精霊王ノ瞳~Ⅱ
文字数 8,690文字
間もなく食卓に呼ばれ、駆けつけたチェシャは席の横に立ってフェレンスの着席を待つ。
給仕を始めようかと振り向くカーツェルは、一目見て関心を寄せた。
旅を始め、だいぶ経つとは言え。
卓を囲み揃って食事することなど、まだ片手で数えられるほどなのに。
カーツェルがそうしていたのを思い出し真似ているよう。
色々と教えてやらねばならない。そう考えていた ... ... が、しかし。
フェレンスの言った通りだと、カーツェルは思う。
「あの子の向上心は見かけよりも発達している。
要するに、見様見真似を好むよう仕向けるだけでいいはず。
なのでお前は、チェシャの行動をよく見て。
些細な事で良い、私と似た行動をした時、同じように出来る事を褒めてやりなさい。
その後は、自身が模範となるよう意識して生活するだけでいい」
カーツェルがそれを実践したのは、チェシャが食器類の取り扱いマナーを真似していた時。
「よく勧んで覚えられましたね」
そう声にして聞かせ、ふわふわの頭を一撫でしてやっただけ。
だが、その日からチェシャはフェレンスばかりか、
カーツェルの所作まで隅々見て真似るようになったのだ。
何て手間いらず ... ...
あとは相手の気付かない事を見つけ少し大袈裟に振る舞い繰り返していると、そのうち真似てくれるので。
こちらも気持ちよく褒めてやれるし、楽しい。
そして可愛い ... ...
後から来たフェレンスの着席を見てから座る幼子は得意気。
それを見届け、主人の前に皿を置きに行くのは執事役。
チェシャもまた、カーツェルが自分のことをよく見ていると知っているため。
仕事中な彼の横顔を目で追って待つ。
偉い? と言わんばかりのドヤ顔で。
葉薊文様の美しい陶磁器に盛り付けられたのは、彼らの昼食の定番。
芋と彩り野菜の厚口オムレツ。
大きめの平鍋で一枚焼きしたものを六枚に切り分け、一切れ一食。
柔らかな日差しを透かす引き上げ式レースカーテンのリボン留めが、そよ風に揺らぐ背景も。
また一つマナーを身に着けた幼子に声を掛け、褒めてやりながら料理を置くカーツェルの表情も。
実に穏やか。
場の都合上、手袋をしたまま頭を撫でてやるわけにはいかない。
徹底し勤める執事役が、仕事終わりに黒地の手袋を脱ぎ。
改め幼子を撫でてやっているのをフェレンスは知っている。
昼食後の混雑も、忙しさも、その時になればすっかりと忘れられた。
彼らから与えられる和みこそ、正に癒やし。
そうして次の日も、また、その次の日も。
二人の主人は彼らと共に気付きを得ていく。
〈てんてこ舞い〉とは、この事かと。
ん? 待て待て。何の話だ。
和みと癒やしは何処へ。
そもそも無事なのか。
ダイジョウ ブ。 イキ テ、ル 。
ただちょっと、口から魂が抜けていきそうなだけ。
ただし。これらは全て、当事者達の心の声である。
いや、もう、独り言に近い。
「「「 ... ... 」」」
診察室の椅子に深々と背を預け、そのまま沈んでいきそうなフェレンスなんて初めて見た。
なんて思いながらも立ち尽くす。
カーツェルやチェシャだって、肩が外れてしまいそうなくらい脱力中だ。
原因は概ね ... ...
今話題の覡若手が魅惑の太腿だなんて噂が広がり
かつ問題視すべき太腿の奥を覗きたがる例の老人が毎日来て
執事と幼子のイライラとハラハラを触発したうえ
覗く側と遮る側の攻防戦が不定期に勃発するための負荷倍増。
カーツェルがいつ、クソジジイと言ってキレ散らかすかと気が気でないのも理由の一つ。
とは言え、これに限ってはチェシャだけのハラハラ要因だったりして。
話がついている諜報員側の手筈が整うまで極力、揉め事や騒ぎは起こさずにいたいので。
日々、何とかあしらってはいるのだ ... ... が。
辛い ... ...
