ふたり 1
文字数 3,436文字
「わ、わたし……?」
戸惑うマリーにはっきりとうなずいた後、ゼロの体から力が抜けた。倒れ込む体を、才 がしっかりと受け止める。
「そこの部屋にベッドがあったから運びましょう。祥太郎 くん、お願い」
「了解です!」
遠子 の指示により、ゼロの体は一瞬にして消えた。急に軽くなった自身の腕を眺め、才は長い息を吐く。
沈黙。ピリピリとした空気があたりを包み込んだ。しばらくすると遠子と祥太郎が戻ってくる。
「今はよく眠ってるわ。一応あとでドクターにも診てもらうけれど、大丈夫だと思う」
「げほっ……遠子さんの薬は相変わらずすごい臭いだなぁ。何もスプレー使わなくても」
「だって意識がないのに無理矢理飲ませるわけにもいかないじゃない」
二人のやり取りに、皆ほっと胸をなでおろした。遠子の意見が専門家並みに頼りになることは知っている。
「とにかく何ともないようで良かったわ。……それにしても、わたしが鍵ってどういうことかしら? ゼロさんが起きたら聞いてみないと」
「いや、無理かもな。あいつがああいう言い方したってことは、あれ以上は言えねーってことだ。少なくとも今はな。あれ以上のことは分からないか、あるいは言っちまえば俺たちが望む結果を得るための障害になりかねないと判断したか、そんなとこだろ」
「それって、才さんが前に遠子さんを『視た』って言うのと同じ感じですかね?」
「あー、そういえばそんなこともあったなぁ」
理沙 の言葉で、祥太郎も遠子がいなくなった時のことを思い出す。良い結果を招かないと判断したからこそ、才は時が来るまで仲間にも語ることをしなかった。
「ま、実際のとこは分かんねーけど、何にせよそこ突っ込んでも教えてはくれねーだろうな。だから俺らがやることはまず、その封筒の中に書かれてるっつー人物に当たってみることだ。だよな? エレナさん」
「……あ、うん。そうだね、サイくん」
「どうしたの? ママ。珍しくぼーっとして」
「ひとまず私はマスターに報告してこよう。後はよろしく頼む」
エレナはそう言うと軽く頭を下げ、忽然と姿を消した。
――まるで、逃げたみたいだな。
エレナは自嘲する。いや、逃げたのに変わりはない。そして報告をするまでに少しでも考える時間が欲しくて、こうしてわざわざ管理棟から少し離れた場所に降り立ち、人気のない場所を選んで歩いている。
情報を求めて奔走した。何も分からずともチリのように集まり、積み重なってきた違和感。それが今、ひとつの形になろうとしている。
◇
夕日に晒されるテラスは蒸し暑かった。けれども触れる空気に、色に、音に――少しずつ、秋の気配を宿している。
初めて訪れた時には驚いた日本の夏も、もう慣れたものだ。
「やっぱり、ここにいたの」
背後からした声にエレナは振り返る。そこにはマリーの姿があった。
「マスターに報告してくるって言ったきり帰ってこないんだもの。ママは考え事があると、ここに来るのよね」
「私はそんなに考え事があるような顔をしてたかい?」
「してたわ」
エレナは肩をすくめ、視線を外へと戻す。マリーはその横に並んで景色を一緒に眺めた。居住棟からも管理棟からも離れたこの場所は、忘れられたかのようにいつも人がいない。
「前も言ったことあるけれど、ここって何となくお祖母様の家を思い出すの。違うと言えば違うんだけれど」
「そうだね、全然違う。でも私も思い出すんだよ。不思議だね」
このテラスはアパートの中庭とも呼べる場所に面している。視界をさえぎるように生い茂る木々は、ここが街中であることを一瞬忘れさせた。
「……もう二十年近くも前のことになるのか」
エレナはそちらに目を向けたまま、ぽつりと語り出す。
「その頃の私は今と違って繊細だったからね。名家の重圧というやつに押しつぶされそうな日々だった。周囲からは進学したいならばウェールズの魔術大学へ、さもなければ結界師の修行に専念するようにと言われていたが、良い術師となるにはもっと広く世間のことを知る必要がある! とかなんとか御託を並べて、一般の大学に通えることになったんだよ。それまで大人しかった私が必死にまくしたてるものだから驚かれたね。母が口添えをしてくれたことが、一番大きかったのだろうけど」
