石ノ杜~ⅩⅣ
文字数 9,982文字
「 ツェ、ル ?」
呼ばれているのに気付かなかったのだろうか。
様子を気に掛け、階段の途中から降りて来たのはチェシャ。
杖を腰へと差し戻すに次いで、フェレンスは尋ねた。
「他に何か、気になる事でも?」
けれど相手は、どこか上の空。
「ああ、いや ... な。
色々と一掃してくれるのは良いんだけど。
着いて早々火事になったりしねーよなと思って」
壁際を歩いて回る執事は、火元の発する煙や音の有無を気にしているよう。
所々で床に触れてみたり。
背伸びし天井裏を意識したうえ聞き耳を立ててみたり。
ああ、そう ... なんて、わざわざ言葉にはしないけれど。
チェシャもフェレンスも黙って見ていた。
しかし何やら、きりが無いようにも思えるので。
「心配だから、他の部屋も見て来る」
そう言い階段の小柱を掴んだ彼を呼び止め、要望を呈す。
「待ちなさい。見回りなら私が済ませよう。
お前は、チェシャに褒美を用意してやってほしい」
すると思い出した。
幼子と執事の視線はテーブルの上へと向く。
そこにあるのはフェレンスが置いた紙袋。
天辺から艶やかな姿を覗かせている黄緑色の果実が、チェシャには輝いて見えた。
市場の果物屋は葡萄と言っていたけれど。
それにしては随分と粒が大きい。
傍まで来て見る二人は、あらためて目を丸める。
承諾して直ぐ流しに立つ執事役の背後には、椅子に掛けた黒のダブルジャケット。
白いシャツの袖口をたくし上げた彼は、果実を五粒ほど、もぎ取って洗う。
横には、ぴったりとくっ付いて背伸びする幼子。
足場を用意してやらなければ、蛇口にも手が届かなそうだ ... なんて考えているうち。
果実を持った手を振り、サッ サッ と水を切って。
後ろの食器棚から小さな硝子皿を取り出し盛り付けは終了だ。
テーブルに置けば、水の滴る果実が淡い西日を受けて キラリ キラリ 虹を返す。
カーツェルは両の腰に手を当て思った。
よし。一段落。
なのにチェシャは、その場に居ない。
あれ?
拍子抜け。
さて置き、肩を落とした時だった。
流しの方で乱れる水音。
〈 ジャジャ ... ジャジャジャ ... 〉
見れば、壁向きの洗い場に居残り、夕差しを浴びるチェシャの後ろ姿。
あの食いしん坊め、何をしている。
歩み寄ったカーツェルは、黙って覗き込んだ。
流れる水にやっとこさ届く ... 幼子の手元を。
そして思い返す。
司書との遣り取りに全くの無関心だったチェシャが、
その場を後にするまで黙々と何をしていたか。
主人と執事が気に掛けずにいられるはずも無し。
時々、目を配ってはいたので。
彼の手の中にある物に対する興味も自然と湧いたのだ。
よくよく確認してみたところ。
何かしらのタグプレートであるよう。
だが、それを喜んで手にする者などいない。
それが普通と思っていた。
カーツェルは暫し、言葉を失う。
そう。ニコニコ と満面の笑顔でこちらを振り向き、
まるで宝物を見せるかのようにする幼子は ... 特別なのだ。
何せ、それは ... 帝国の管理省庁が発行した 奴隷の登録証票であるからして。
一方。
木の梁ぞいに外壁を伝う蔓植物が、二階の窓際を横へ向かい花を咲かせる。
その手前をフェレンスは歩いた。
燻っている箇所はないだろうかと。
こまめに立ち止まっては、隅々まで意識を傾けながら。
正直、機器の不具合によって認知される事例だってあるのだから、
予め想定したうえ仕掛ける場所に応じ対策されていて当然と思う。
そうでもなければ情報機関の仕事として恥ずかしい。
とは言え ... ...
