調和の聖女 3
文字数 3,712文字
大きな扉を開けて中へと入ると、調和の聖女は白い肘掛椅子に腰かけ、こちらを見下ろしていた。静謐 な空間に描かれた絵画のようなその姿に、皆一瞬、息を呑む。
「……どうなさいましたか?」
彼女は座したまま穏やかに言った。
その手には、彼女の背丈と同程度の長さはありそうな杖が握られている。世話係が持っていたのと同じく、先は天秤のようになっていて、皿の代わりに鐘がついていた。
「先に言っておきますが、わたくしにその眠りの粉は効きません」
「杖の効果ですか? でもお世話係さんたちはみんな寝ちゃいましたよ。遠子 さんの薬は特製ですから」
「小さな『無垢 の杖』でも、きちんと使用すれば無効化できるはずですけれどもね。彼女たちは、トレーニングは受けていても、実戦経験はないに等しいので。それにしてもその薬、どこに隠し持っていたのでしょうか。報告にはありませんでしたけれど」
「……あの町でAFOに襲われた後、身体検査をされたのね」
マリーの言葉に、聖女は首を少し傾ける。半透明のベールが揺れた。
「当然でしょう。危険物を持ち込まれては困りますから。もっとも、今回は見落としがあったようですが」
「それより、祥太郎 さんはどこですか?」
「祥太郎のことは、こちらにお任せください。あなたがたは新宿への『道』を通ってお帰りを」
「祥太郎に、何する気なんだ――ですか」
弱腰な才を見て少し笑いながらも、彼女は繰り返す。
「たった今お伝えしたとおりです。こちらにお任せください。今ならこの暴挙のことは不問にして差し上げます」
「わたしたちが何らかの作戦を邪魔したからですか? でも何も知らなかったし、ただショッピングに行っただけなのに」
「そのことは咎 めておりません。あなたがたのように、巻き込まれただけの善良な異能者がこちらにやって来ることもあります。その場合はすぐに帰っていただいていますから」
「じゃあどうして、ショータローは帰れないのですか? ショータローだってわたしたちと一緒に巻き込まれたにすぎません!」
「あいつが善良じゃねーって? あんな無害なヤツいねーだろ!」
「――それは、あなたがたが決めることではありません」
それまで柔らかだった声の響きが、真冬の水のように冷える。
それが合図だったかのように、人影が動いた。――遠子 だ。彼女は真っすぐ、聖女のいる場所へと向かう。
「遠子さん!」
理沙 もそれを追うようにして走った。聖女は無言で杖を持ち上げ、床へと突き立てる。重い音とともに、りぃぃぃんと上部の鐘が澄んだ音色を響かせた。
「きゃっ」
理沙の足がもつれて転ぶ。とっさに手をつこうとしたが上手く行かず、顔面から硬くなめらかな床へと突っ伏した。
「理沙ちゃん大丈夫か!? ――いてっ!」
「才さんこそ大丈夫ですか?」
「くそっ! 体が重くていうことをきかねぇ! 能力弱められてるってだけでも厄介なのによ!」
「今ので、能力も完全に封じられてしまったかもしれないわ……この部屋を出れば少しはマシになるかもしれないけれど」
マリーは目だけを動かして背後を見る。入ってきたばかりの扉が、とてつもなく遠くにあるような気持ちがした。
それよりも――と、前へ視線を戻す。
「今は、トーコに任せるしかない」
彼女は、変わらぬスピードのまま走っていた。迫りくるその姿に、聖女も少なからず動揺しているように見える。
「……いくわよ!」
そして、遠子が跳んだ。
肘掛椅子から立ちあがった聖女へと、手を伸ばす。
「無駄なことです!」
しかしその手は素早くかわされ、再び杖が鳴らされた。
その瞬間、理沙も才もマリーも、声をあげることすら出来ずに地面へと突っ伏す。体からエネルギーが一気に抜け落ちたかのように頼りなく、空気でさえ重く感じる。
「とおこ……さん……!」
理沙はぎりぎりと奥歯を噛みしめながら、全身の力を振り絞って目を上げた。
視界の中で、崩れ落ちていく遠子。聖女のベールがまくれ上がり、微笑みを浮かべた口元が見える。
――その直後だった。
「おぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!!!」
下品な音をあたりに響かせながら、
「――なっ!?」
混乱する聖女へと、吐き出された方の遠子が襲い掛かる。
とっさに引かれた『無垢の杖』。しかし遠子がつかんだのは、聖女のベールだった。
「もらったわ!」
彼女はそのままベールをはぎ取ると、床を何度か転がり、そして立ちあがる。
「棒人間 ちゃん、もう大丈夫よ。ありがとう」
「と……遠子さんさんは、ボクづかいが荒いんだっピ……」
床に倒れていた方の遠子の姿はぼろぼろと崩れ、やがて骨のように細い黒い線となった。
「え? え? どゆこと?」
「ししょー! ししょーも元に戻れて良かったっピね! 感動の再会のハグなんだっピ! ――いてっ! なんで殴るっピ!? いけずだっピ!」
「杖の効力も消えたみたいね。良かった。詳しい話はあとよ」
遠子は言って、床に倒れたままの聖女を見る。目を開けることはなかったが、呼吸はしていた。そこに、眠りの粉をそっとかける。
「さぁ、これであなたの聖女様は何も語れなくなったわ!」
それから部屋の奥、祭壇へと向かって声をあげた。
「そこに居るのはわかってるの。いい加減、出てきたらどう?」
しばらくの間、静けさが場を支配する。
このまま何も起こらないのではないか――そう思えてきた頃、かたり、とどこかで音がした。
「……しかたないのです」
聞こえてきたのは、あまりにも場にそぐわない声だった。
祭壇の扉を開けて姿を現したのは、どう見ても幼い子供。
「よいしょ、なのです。こういうとき、からだが小さいのは不便なのです」
その子供が小さな椅子を下に置いてから、ゆっくりと祭壇から降りて来るのを、一同は、ぽかんと見つめていた。
「……何だこのガキ?」
「ガキとは失礼なのです。出てきてはあげましたが、あなたとわたくしでは、立場というものがちがうのです」
青い瞳がじっと見つめると、才の体が床へと引き寄せられるかのように崩れ落ちる。
「ぐっ……ぎぎっ……」
「やめてあげて。才くんは何も知らないんだもの」
「では遠子。あなたはなにを知っているというのです?」
子供はそう言って、彼女へ視線を移す。目に見えぬ重圧から解放された才は、床に手をついたまま荒い呼吸を繰り返した。
「あなたの正体、かしら」
「わたくしの正体? 誰だというのです?」
「調和の聖女。そして――」
一瞬迷うようにしてから、遠子は付け加える。
「無垢 の魔女」
「うふふっ……」
子供はそれを聞き、無邪気な笑い声を立てた。
「あなたも『旧 き魔女』なのですね? そうは見えないのです」
「今は少し、事情があってね。力が見えにくくなってるの」
「……ねぇトーコ、いったい何の話をしているの?」
マリーが恐る恐る、口を挟む。目の前の子供が侮れるような相手ではないのは、十分すぎるほど分かっていた。
「言ったとおりなのです。わたくしが『調和の聖女』だという話なのです」
「えっ? じゃあこの倒れてる聖女さんは誰なんですか?」
「言うなれば、『聖女代理』なのです。わたくしの代わりに、表に出てもらうお役目なのです」
理沙の問いにも、あくまで穏やかな答えが返ってくる。先ほどまでの戦いが嘘のようだった。
「魔女……? あの『調和の聖女』が魔女だったってことか……?」
「あの町に転送された時、どうも嫌な予感がしたから、棒人間ちゃんの中に匿ってもらうことを思いついたの。ほら、棒人間ちゃんの中って色々収納出来るじゃない? 私一人くらい入れるんじゃないかなって」
「いや、俺にはその発想がすでに理解不能なんだが……」
「ドクターが研究に研究を重ねて強化したヘンシンのクスリもあったからー、それを使って遠子さんさんにヘンシンしたんだっピ」
「どうりでトーコの様子が変だったわけね……いつもが変じゃないとは言わないけれども」
「とにかくそのおかげで、安全にここへと入り込むことが出来て、彼女の術も効かなかったというわけ。聖女様が操り人形だということは分かったし、ベールが怪しいということも棒人間ちゃんが教えてくれたわ」