マリーは黙ってうなずく。母が自身の過去を進んで話すことは珍しかった。
「母の友人宅にお世話になるという条件付きではあったものの、初めて家を離れ、家のしがらみからも解放された生活というのは、思った以上に私の視野を広げてくれた」
「大学は楽しかったのね」
「ああ、楽しかったよ。勉強も、友人や先生たちと過ごすのも」
次の言葉までには、少しだけ間があく。
「そして、ハロルドという男にも出会った」
マリーには聞き覚えのない名前だった。それでも胸の奥が予感にこわばる。
「ちょっとしたきっかけでね。話してみると、妙にウマが合ったんだ。少しシャイなところがあったけれど、愛嬌のある男だった。異能力者ではなかったが、私がそうだと知っても気にすることはなかったし、当然フォンドラドルードのことも知らない。それも心地よかったのだと思う。気がつけばよく一緒にいることが多くなった。すでに当時私は、自分の結界師としての限界を自覚していたんだが、そういった悩みも自然と打ち明けられた。転移能力者としての方向性を示してくれたのもハロルドだった」
エレナは、懐かしげに目を細めて遠くを見た。
「私たちは至極当然のように恋に落ち――そして間もなくして私は、新たな命を授かった」
それからその目は、マリーへと向けられる。
「ハロルドもとても喜んでくれていた。彼は幼い頃、記憶をなくした状態でさまよっていたところを発見され、施設で育ったらしいんだが、人一倍家族というものに憧れがあると言っていた。本当なら、考えなければならないことは色々あるんだが、あの頃はお互いに若かったからね。衝動に突き動かされるままに進んでいたんだ。……それから数日後のことだったかな。ハロルドが、姿を消したのは」
「どうして……?」
思わず出たマリーの声は、少しかすれていた。エレナは小さく首を振る。
「私もそう思ったよ。彼は寮で暮らしていたんだが、友人には買い物に行ってくると告げたきりだったらしい。すぐ警察にも相談したものの、足取りは一向につかめなかった」
「もしかしたら『ゲート』が開いて、それに巻き込まれたということはないかしら?」
「当然それも考えた。そちらは私の分野だしね。しかし当時あの周辺で『ゲート』や『いたずら角 』などが出現したという情報は得られなかった。もし出現していたのならば、他に巻き込まれたという人の話が出てきてもおかしくない」
あたりはもう、暗くなってきていた。星々の輪郭が徐々にくっきりと浮かび上がっていく。
「私はそれからもあちこちを探し回り、情報も集め続けた。けれども、何も分からなかった。事件や事故に巻き込まれたのでないならば、ハロルドは自ら去り、身を隠したのかもしれない。とめどない思いにも駆られ、毎日疲れ果てて……そうしたら、引っぱたかれた」
「ママが? 誰に?」
「私のママに」
エレナは、そう言って笑う。
「ある日、下宿先に帰ったら待ち構えていたんだ。『あなた、こんなことをするために大学に行きたかったの?』って。こうも言われたな、『今、本当に大切なものは何なのか考えてみなさい』。――目がさめたよ。私が大切にしなければならないのは、お腹の中の子と私自身の体だって、ようやく気づくことが出来た。それから私は大学を辞め、実家へと帰った。私はね、マリー。君を授かったことが本当に、ただただ嬉しかったんだ。だから君を産み、育てることに何の迷いもなかったよ」
「……ええ、それは身をもって知ってるわ」
「それなら良かった」
少しの間ふたりは、黙って虫の音を聞いていた。
「……ハロルドは、恐らく生きている」
「どこにいるか分かったってこと!?」
「果たして分かったと言えるのかどうか……私のことも覚えていないかもしれない。だが、あちらの世界にいるのだと思う」
「あちらの世界って?」
「こちらの世界と『大干渉 』を起こそうとしている世界」