たかが覗き見なんて迷惑行為で消耗するとは情けなや。
けれども口に出して言う事はない。
フェレンスは気付いているだろうか ... ...
カーツェルはふと、そう思った。
見れば、思いがけず和らいだ口元に浮かぶ笑み。
視線に気付き首を傾げつつ向き合う彼の面持ちは、潜在的憂鬱を洗い流すかのよう。
そんな淡い情景を〈夢〉に見るは、純白の化粧着を纏い横たわる聖女。
目覚めた彼女は暫し虚空を見つめる。
透き通るような白い肌。
裾引きの襞から覗く足先。
紫水晶によく似た色彩を堪たえる眼。
「お目覚めですか。殿下」
男の声を聞いて、ゆっくりと体を起こす彼女の白金髪は、細く長く。
雪霜の如き虹を宿して艶めいた。
体の横へ添えられた手元へ視線が向きがちなのは、
鉤爪を模した銀の爪防具が五本の指先を強調しているせい。
彼女は答えた。
「ええ、今日はとても気分が良いの。ねぇ、聞いて下さる?」
膝から下をベッドの横へ下ろす間に歩み寄る男の名は。
「フォルカーツェ様 ... ... もしろん、悪い話じゃなくてよ?」
〈 |Folcatze Ludias Deet Lanzerk《フォルカーツェ・ルディアス・ディート・ランゼルク》 〉
軍警副総監として緊急時軍事顧問を兼任する者。
ドラグニティ公爵家世嗣。
カーツェルの実兄だった。
「〈夢〉の事でしょうか」
開放された部屋に二人きり。
幾つもの回転窓に仕切られた前室には、日差しを遮る透かし編み調の帳。
彼女が微笑み頷くと、ふわり ... 見合う二人の髪を下から撫で上げる微風。
「あの御方の笑顔を見るのは久しぶり。カーツェル様も、お元気そうだったわ ... ... 」
ところが相手は聞くに留まる。
「 ... ... それはそうと、何日ぶりのご就寝ですか?」
「そう怖い顔をしないで? あの娘のおかげで、このところは毎日 ... 数十分は眠れるようになったのよ?」
対し、彼女は話を戻した。
「それと、気にしていたくせに。話を逸らさないで?」
そして窓の向こうを横切る少女の姿を遠目に見る。
広い、広い、屋上庭園を一人、駆け回り。
少女は小さな花を摘んでいた。
「呼び方から、やり直し」
庭へ向く彼女の視線を追いながらフォルカーツェは応じる。
「 ... ... ローレシア殿下におかれましては、極力お休み頂かねば」
「殿下はお止しになって?」
「 ... ... ローレシア様」
「ダメね」
「 ... ...ローレシアさん」
「なんだか気持ちわるいわ」
「 ... ... ローレシア」
「なぁに? フォルカーツェ様」
「何故、呼び捨てを要求する貴女が私を敬呼するのですか」
「私はいいの。いつだって、お世話して頂くばかりなんですもの」
「 ... ... とんでもない」
帝国ノ姫。
彼ノ尊が血族。
〈 |Roresia Endil Noah Eufemio《ローレシア・エンディル・ノア・エウフェミオ》 〉
幼少より睡眠障害を抱え、病床に臥してきた彼女こそ次期女皇帝。
だがしかし、意図して予知夢を見ることが可能な彼女の血ノ魔力は、
極度の不眠が引き起こす病的弊害治癒のために消費され、なお不足をきたしていたのだ。
また、当該能力については国家機密として扱われている。
「この国の、いえ ... ... 現世の導き手として、
お役目に徹する貴女を支える事こそ我々の使命なのですから」
「ふふふ。相変わらず嘘がお上手ね」
彼女の憂いは瞳に表れた。
災厄の予知もままならない夢見ノ姫。
結社が彼女を生かし続ける理由など見え透いている。
卑下したところで、虚しいだけ。