執事役を務める心配性の気掛かりを減らしてやるためだ ... 仕方ない。
彼は思った。
対面に並ぶ三部屋も念入りに見て戻るとしよう。
奥間の扉を開くと、正面には間仕切り。横にはティーセットや書籍の置かれた角棚。
隔たる中央には低卓を挟む一人掛けソファーが一組。
角部屋なので窓は二つ。入り口向きの机。
棚は数段下の天面が窓の下を通り、対の角棚まで続いていた。
窓から遠い壁際には天蓋付きベッド。
クローゼットは勿論、どれを取っても高価な黒檀家具である。
硝子傘の釣り照明はワインレッドの階調を纏う宝石のよう。
火の気配は何処にも無かった。
破壊されても他所の破損に至らず、機器の存在が全く目に見えないところは流石と言える。
だが、一階の二間はどうだろう。
自分だけならともかく、小さな子もいるので。
安全に関する手間を省く事だけは出来ない。
カーツェルなら、そう言うだろうか。
フェレンスは足早に階段を降りていった。
すると、ほんの一瞬 ... 目元を掠める反射光。
息を呑み振り向く。
彼は思い出した。
一時前にも同じ事があったと。
だが紳士の話に耳を傾け集中していたので。
考えないようにするしかなかったのだ。
それが今になって胸を揺さぶる。
碧眼を貫くように差した光が、かつての記憶を呼び覚ました。
思い出の中に佇む彼の尊の胸元には、同様の情報鑑札が輝いている。
魔青鋼の放つ輝きは独特で模倣し難い。
構造色を有した蝶の翅のように。
それは、光がどう干渉するかにより見られる色の変幻であるが。
昼間の自然光では碧青に透ける硝子ようでいて、
波長の長い赤色光をより多く受けた場合には、同色の金属光沢をあらわすのだ。
より眩しく、より美しい。
青 ... 蒼 ... 碧 ... ...
ところが、どうした事だろう。
フェレンスは見回りの途中であった事も忘れ、光の差す方へと向かった。
足音を聞きつけ見やると。
幼子の手元を見る彼の目は、いつになく冷ややか。
「ああ、早かったな」
「 ... ... 」
声を掛けても反応無し。
少し様子がおかしい気はした。
けれども、こればっかりは察しがつかない。
まさかの元・帝国魔導師が、火の始末程度で血相を変えるはずはないし。
それともチェシャが何かしただろうか ... と思いながらも、様子を見るに留まる。
カーツェルは更に一つ尋ねた。
「何か怪しいモノでも見つけたか?」
そんな主人の次の行動を誰が予測できただろう。
赤毛のおチビが慕う男は、燦々と煌めく瞳に目もくれず。
小さな手に収まった鑑札ばかりを見つめている。
それは正に ... チェシャの宝物だったのだ。
けれども彼は周りの空気を一切、読まず。
幼子が見せてきたペンダントを手に取り、一呼吸おいて。
大きく振りかぶったかと思えば。
〈 ブン ッ !!〉
風切音が立つほど力一杯 ... 投 ―――― げた ―――― 。
... ... もとい。
投げてしまったのだから、それはそれは驚いたと言うか。
驚き過ぎて。
開いた窓の外へ山なりに飛んでいく様を真顔で見送る二人は、
庭の一部になっているかのような溜池に、それが落ちて沈んでも声すら上げなかった。
「 ... ... 」
「 ... ... 」
「 ... ... 」
鳥の囀り、池の水音。
聞こえるのはそれだけ。
ただ単に思考が追いついていないだけではある。
二人は、こう思っていたに違いない。
いったい何が起きたのかなと。
対し、フェレンスは理由も言わずに立ち去ろうとした。
その時。
カーツェルの脳裏を過ぎったのは、フェレンスの居ない僅かな間に聞いたチェシャの片言。
『 コ、レ! チェシャ、ノ! チェシャ、ハ、シャマ、ノ ... ナ、ノ!』
本当に嬉しそうに、赤毛のおチビはそう言った。
これがあればフェレンスの傍にいられる。自分はフェレンスのものなんだ。
上手く言葉に出来なくても、気持ちは伝わっている。
カーツェルであればこそ、共感もした。
『ああ― 。じゃあ、俺たち仲間だな』
などと握手を求めたりなどして。
言葉を交わしたばかりだったのだ。
それなのにどうして、こんな事になるのだろう ... ...
「なぁ。待てよ」
カーツェルは静かな声でフェレンスを呼び止める。
応じる相手は立ち止まったきり。
振り向く素振りもなく。
上手く話せる気がしないのだ。
しかし彼は問い掛ける。
「今さ、お前 ... ... 投げたよな」
「他に何をしたように見えた?」
案の定、確認するだけの会話になりそうだった。
「いや。でも ... ... どうすんだよ、アレ」
言葉を失いかけるたび、裏腹な呆れ笑いが込み上げる。
「どうもしない。あのまま池の底で眠ってもらう」
「それってさ ... ... つまり」
捨てたってコト ... ... ?