「ずいぶんと、行き当たりばったりのようなのです。本当にあなたは『旧き魔女』なのですか?」
「ええ、それは間違いない。でも、長い間眠っていたから持っている情報が少ないの。多少の賭けに出るくらいはしないと、あなたは話も聞いてくれないと思ったから」
「ふふ。それは殊勝な心がけというものなのです」
無垢の魔女の目が、鋭く遠子を見据える。
「でも、祥太郎をお返しすることはできないのです。彼はとても、危険な存在なのですから」
「……どうなさいましたか?」
彼女は座したまま穏やかに言った。
その手には、彼女の背丈と同程度の長さはありそうな杖が握られている。世話係が持っていたのと同じく、先は天秤のようになっていて、皿の代わりに鐘がついていた。
「先に言っておきますが、わたくしにその眠りの粉は効きません」
「杖の効果ですか? でもお世話係さんたちはみんな寝ちゃいましたよ。
「小さな『
「……あの町でAFOに襲われた後、身体検査をされたのね」
マリーの言葉に、聖女は首を少し傾ける。半透明のベールが揺れた。
「当然でしょう。危険物を持ち込まれては困りますから。もっとも、今回は見落としがあったようですが」
「それより、
「祥太郎のことは、こちらにお任せください。あなたがたは新宿への『道』を通ってお帰りを」
「祥太郎に、何する気なんだ――ですか」
弱腰な才を見て少し笑いながらも、彼女は繰り返す。
「たった今お伝えしたとおりです。こちらにお任せください。今ならこの暴挙のことは不問にして差し上げます」
「わたしたちが何らかの作戦を邪魔したからですか? でも何も知らなかったし、ただショッピングに行っただけなのに」
「そのことは
「じゃあどうして、ショータローは帰れないのですか? ショータローだってわたしたちと一緒に巻き込まれたにすぎません!」
「あいつが善良じゃねーって? あんな無害なヤツいねーだろ!」
「――それは、あなたがたが決めることではありません」
それまで柔らかだった声の響きが、真冬の水のように冷える。
それが合図だったかのように、人影が動いた。――
「遠子さん!」
「きゃっ」
理沙の足がもつれて転ぶ。とっさに手をつこうとしたが上手く行かず、顔面から硬くなめらかな床へと突っ伏した。
「理沙ちゃん大丈夫か!? ――いてっ!」
「才さんこそ大丈夫ですか?」
「くそっ! 体が重くていうことをきかねぇ! 能力弱められてるってだけでも厄介なのによ!」
「今ので、能力も完全に封じられてしまったかもしれないわ……この部屋を出れば少しはマシになるかもしれないけれど」
マリーは目だけを動かして背後を見る。入ってきたばかりの扉が、とてつもなく遠くにあるような気持ちがした。
それよりも――と、前へ視線を戻す。
「今は、トーコに任せるしかない」
彼女は、変わらぬスピードのまま走っていた。迫りくるその姿に、聖女も少なからず動揺しているように見える。
「……いくわよ!」
そして、遠子が跳んだ。
肘掛椅子から立ちあがった聖女へと、手を伸ばす。
「無駄なことです!」
しかしその手は素早くかわされ、再び杖が鳴らされた。
その瞬間、理沙も才もマリーも、声をあげることすら出来ずに地面へと突っ伏す。体からエネルギーが一気に抜け落ちたかのように頼りなく、空気でさえ重く感じる。
「とおこ……さん……!」
理沙はぎりぎりと奥歯を噛みしめながら、全身の力を振り絞って目を上げた。
視界の中で、崩れ落ちていく遠子。聖女のベールがまくれ上がり、微笑みを浮かべた口元が見える。
――その直後だった。
「おぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!!!」
下品な音をあたりに響かせながら、
遠子が遠子を吐き出した
。「――なっ!?」
混乱する聖女へと、吐き出された方の遠子が襲い掛かる。
とっさに引かれた『無垢の杖』。しかし遠子がつかんだのは、聖女のベールだった。
「もらったわ!」
彼女はそのままベールをはぎ取ると、床を何度か転がり、そして立ちあがる。