一時の静寂が スッ ... と、身を切るよう。
「カーツェル様が避けてらっしゃるのは、そういうところよ?」
「 ... ... 分かっています」
「それはそうとフォルカーツェ様。
私ね ... ... 今後、犠牲になる子が増えたりしないか心配なの」
「魔力に余裕があれば予知は可能と分かっても、型が合わなければ輸血など出来ません。
出生時における血の判定後、履歴改竄等で追えぬような不都合は早急に裏を取り、
我々が是正しています。どうか、ご安心を」
〈 ... ... 闇ギルドの営利を掌握し利用することが是正ですって?〉
消え入る囁き。
男には聞こえていた。
彼女が〈夢〉を拒絶し不眠を患った事も知っている。
危険因子を見極めたうえでの排除を目的とし彼女の能力に縋るのは、
高位貴族、及び上院議員の傘下に当たる者ばかりではない事も。
しかし触れはしない。
微風を受け口元に流れた髪を指先で掬い、耳に掛け、彼女は言った。
「結社の働きかけ、痛み入ります」
どこか冷ややかな風采である。
両者共にだ。
二人は互いをどう認識し言葉を交わしているのだろう。
花を摘む手を休め、遠目に様子を窺いながら少女は待つ。
客がいる間は部屋に立ち入ってはいけない。
ローレシアとの約束を守らねばならなかった。
やがて男が部屋の奥へ引き下がると、ローレシアがこちらを向いて片手を振る。
すると少女は彼女のもとまで駆けていった。
「あの! お客様はもしかして、ローレシアお嬢様の婚約者ですか?」
「い、いいえ!? 違うわよ? フフフ、そんなわけないじゃない ... もう。
それより、いつも待たせてごめんなさいね。ルーリィ」
唐突に尋ねられ少しだけ驚きつつ。
ローレシアが気に掛けたところ、少女は満面の笑顔で一度、首を横に振った。
異端ノ魔導師フェレンスに、霧ノ病を患った兄の問診を依頼した少女である。
既に魔物化していた兄。
囮に仕立て上げられた医師の異形ノ姿。
目にした現実を受け入れられず己を見失い、
当時の記憶を無くしてしまったルーリィが何故ここへ。
帝国ノ姫は知っている。
クロイツの補佐と護衛を命じられた小隊、内一人が闇ギルドに通じていた事。
フォルカーツェを始めとする高位貴族、及び上院議員の結社が闇ギルドを掌握している事。
内通者にルーリィを誘拐させたのは、フェレンスの動向を知り尽くす結社の仕業である事。
そして、尊と通じていた過激派信教徒が裏で、結社の働きかけを促した事さえも。
姫と同じ型の血を持つ少女。
ルーリィの存在を特定したのは ... ... 彼ノ尊。
政界にも強い影響力を持つ預言者信教の枢機卿は、
国教大臣の地位をも得て律法の制定、改正を司る立場。
その動きを把握しクロイツに知らせ警告したのが、
以前、司法省にて枢機卿に仕えると同時に、異端審問官として勤めた若者。
アレセルだったのだ。
そして、彼女が見る〈夢〉の断片を組み合わせ、ここまで事を運んだのがフォルカーツェという男。
これまでを振り返るローレシアの表情は重苦しい。
何も知らないルーリィは彼女を気遣い、励ますように明るく声を掛ける。
「 ... ... でも!毎週お見えになって。わたし、てっきりお嬢様のコトがお好きなのだとばかり」
「フフフ、まさか! いい? ルーリィ、ここだけの話だけど。
あの方 ... フォルカーツェ様にはね、他にちゃんと好きな人がいるのよ?」
「ぇぇぇぇ! でも、でも! そちらはそちらで気になります!」
「まぁ。ルーリィったら、それじゃきりがないわ。おませさんね」
でも ... ...