だが持ち主に聞かれたくはない。
言い留まった。
けれども相手は、こう返す。
「必要のない物をいつまでも身に着けていたって、仕方がないだろう?」
口切りの一言が耳に触れるなり、首筋が張り詰め脈を走る血を打ち上げた。
話が下りきらぬうちから立ち返るカーツェルは、
椅子どころか卓の角まで押し退け間近に迫る。
「必要ないだと? ... ... お前!!」
フェレンスの胸座を掴み上げる手が震えた。
そして声も。いつだってそう。
場合によっては逆上しているところだが、相手が相手。
時として人間味を欠く言動が、ただ ... ... 物悲しくて。
彼は声を引き絞る。
「あれほど言ってた気遣いはどうした!?
確かに奴隷証票なんて禄なもんじゃない、けどな!
肝心の持ち主が、それをどう思ってるか ... ... お前、一言でも聞いたのかよ!?」
一般的価値観、常識と言われるような固定観念に囚われぬ存在。
自由思想を実体化したかのような男に何があったのだ。
気でも触れたか。
立場や意見の異なる者に対し、相互理解を求め取り入るでもなく感慨に浸る。
いつもの思慮深さは何処へ行った。
思っても言葉にならない。
それでいて、ゆくりなく。
意表を突かれた彼は息を呑む。
視線をぶつけた碧い瞳が一回り大きく開いたうえに、動揺の色を浮かべたものだから。
驚いたらしい。見たことのない光景だったのだ。
だが例によって、どこか懐かしくて ... ... 心痛が絶えない。
「つーか。どうしてお前が、そんな顔 ... ...
あのさ、ビックリしてんのはこっちなんだけど ... ... 」
脱力する手元。
添えられる指先。
彼の手を取り、腕を下ろしてやりながらフェレンスは言った。
「カーツェル。あれは奴隷の登録証票だ」
「んな事ぁ分かってるよ」
「血ノ魔力を利用され、従属する羽目になった挙げ句。
低俗と見做されたも同然。
かつ人権保証も一切、受けられない身の上であることを示す物。
対して、嫌悪感を抱かない者がいると言うのか?」
自身の動作を見流す目向き。
ゆっくりと戻って来る視線を見つめ返し、カーツェルは答える。
「何に代えても、お前の傍にいる事が重要だったりするのかもな。
奴隷だろうが何だろうが、お前の役に立てるってコトが嬉しかったりさ ... ... 」
「 ... ... 」
「いや、黙るなよ」
口を閉ざしたままのフェレンスと向き合ったままだと、何だかバツが悪い。
何が言いたいの ... ... ?
思っても言えずにいると、ようやく言葉が返ってきた。
「お前じゃあるまいし ... ... 」
しかし聞き捨てならん。
「何だよその言いぐさは!?」
咄嗟の喧嘩腰。
それなのに相手ときたら、はにかんで笑っていたりする。
小首を傾げ俯き加減に。
些か上目遣いで。
ほんと何 ... ... !?