「えっ!? どういうこと!?」
「突拍子もないことを言うと思われるだろうが……」
エレナの次の言葉で、マリーの混乱はさらに深まる。
「マリー。君は恐らく――こちらとあちら、両方の世界の血を引いている。きっとそれが、ゼロくんの言葉が意味するところだ」
戸惑うマリーにはっきりとうなずいた後、ゼロの体から力が抜けた。倒れ込む体を、
「そこの部屋にベッドがあったから運びましょう。
「了解です!」
沈黙。ピリピリとした空気があたりを包み込んだ。しばらくすると遠子と祥太郎が戻ってくる。
「今はよく眠ってるわ。一応あとでドクターにも診てもらうけれど、大丈夫だと思う」
「げほっ……遠子さんの薬は相変わらずすごい臭いだなぁ。何もスプレー使わなくても」
「だって意識がないのに無理矢理飲ませるわけにもいかないじゃない」
二人のやり取りに、皆ほっと胸をなでおろした。遠子の意見が専門家並みに頼りになることは知っている。
「とにかく何ともないようで良かったわ。……それにしても、わたしが鍵ってどういうことかしら? ゼロさんが起きたら聞いてみないと」
「いや、無理かもな。あいつがああいう言い方したってことは、あれ以上は言えねーってことだ。少なくとも今はな。あれ以上のことは分からないか、あるいは言っちまえば俺たちが望む結果を得るための障害になりかねないと判断したか、そんなとこだろ」
「それって、才さんが前に遠子さんを『視た』って言うのと同じ感じですかね?」
「あー、そういえばそんなこともあったなぁ」
「ま、実際のとこは分かんねーけど、何にせよそこ突っ込んでも教えてはくれねーだろうな。だから俺らがやることはまず、その封筒の中に書かれてるっつー人物に当たってみることだ。だよな? エレナさん」
「……あ、うん。そうだね、サイくん」
「どうしたの? ママ。珍しくぼーっとして」
「ひとまず私はマスターに報告してこよう。後はよろしく頼む」
エレナはそう言うと軽く頭を下げ、忽然と姿を消した。
――まるで、逃げたみたいだな。
エレナは自嘲する。いや、逃げたのに変わりはない。そして報告をするまでに少しでも考える時間が欲しくて、こうしてわざわざ管理棟から少し離れた場所に降り立ち、人気のない場所を選んで歩いている。
情報を求めて奔走した。何も分からずともチリのように集まり、積み重なってきた違和感。それが今、ひとつの形になろうとしている。
◇
夕日に晒されるテラスは蒸し暑かった。けれども触れる空気に、色に、音に――少しずつ、秋の気配を宿している。
初めて訪れた時には驚いた日本の夏も、もう慣れたものだ。
「やっぱり、ここにいたの」
背後からした声にエレナは振り返る。そこにはマリーの姿があった。
「マスターに報告してくるって言ったきり帰ってこないんだもの。ママは考え事があると、ここに来るのよね」
「私はそんなに考え事があるような顔をしてたかい?」
「してたわ」
エレナは肩をすくめ、視線を外へと戻す。マリーはその横に並んで景色を一緒に眺めた。居住棟からも管理棟からも離れたこの場所は、忘れられたかのようにいつも人がいない。
「前も言ったことあるけれど、ここって何となくお祖母様の家を思い出すの。違うと言えば違うんだけれど」
「そうだね、全然違う。でも私も思い出すんだよ。不思議だね」
このテラスはアパートの中庭とも呼べる場所に面している。視界をさえぎるように生い茂る木々は、ここが街中であることを一瞬忘れさせた。
「……もう二十年近くも前のことになるのか」
エレナはそちらに目を向けたまま、ぽつりと語り出す。
「その頃の私は今と違って繊細だったからね。名家の重圧というやつに押しつぶされそうな日々だった。周囲からは進学したいならばウェールズの魔術大学へ、さもなければ結界師の修行に専念するようにと言われていたが、良い術師となるにはもっと広く世間のことを知る必要がある! とかなんとか御託を並べて、一般の大学に通えることになったんだよ。それまで大人しかった私が必死にまくしたてるものだから驚かれたね。母が口添えをしてくれたことが、一番大きかったのだろうけど」