その時ローレシアは一呼吸おいて、こう言った。
「それが誰なのかは、この世界で私だけが知ってる〈秘密〉なの」
予知の恩恵を期待する結社の不満が直接、彼女へ向かないのは、
冷徹を演じ続ける男が間に立ち周囲を睥睨するせい。
誰かと似ている。
彼女はふと、そう思った。
片や何の疑いも無く彼女に寄り添うルーリィは、
その後も ... 療養中と聞かされていた兄の回復を待ち続ける。
利害は別とし、相手を敬うローレシアの人柄に憧れを抱きながら。
摘んだばかりの花をローレシアに預け、再び陽下へ駆けて行く足取りも軽快。
少女に与えられた白いノースリーブワンピースのフレアスカートは、
庭の花々を裾にあしらうかのよう。
手渡された花を生けるよう侍女に頼みたかったのだろう。
床に置かれた履物へ足先を入れるローレシアは急な頭痛と目眩に襲われ、少しばかり蹲った。
常々彼女の容態を気に掛けるルーリィであればこそ、直後に気が付き引き返すも迅速。
人を呼びに部屋を出ていくルーリィの後でベッドに伏せる彼女は一人、思った。
数十分ですら寝すぎたと感じるほど。
身体が眠りを受け付けない。
本当は ... ...
そう。
夢なんて、見たくない ... ...
事故、災害、事件等、危機回避のため。
国家、要人、多くの人の命を救うため。
国際情勢、政治経済をはじめ、個人、団体の思想形態まで、
幾つもの水鏡を通して視聴させられる日々。
当然のように。
誰もが不都合の回避を望むのだから。
眠りについた彼女を待ち構えるのは凄惨な悪夢ばかり。
人がたくさん死んでいくの ... ...
夢なんて、見たくない ... ...
啜り泣く彼女の話を聞き、堅く決意した日を思い出す。
カーツェルは口を閉ざしたまま。
同時に疑義を抱いた。
アイゼリアの首都、イシュタットにて。
同国、諜報員との接触後。
取り引き交渉手前。
先方の準備とやらが整うまでに、仮として。
覡を務め始めたフェレンスを手伝うこと数日。
毎晩とまではいかないが。
幼子が眠りにつくまでを見守っている間。
ずっと、ずっと考えていたのだ。
けれど、どうしてだろう。
どうして彼女に、ローレシアに好意を寄せるようになったのか ... その経緯だけ思い出せない。
幼すぎたのだろうか。
いつの間にか好きになっていたせいかもしれない。
とは言え有耶無耶。
胸に支えて、すっきりせず。
終いには眉間に皺が寄る。
肝心な記憶だけ、すっぽり抜け落ちるなんて。
何たる有様。
不覚と言うか、恥ずかしかった。
恋心を寄せた相手に対して失礼な気もするし。
「はぁ ... ...」
重苦しい溜息。
項垂れたカーツェルの両肘が太腿に食い込む。
気分を紛らわせたかった。
すると、スヤスヤ ... 聞こえてくるチェシャの寝息。
ベッドから立ち上がる彼は一旦、部屋を出て奥間を向いた。
扉の隙間から溢れる灯りから察するに、まだ ... フェレンスは起きている。
彼は一瞬、躊躇うが、思い留まった様子。
まずは戸締まりを済ませなければならない。
終えるまでの間、考えることと言えば ... このところの多情。
主従と幼子。
新天地での三人暮らし。
正体を隠し就労するには、余分に片付けるべき手間がある。
客に扮する工作員や偽造書類に紛れ込んだ暗号文の解読等。
国家諜報機関を介す伝達の読み取りが主だが。
時に客として来訪する要人の役職、人柄、秘密事項の覚え込みまで。
夜間のうちに全て熟しているのが彼の主人。フェレンスである。
拠って現在。
幼子の就寝まで世話する執事役が主人の部屋を訪れるのは、
身支度の手伝いと予定確認を行う早朝のみ。
また同時。主人から解読文書を手渡され至るところ。
朝食の準備と後片付け清掃を踏まえ、
始業までの空き時間を過ごすうち、頭に叩き込む運びとなっている。
つまり。
とにかく時間が無いのだ。
極力、邪魔せぬよう努めるともなれば、
主人との会話も必要最低限になりがち。
各所、見回り終えたカーツェルは溜息を漏らす。
欲求不満執事が何か言いたそうだぞ ... ...