衝撃が走った。
相手の他愛無い動作で一々息が止まってしまうのだ。
自覚した瞬間。言うべき相手は自分自身とすら思う。
どうしてか気恥ずかしい。
「つーか ... ... そんなんで喜んだりしねーし。俺は ... ... 別に ... ... 」
その上、引用する言葉を間違えた。
意味は同じだけど。
頭では分かっている。
早々に話題を戻すべきではないだろうかと。
言葉にして言えなかった先頃の事。
念押しすべき点は山ほどあったはず。
なのに全て吹き飛んでしまったのだから。
ともあれ、目を逸らすしかなくて。
対し、フェレンスが追い打ちをかけることはなかった。
彼が思い詰めてしまわぬよう、一歩引いた目線で佇む。
すると、引き付ける幼子の声が耳に入った。
「 ... ... ヒッ 。フッ ... ... 」
二人の会話を上の空に聞きながら、状況を把握するに至ったのだろう。
振り向く両者は共に口を閉ざす。
「 ... ... ウッ 。ウッ ... ... 」
憂き目に遭ったというのに長らく堪えていたよう。
だが、とうとう限界を迎えたらしい。
「 ヒグッ ... ... ビエェエエェエェェエエェェェ ... ... !!」
狙われ、人を避け続けることに慣れ過ぎているばかりか。
徒歩による長旅すら物ともせず。
食うに困ったって文句一つ言わなかった子が、声を上げて泣いている。
幼子が失ったのは、宝物に纏わる夢物語だ。
あの日。
フェレンスのもとへと導くかのように林の中を舞った ... ... 蒼碧ノ蝶。
光の粉を撒き散らす翅の輝きが、そのまま宿り。
まだ浅い絆を補ってくれたのかもしれない、だなんて。
想像して、浮かれていただけ。
大丈夫。そのままで良いと。
許された気になって。
チェシャには、無理に付いて来てしまった引け目がある。
無いはずはない。
それを少なからず和らげていたのが、あの証票だったのだ。
幼子を悲しませているのは消失感に勝る何かだと、カーツェルには分かる。
主人のほうは ... ... どうだろう。
泣く子に心を配るフェレンスの瞳は憂いて見えた。
知るほどに興味が増し、惹かれ。
心を通わせたい、そんな気持ちにさせられる。
なのに伝わらない。
フェレンスには分からない。
何よりも悲しい事実だ。
幼くして知った子にかける言葉すら見つからないというのに。
一体どうしたら ... ... 。
「どうしたらいい ... ... 」
その時、カーツェルは耳を疑った。
一瞬、胸の内を読まれたのかと思ったが。
どうやらそうではなさそう。
切実な表情で尋ねるフェレンスと向き合ったところ、不思議と胸がすいていく。
通わなかった心の行き場所。
その扉が少しだけ開かれたかのよう。
ハッ ... ... と、細く息を吸うカーツェルは、
緊張によく似て異なる、奇妙な感覚を覚えた。
ゾワリ ... ... 身体の隅々に渡る筋が張り詰る。
時を同じくして、クロイツもまた同じように息を呑んだ。
そして今一度、考察する。
帝国〈過激派信教徒〉の連中が、
奴等〈高位貴族、及び上院議員〉と
一時的に通じた異端ノ魔導師へ、猶予を与える理由について。
奴等がそれを知っていて利用したのは明白。
血ノ奴隷を保護させるために違いないのだ。
しかし裏切りに及んだアレセルの行いは、
そういった目的が名目に過ぎない事を示唆している。
下僕は疎か血ノ奴隷の命までも盾にし、
連中の手出しを免れる必要があった。
奴等にとって都合の悪い事と言えば何か ... ... そう考えると。
尊が望むまま主従の契約を断つ事も視野に入れ、
訪れたと思わしきバノマン枢機卿との一場面が彷彿とした。
すると気が付く。
主従が引き離されては困る。
もしそれが第一の動機であるなら ... ... 全て辻褄が合うのではなかろうかと。
「お気付きですか?」
察し言葉を添えたのは対面するアイゼリア王太子、ウルクアだった。
「魔導兵の日常的応対能力の検証を申し出た人物は、紛れもない監視対象であり。
私達は、貴方々の敵視する勢力と何かしら接点があるものと見て調査中です」
「帝国の内通者か ... ... 寄りにも寄って奴等の ... ... 」
「ですがまだ、確証はありません」
「 ... ... 」
「違いないと、お考えですか?」
「我々を捕らえるよう私の弟、アレセルに命じたのは奴等だ。
従うふりと見抜いて機転を利かせたのは他でもない、異端ノ魔導師」
「なるほど、そういう事でしたか。さすがです ... ...
これに限る話としても、あなたなら協力して下さると。そう判断なさったわけですね」
会話中にも拘わらず項垂れる。
クロイツの顔つきとくれば険悪そのもの。
横目に見るノシュウェルは、ゆっくりと前へ視線を戻す。
「奴等の掌で踊らさせるのだけは御免だ」
聴いたことのない低声で発せられる元上官の呟きに青褪めながら。
同感と言えば同感。なのに鳥肌が立つ。
怖い怖い怖い怖い。怖いって。怖いよ。
他、同志二名の心の声まで聞こえてくるようだった。
色んな意味で居たたまれない気持ちにもなる。
クロイツの心情に配慮しノシュウェルが折り返した。
「つまり、あなたの弟君は、こう言いたいわけですな」
あの男が異端ノ魔導師を手懐けるまでに、痺れを切らした奴等の手引きがあるやもしれぬ。
「〈警戒せよ〉と ... ... 」
以降、この密会においてクロイツの代理を果たしたのは彼。
魔導兵の身辺における監視強化に協力するかわりとして。
同盟関係にある間に限り、得た情報の全てを共有する事を約束された形。
そこまで分かっていても策略を見通すまで至らぬと言うのか ... ...
