、どうします?」
「ここまで来たら、行くしかないよね」
二人は歩き出した『スピードスター』のあとをついていく。周囲の霧はどんどん濃くなっていくため、足元に注意しつつ、前を行く小さな背中を見失わないように進まねばならなかった。
それから十分以上は歩いただろうか。急に目の前が明るくなる。
「――なんだここ?」
祥太郎たちは岩肌から突き出すようにして作られた展望台のような場所に立っていた。そこから巨大な洞窟内が見渡せる。
「祥太郎さん、街ですよ!」
ここと同じく洞窟のあちこちにあいた穴から延びた道は、壁に沿ってカーブしたあと長い階段につながっていた。中央は大きくスペースがあいていて、まるでショッピングモールにある吹き抜けのようになっている。
遥か下に見える広場には円錐形をした建物がたくさん建っていた。一見するだけでも住居のようなものがあり、店がある。まさに街だった。
「人がいる!?」
祥太郎が驚いたのはそれだけではない。隙間鬼に混じって、明らかに自分たちと同じ人間がいる。
「みんな隙間鬼さんたちと勝負した人たちなんですかね?」
「どうだろう……? 能力者でもそれなりに強くないと勝てなさそうだけど」
だが、捕らわれてるようには見えない。隙間鬼も人間も同じように立ち話をして、買い物をして、遊んで、笑っている。
「ギイッギイッ!」
話し込む二人を急かすように、『スピードスター』が飛び跳ねる。祥太郎と理沙は再び進みだした小さな背中を追いかけた。
「あの、ところで」
祥太郎は視線を少し足元に向け、もじもじとしながら言う。
「さっきの話なんだけど……」
「さっきの話、ですか?」
「な、なんていうかその、忘れていただけると――あ、いや、でも、忘れられるのもちょっと寂しいというか、困るといいますか」
「あっ……なーんにも覚えてないので、大丈夫です!」
珍しくそっけない言い方に顔を上げると、理沙は街の方に視線を向けている。
「え、それって、覚えてるってことじゃ……?」
「だって生きてるうちに? 言っとけば? あたしじゃなくても? 誰でもよかったみたいですし?」
「ごごごごめん! そ、そんなつもりじゃなくて! ――こ、今度はちゃんと」
「ギギギギギィッ!」
「ほら、『スピードスター』さんも早く来いって怒ってますよ! とにかくまずは『アパート』に帰ってからの話です!」
「え、じゃあ――帰ったら話、聞いてくれるってこと……ですか?」
「と、とにかく! まずは帰るのが大事なんです!」
「ギャギャギャギャッ!」
言って走り出した理沙を、『スピードスター』も面白がって追いかけていく。
「ちょっと待って理沙ちゃん! ――うわめっちゃ速ぇ! 本気出し過ぎだって!」
祥太郎も必死で走る。その騒ぎに街の人々も気づいたが、まるで日常の出来事であるかのように穏やかに見守り、笑っていた。
◇
白い部屋だった。ぼやけていた全身の感覚は、波が引くように中心へと集まり、さめていく。
――医務室だ。
現実と記憶がようやく一致すると、才は体を起こし、走った頭痛に顔をしかめた。ベッドに寝かされ、点滴をされている。手足をそっと動かし、見える範囲を確認してみたが、他に異常はなさそうだった。
そこでふと視線を感じる。周囲に目を向けると、近くの壁にあった落書きのようなものがぺらりと剥がれた。
「ししょー、起きたっピ?」
棒人間だった。言葉を発せずにいる才の顔をじっと見て、ぴょんぴょんと嬉しそうに跳ねる。
「良かったっピ! 心配したっピよー!」
「おう……」
「ドクター! ししょーが起きたっピー!」
それから棒人間は、すぐにドクターを連れてきた。
「気がついたか、青年」
ドクターは才へと近づくと、銃のような形をした道具をカチカチとやり、銃口から出した光で何度か照らす。