と、チェシャは思った。が、しかし。
ベッドから降りて覗き見なんてしようものなら、必ずバレるので。
カーツェルが、いくら上の空でも悪戯は厳禁。
特技の狸寝入りも程々に。
そっとしておこうかな ... ...
部屋の前を行き過ぎる足音を聞きながら、幼子はしっかりと毛布に包まった。
そうしたほうが面白そう。そんな気がして。
翌日の反応を楽しみに、大人しく寝る。
そうと心に決めたなら、爆睡まで五秒とかからない。
対し、フェレンスは読書中だった。
〈パラリ ... 〉
頁を捲ると聞こえてくる。
〈 コンコンコン ... ... 〉
控えめな打音。
一人掛け椅子に腰を据えた姿で視線を上げれば。
サラリ ... ... 揺れる銀色の髪。
応答を待つカーツェルの眼差しは、
心做しか淋しげ。
彼の主人は膝に置いた本を閉じ、やがて応えた。
「入りなさい」
奥ゆかしい声。
「夜分、恐れ入ります」
入室し顔を上げると早速、ランタンスリーブのシャツと
フィットスラックスを装い寛ぐフェレンスと目が合う。
「待っていた」
尋ねられるでもなく耳を打つ言葉に驚いたのは言うまでもない。
「如何がなさいました」
念の為に聞くが、彼の主人は首を横に振った。
「昼間、客として接触してきたアイゼリア諜報員からの伝達は一件のみ。
特有の暗号にも慣れた。時間に余裕が出来きる頃合いを見計らっていたのだろう?」
どうやら察してくれていたよう。
胸が詰まる思いがした。
カーツェルは黙って俯く。
「ゆっくり話そう ... カーツェル。まずは座りなさい」
膝の上に乗せた書物を脇卓に置いて言う。
フェレンスに従い低卓を挟むソファーを借りたところ。
霊草で香り付けした浄水を杯へ注ぎ差し出された。
目を細める彼の視線の先には、静かに硝子瓶を置き膝に戻される上品な手筋。
口を開こうとしないカーツェルを見て待つフェレンスから、悠々と示される心置き。
その余裕が少しだけ羨ましかった。
何時如何なる時も、取り分け押しの強い執事役が萎縮しているのは何故か。
どうしてか気不味いのだ。
自分でも訳が分からない。
知りたいことが山程あって。
聞こうと思えば、いつでも聞けたはず。
なのに ... ... 言葉にならないなんて。
堪り兼ねたカーツェルは大きく、々、息を吸い込んだ。
〈 スゥ ――――― ... ... 〉
そして言う。
「出直して参ります!」
なんだそりゃ ... ... !