クロイツは俯いたきりだった。
時折その様子を窺うノシュウェルもまた、ふとして思いを馳せる。
さて、当事者達は今頃どうしているだろうかと。
一方こちらは、まさかの事態だ。
「 ヒッ ングシュ ... ウェェェェェ ... ウッ ウッ ... ... ビェェェェ !!」
チェシャは泣き止まない。
息を吸い上げるたび上下する肩。
ふっくらとした頬を伝い落ちる涙。
夕刻の陽は池の向こうに立つ木々の間から差し。
照らし出された幼子の背を振り向いて答えを待つフェレンスの横顔は、いつになく表情豊かに見えた。
替えて言えば、落ち着きがない。
あちらこちらと視線が泳いで、眉尻も上がったり下がったり。
初めて見たような、そうでないような。
カーツェルは思った。
そうか、こいつがいつも落ち着き払っていられるのは、
どうすれば良いか判断するに足る知識があるからであって。
未経験だったり見聞きする機会が無かった事柄に対しては ... ... ああ、そうなんだ。
いくら考えても分からないのだから、そりゃあ焦るよな ... ... そんな事もあるんだ。
気が付けば、ゾクリ ... ... 腰の上、やや後ろ側を掻き上げられたかのように背筋が震える。
覚えのある感覚だ。
しかし何度目か分からない。
心ともなく歩み寄っていた彼は、フェレンスの耳元まで顔を伏せ。
一言、こう尋ねる。
「 ... ... 知りたい ... ... ?」
囁きを耳にし、振り向きかけた相手は留まって。
一度だけ頷いた。
その瞬間、視界が僅かに振れ。
言い知れぬ何かが意識下を掻き乱す。
まただ ... ...
何を見た。
おそらくは記憶 ... ...
聞いた気もする。
人の声だったような ... ...
現状と似たような場面だった。
しかし誰のソレかもあやふやなのに。
深く考えたところで、どうしようもない。
素行に支障を来しかねない現象は、日に々頻度を増している。
けれど深く息を吸い、カーツェルは気持ちを切り替えた。
今はそれどころではないのだ。
そうこうしているうち一歩前に踏み出しかけるフェレンス足先。
ところがどうして、ゆっくりと元の位置へ戻っていくのだから見ていて歯痒い。
対話を試みるかどうか迷っているのだろう。
今は話したくないなどと拒絶される可能性があるからだ。
ともあれ、もう一度。
幼子の気持ちを精一杯、想像してみる。
潔く詫びたところで、
分かってもらえなかった悲しみ、暗い気持ちが直ぐに晴れるわけもなし。
しばらくは引き摺るに違いない。
けれども何かしなくては。
放置された感情が諦めに変わってしまう前に。
然れど、分かってやれるようになるかどうかも分からない。
努めはする ... ... けれど。
そもそもが〈許される〉〈許されない〉の問題ではなさそう。
時間が欲しい。もう少し考えたいと感じた。
ならばせめて今のうち、池に放り投げてしまった物を回収しておこうかと思い立つ。
フェレンスが掃き出し窓の外へと手を向け、印文を記しかけた時。
取り上げるようにして腕を掴み遮ったのはカーツェルの手。
見ると彼は、首を横に振る。
そして言った。
「こうしてる間に見つけ出しておくのは良いと思う。
けど ... ... どうせ暫く考えたいんだろう?
なら、もう少しゆっくり探してみても良いんじゃねーの?」
制した腕を再び下ろし、手元へ向かって滑りゆく掌。
触れ合う指先を目で追っていると、更なる深みに嵌っていく思いがした。
そうする事に何の意味があるのだろうか ... ...
考え込むばかりでは埒が明かないというのに。
やれやれ ... ...