「ししょー、だいじょぶだっピ?」
「そうだな、大丈夫と言って差し支えない」
「よかったっピーーーーー!!!!!」
「ドクター、ありがとな。俺、どのくらい寝てた?」
「ここへと運ばれてきてから三日になるな」
「そんなにか……」
生の実感が戻ってくると、これまでの記憶も一気によみがえってきて胸が苦しくなった。
「サイが目を覚ましたの?」
外から声が聞こえてくる。マリーだった。彼女はドアの隙間から遠慮がちにこちらを覗き、才と目が合うとほっとした表情となる。
「ああ。私と棒人間は向こうへ行っているから、ゆっくり話をするといい」
「ボクもカエル星から帰ってきたばっかりだからー、ししょーとお話したいっピー!」
駄々をこねる棒人間をつまみ上げ、ドクターは部屋を出ていった。マリーが入れ替わりに部屋へと入ってきて、ベッドの近くにあった椅子に腰かける。それから、少しぎこちなく微笑んだ。
「良かった。ずっと寝ていたみたいだから。調子はどう?」
「ああ、まだちょっとだるいが問題ない。迷惑かけちまって、ごめんな」
「迷惑だなんて……」
沈黙に空気が重くなる。才はまだ上手く働かない頭で言葉を探した。
「マリーちゃんは平気か?」
「わたしは、サイほど力を使っていないから。大したこと、できなかったもの」
「俺だって同じだよ。……なーんも出来なかった」
目頭がじわりと熱くなって、思わず片手で顔を覆う。必死でルートを探って、だがそれは次々潰されて――あの時と同じだった。そして結局、ここに祥太郎と理沙は居ない。元気に走り回っていた二人の幻がまぶたの裏へと浮かんだ。
「夢を……」
言葉にしかけたところで、喉が詰まったようになる。不審げにこちらを見たマリーに何気なく聞いた。
「すまん、なんでもない。そういやゼロは? 帰ったのか?」
「ええ、サイが寝てる間に。また改めて来るって」
「他には? 何か言ってなかったか?」
するとマリーは少し困惑した表情を浮かべながらも、それを伝える。
「ぼくは何にも言えないからってことをサイに伝えといて、みたいなことを言ってたわ」
「なんにも言えないから……」
「たぶん、気づかいの言葉だとは思うのだけれど」
才は首を振った。何かを言う代わりに、自らの中の『スクリーン』へと心の目を向ける。流れてゆくたくさんの『未来』。眺めているうちにやがて、雑踏の片隅にひっそりと咲く花のような『それ』に気づいた。
壊れ物を扱うかのように、慎重に意識を引き離す。息をついた瞬間、涙がこぼれ落ちた。
「……サイ?」
今度は笑いが込み上げてくる。涙を流しながら笑う才を見て、マリーはあわてて立ち上がった。
「サイ、どうしたの!?」
「いや、大丈夫だ。でも、言えねぇんだ。――言えねぇけど、大丈夫なんだ!」
「言えないけどって……?」
怯えるような表情を見せていたマリーの表情が、次第に明るくなっていく。
「まさか、大丈夫なの? そういうことでしょう?」
「そうだよ、そうなんだ! 大丈夫なんだ! 言えねぇけど!」
「聞けないけど……聞けないけど本当に良かった!」
「どうしたんだ二人とも!?」
涙を流し、抱き合って喜ぶ二人を、やってきたエレナたちが驚きの目で見る。しばらくどうしていいかわからず眺めていたが、マスターが急に「ああ」と手をたたいた。
「きっと今はわからないような良いことが、そのうちに起こるんじゃないかな? ――ね?」
それから人差し指を自分の唇に当て、遠子の方を見る。彼女はマスターの仕草を真似て微笑んだ。
そうして詳細は明かされないまま、気心の知れた仲間たちに希望が拡がっていく。
『隙間鬼』たちの手を借りて祥太郎と理沙が帰ってくるのは、もう少しだけ先の話である。