「
「と……遠子さんさんは、ボクづかいが荒いんだっピ……」
床に倒れていた方の遠子の姿はぼろぼろと崩れ、やがて骨のように細い黒い線となった。
「え? え? どゆこと?」
「ししょー! ししょーも元に戻れて良かったっピね! 感動の再会のハグなんだっピ! ――いてっ! なんで殴るっピ!? いけずだっピ!」
「杖の効力も消えたみたいね。良かった。詳しい話はあとよ」
遠子は言って、床に倒れたままの聖女を見る。目を開けることはなかったが、呼吸はしていた。そこに、眠りの粉をそっとかける。
「さぁ、これであなたの聖女様は何も語れなくなったわ!」
それから部屋の奥、祭壇へと向かって声をあげた。
「そこに居るのはわかってるの。いい加減、出てきたらどう?」
しばらくの間、静けさが場を支配する。
このまま何も起こらないのではないか――そう思えてきた頃、かたり、とどこかで音がした。
「……しかたないのです」
聞こえてきたのは、あまりにも場にそぐわない声だった。
祭壇の扉を開けて姿を現したのは、どう見ても幼い子供。
「よいしょ、なのです。こういうとき、からだが小さいのは不便なのです」
その子供が小さな椅子を下に置いてから、ゆっくりと祭壇から降りて来るのを、一同は、ぽかんと見つめていた。
「……何だこのガキ?」
「ガキとは失礼なのです。出てきてはあげましたが、あなたとわたくしでは、立場というものがちがうのです」
青い瞳がじっと見つめると、才の体が床へと引き寄せられるかのように崩れ落ちる。
「ぐっ……ぎぎっ……」
「やめてあげて。才くんは何も知らないんだもの」
「では遠子。あなたはなにを知っているというのです?」
子供はそう言って、彼女へ視線を移す。目に見えぬ重圧から解放された才は、床に手をついたまま荒い呼吸を繰り返した。
「あなたの正体、かしら」
「わたくしの正体? 誰だというのです?」
「調和の聖女。そして――」
一瞬迷うようにしてから、遠子は付け加える。
「
「うふふっ……」
子供はそれを聞き、無邪気な笑い声を立てた。
「あなたも『
「今は少し、事情があってね。力が見えにくくなってるの」
「……ねぇトーコ、いったい何の話をしているの?」
マリーが恐る恐る、口を挟む。目の前の子供が侮れるような相手ではないのは、十分すぎるほど分かっていた。
「言ったとおりなのです。わたくしが『調和の聖女』だという話なのです」
「えっ? じゃあこの倒れてる聖女さんは誰なんですか?」
「言うなれば、『聖女代理』なのです。わたくしの代わりに、表に出てもらうお役目なのです」
理沙の問いにも、あくまで穏やかな答えが返ってくる。先ほどまでの戦いが嘘のようだった。
「魔女……? あの『調和の聖女』が魔女だったってことか……?」
「あの町に転送された時、どうも嫌な予感がしたから、棒人間ちゃんの中に匿ってもらうことを思いついたの。ほら、棒人間ちゃんの中って色々収納出来るじゃない? 私一人くらい入れるんじゃないかなって」
「いや、俺にはその発想がすでに理解不能なんだが……」
「ドクターが研究に研究を重ねて強化したヘンシンのクスリもあったからー、それを使って遠子さんさんにヘンシンしたんだっピ」
「どうりでトーコの様子が変だったわけね……いつもが変じゃないとは言わないけれども」
「とにかくそのおかげで、安全にここへと入り込むことが出来て、彼女の術も効かなかったというわけ。聖女様が操り人形だということは分かったし、ベールが怪しいということも棒人間ちゃんが教えてくれたわ」
「ずいぶんと、行き当たりばったりのようなのです。本当にあなたは『旧き魔女』なのですか?」
「ええ、それは間違いない。でも、長い間眠っていたから持っている情報が少ないの。多少の賭けに出るくらいはしないと、あなたは話も聞いてくれないと思ったから」
「ふふ。それは殊勝な心がけというものなのです」
無垢の魔女の目が、鋭く遠子を見据える。
「でも、祥太郎をお返しすることはできないのです。彼はとても、危険な存在なのですから」