マリーは黙ってうなずく。母が自身の過去を進んで話すことは珍しかった。
「母の友人宅にお世話になるという条件付きではあったものの、初めて家を離れ、家のしがらみからも解放された生活というのは、思った以上に私の視野を広げてくれた」
「大学は楽しかったのね」
「ああ、楽しかったよ。勉強も、友人や先生たちと過ごすのも」
次の言葉までには、少しだけ間があく。
「そして、ハロルドという男にも出会った」
マリーには聞き覚えのない名前だった。それでも胸の奥が予感にこわばる。
「ちょっとしたきっかけでね。話してみると、妙にウマが合ったんだ。少しシャイなところがあったけれど、愛嬌のある男だった。異能力者ではなかったが、私がそうだと知っても気にすることはなかったし、当然フォンドラドルードのことも知らない。それも心地よかったのだと思う。気がつけばよく一緒にいることが多くなった。すでに当時私は、自分の結界師としての限界を自覚していたんだが、そういった悩みも自然と打ち明けられた。転移能力者としての方向性を示してくれたのもハロルドだった」
エレナは、懐かしげに目を細めて遠くを見た。
「私たちは至極当然のように恋に落ち――そして間もなくして私は、新たな命を授かった」
それからその目は、マリーへと向けられる。
「ハロルドもとても喜んでくれていた。彼は幼い頃、記憶をなくした状態でさまよっていたところを発見され、施設で育ったらしいんだが、人一倍家族というものに憧れがあると言っていた。本当なら、考えなければならないことは色々あるんだが、あの頃はお互いに若かったからね。衝動に突き動かされるままに進んでいたんだ。……それから数日後のことだったかな。ハロルドが、姿を消したのは」
「どうして……?」
思わず出たマリーの声は、少しかすれていた。エレナは小さく首を振る。
「私もそう思ったよ。彼は寮で暮らしていたんだが、友人には買い物に行ってくると告げたきりだったらしい。すぐ警察にも相談したものの、足取りは一向につかめなかった」
「もしかしたら『ゲート』が開いて、それに巻き込まれたということはないかしら?」
「当然それも考えた。そちらは私の分野だしね。しかし当時あの周辺で『ゲート』や『
あたりはもう、暗くなってきていた。星々の輪郭が徐々にくっきりと浮かび上がっていく。
「私はそれからもあちこちを探し回り、情報も集め続けた。けれども、何も分からなかった。事件や事故に巻き込まれたのでないならば、ハロルドは自ら去り、身を隠したのかもしれない。とめどない思いにも駆られ、毎日疲れ果てて……そうしたら、引っぱたかれた」
「ママが? 誰に?」
「私のママに」
エレナは、そう言って笑う。
「ある日、下宿先に帰ったら待ち構えていたんだ。『あなた、こんなことをするために大学に行きたかったの?』って。こうも言われたな、『今、本当に大切なものは何なのか考えてみなさい』。――目がさめたよ。私が大切にしなければならないのは、お腹の中の子と私自身の体だって、ようやく気づくことが出来た。それから私は大学を辞め、実家へと帰った。私はね、マリー。君を授かったことが本当に、ただただ嬉しかったんだ。だから君を産み、育てることに何の迷いもなかったよ」
「……ええ、それは身をもって知ってるわ」
「それなら良かった」
少しの間ふたりは、黙って虫の音を聞いていた。
「……ハロルドは、恐らく生きている」
「どこにいるか分かったってこと!?」
「果たして分かったと言えるのかどうか……私のことも覚えていないかもしれない。だが、あちらの世界にいるのだと思う」
「あちらの世界って?」
「こちらの世界と『
「えっ!? どういうこと!?」
「突拍子もないことを言うと思われるだろうが……」
エレナの次の言葉で、マリーの混乱はさらに深まる。
「マリー。君は恐らく――こちらとあちら、両方の世界の血を引いている。きっとそれが、ゼロくんの言葉が意味するところだ」