池を見やりながら思い切る。
カーツェルは、こう話した。
「何と言っても、やっちまったもんは仕方ねーしな」
人間味が出てきたとは言え、まだまだ。
首を傾げる主人の姿が心許なくて。
彼はあらため腕捲くりする。
「俺も手伝うよ」
そう彼は、池に入り自力で探し出すつもり。
先に行って手本を見せてやろうとしたのだ。
ところが。
ベストの裾を摘ままれた気配がして立ち止まる。
振り返った彼の目に映ったのは、すっきりと明るい表情で応えるフェレンス。
「分かった。カーツェル ... ...
だがお前には、あの子の傍に居てやって欲しい。捜すのは、私が」
瞳に宿る碧青の輝きは、嬉々とし踊るかのよう。
カーツェルは目を奪われた。
ロングジャケットの留めを外していく指先。
主人の脱いだそれを預かる間も。
下僕の心、此処にあらず。
底に何があるか分からないので、両袖以外はそのままにして水に入っていく。
フェレンスの後ろ姿を這う視線は、着込まれた一つ々を通し見た。
上から順に。
スカーフを返すハイカラーシャツ、オープンバストコルセット背面の網目と、
フィットスラックス、そしてニーブーツガーター。
言われた通り幼子の傍まで後戻りするのも、やや上の空。
振り向きもせず器用に寄ると。
息を喉に引っ掛けながら休み々泣き続ける子が、彼の袖を ギュッ ... と掴む。
捜し物を見つけるまで、二、三十分。
風邪を引かせてしまうのではと心配したものの。
カーツェルは黙って見守り続けた。
定期に落ち葉を浚うなどし、よく手入れされた池だったが。
底に砂利石が敷き詰められていたうえ、
平たいタグプレートが大きめの石の下に潜り込んでしまっていたらしく。
日没寸前までかかり、ようやく見つけたよう。
こちらを向いてペンダントを掲げるフェレンスを見て胸を撫で下ろすと同時。
泣き疲れた子が膝の上に突っ伏して寝てしまっていた事に、初めて気が付いた。
底に手を伸ばしたことで、肩口まで浸かったシャツは胸元まで水を吸い。
辺りへ引き返す身体も略々ずぶ濡れなのに。
彼の主人は、優しく微笑む。
タオルを差し出したところ、広げる動作ですら水が飛んだ。
更に一通り身体の水気を拭い終えると、
湯を炊く火ノ香を頼りに浴室を探すフェレンス。
泣く子の様子を見ながらでも、風呂の準備くらいは出来たので。
良かった ... ...
それにしても、不思議でならない。
寝息を立てる幼子の髪に手を添えながら、カーツェルは思った。
先頃の事についてだ。
どうしてフェレンスは何も聞かず、嬉しそうにしていたのだろう。
どうして ... ...
どうして俺は、その理由を聞けずにいるのだろう。
自身の身の振り方を、他者に尋ねるなど。
況してや委ねるなんて。
今迄で言えば、考えられない事なのだ。
そればかりか、思慮、質疑、理解の過程も扠置いて行動するなんて。
奇妙ですらある。
待っている間ずっと考えていたのだ。
しかし答えは出ていない。
ただ、ずっと ... ... そう、ずっと昔から ... ...
薄っすらと夢に描いていた出来事が、実際に起きた。
それだけは確かであって。思い返すたび、何故なのか胸が締め付けられる。
「何だよ、まったく ... ... 」
カーツェルの頭の中は、懐かしさで溢れた。
予てより。
長期遠征から帰還するフェレンスを待ち構えては、
諸事情、云々、言い争いながらも。
これだけは決して口にせず、心にしまってきた展望と共に。
――― 俺の言うことを少しでも聞けるようになれば上出来だ。
いずれは、何があっても手放したくない存在であると認識させてみせる。
そして繰り返した。
「上出来じゃねーか ... ... 」
その時、彼が抱いた情を何と呼べばいいだろう。
彼の異端ノ魔導師に対する執着心は、独占欲とも取れる。
口にして言う事への抵抗は、その為なのかもしれない。
それでいて、あの男には自覚が無いのだと、クロイツが憂慮するほど。
彼の深層心理に架けられた錠は強固であり。
にも拘らず、表面意識に作用し続ける情念の甚大さたるや、計り知れない。
カーツェルにとっても同様である。
胸のどこからか、軋む音が聞こえてくるようだった。
声を上げたら、何もかも全て崩れ落ちてしまいそうな ... ... この感覚はまるで。
幾多の空闊を抱える石ノ杜。
反響振による崩壊を恐れ、息を潜めるように。
彼は口を閉ざした。
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