自分でも内心そう思う。が、仕方なし。
彼は揃えた両膝を叩き立ち上がった。
ところが直様に差し止める。
「その必要はない」
フェレンスの声を聞いて彼は立ち尽くした。
対して席を立ち、歩み寄る。
主人の手が、執事役のクロスタイに触れ。
ゆっくりと解き始めた。
厳粛に役目を果たす彼が、仕事と私生活の隔てとして用いる品は、
引き絞ったり、緩めたりすることで気持ちを切り替える、装置のようなものらしいので。
襟元から取り去ってしまえば、少しは気が楽になるだろうという理由。
だが、彼は相も変わらず、ぱっとしない表情。
フェレンスはタイを引き抜いた手で彼に触れ、声を掛けた。
「さあ、もういいだろう。肩の力を抜きなさい」
大の大人が返す言葉もなく、応じるのみとは、やや奇妙。
拗ねているのか落ち込んでいるのか。はたまた、その両方か。分かりづらいが。
彼の主人は続ける。
「それから、手のひらを ... ここへ」
下向きな視界に延べられる手。
遠慮がちに指先で触れ、言われた通り裏返すと。
並べて見るかたちに。
するとフェレンスが言う。
「お前の探し物はこれだろう?」
カーツェルは息を飲んで目を見張った。
彼が受け取ったのは、古い 々 ... Playing card。
突拍子もない話のようだが。
それは、彼が長らく聞けずにいた事の一つ。
「やっぱり ... ... お前が持ってたんだな」
「事故の三ヶ月前に、ハインリッツェから預かっていた。
〈いつか、カーツェルと遊んでやってくれ〉と。
彼と直接会話したのは、それが最後」
親父 ... ...
亡き父が常々持ち歩き。
時間を割いては懐から取り出して遊びに誘ってくれた ... 良き思い出が蘇る。
しかし、ハインリッツェが我が子のため余分に時間を費やすのは、
〈明日、戦地へ向かう〉というメッセージでもあった。
当時のカーツェルが感じ取って下唇を噛む時、何とも言えない気持ちになりながら。
帰ったら続きをしよう ... ...
必ず生きて帰るという意味合いを込め、そう約束するのだと。
よく聞かされていたのは、当時のフェレンスだ。
御守のようなものと聞いて受け取った時の解釈は、こう。
〈カーツェルのため、生きて還れ〉
ところが事故後に思い返せば違った意味にも取れる。
もしや、我が子を託すため、そう言ったのかもしれないと。
けれども、それらは大体、想像出来た事である。
あくまでもカーツェルにとっての話だが。
今や形見となったそれが、父の遺品のどこにも見当たらなかった時点で。
何故なら父はそれを、W-74 (※)のケースに入れ持ち歩いていたはずなので。 (※)ダングステン
凄惨な事故であっても、残らないはずはなく。
隠し持つ者がいると推測した時、一番に思い当たる人物と言えばフェレンス。
しかし、ずっと聞けなかったのだ。
事故があった当時、フェレンスは長期遠征のため帝都を離れていた。
知らせを受けてはいたが、それきり。
カーツェルとは距離を置いていたので。
何せ、帝国軍大佐を務めた男が暗殺に遭う理由など、分かりきっている。
異端ノ魔導師に肩入れしたせい。
誰もがそう囁くのだから。
カーツェルもまた、嫌気が差すほど耳にした。
だからこそ ... ...
夜毎、境界の荷置きを開いて、
整頓に努める振りをしながら探していたのだ。
話題にしたが最後、また、距離を置かれるのではないか。
そんな気がして。怖くて。
怖くて ... ...
無意識に下唇を噛み締める。
彼の様子を見たフェレンスは、更に一呼吸置いて言った。
「延いて、この件の他、私に対する尋ね事も少なくはないはずだが。
余程、溜め込んでいたのだろから無理には聞かない事にしよう。
... 但し、また一つ頼みたい」
すると彼は静々、顔を上げる。
耳元まで顔を寄せたフェレンスの囁きを、少しでも近くで聞くために。
僅かに触れたのは、頬と ... 何だろう。
呼吸が上擦り細くなっていく。
「自重を解きなさい。話をしよう ... カーツェル」
頼みと言いながら命令形で述べ、強く手を引く。
フェレンスの導くまま。
カーツェルは踏み込み、主人とする相手の肩へ顔を埋めた。
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