第33話 創世記 

文字数 1,443文字

 老人たちの、宴たけなわである。ひとりの老婆が言った、「閑暇を愉しめる人間。これが、一つの人間の完成形じゃ。何かをしなければいけない、しないではいられない、するのが善。有為ばかりをヨシとするうちは、全然ダメ。無為を愉しめるような人間、そのような存在となって、至人じゃよ」
「だから私は政界をさっさと退いたんだ。あんな世界はこりごりだよ。権力への意志だけで動く人間の吹き溜まりだった。経済界にも、そんな人間が蔓延っていた。権力を握れる、ひとつまみの世界に入ると、どんな人間もダメになる」
「だからわしは、木より高い建物を造ってはならぬ法をつくった。人間はすぐ驕慢になるからな。植物があるから、人間は息を吸って生きていられる。それでもどんどん伐採する人間を、止められなかったよ」
「チャンと、しっぺ返しは食らうわな。人間に、きちんと、食ってもらおう。人間の中には、まだ地球の微妙な空気の震動、自然の流れを感知する者もなくはないが、いかんせん、文明の利器、便利で安直な流れには逆らえない。怠惰であるのはいいのだが、思考回路までも怠惰になった。自分を誤魔化し、よって他人も誤魔化し、面と向かうべきものに対して目線をそらして。それが生きることだと思っている。赤信号、みんなで渡れば何とやらだ」

「無為、無為。何もしないことを、悦べる人間が、どれだけ現存しておるかのう。それが時間を愉しむ、生を愉しむ、いのちを宿した、甲斐というものなのじゃが」
「そのうち、何もできなくなるよ。いっさいがむなしくなって、何をしようにも動けなくなる。無気力になるんだね」
「そしてそれを喜べない。生を、呪うようになる。いのちを、何とも思わなくなる。すでに、その兆候がとっくに表れているのに、為すこともなく、為されるがままになっている。箸にも棒にも掛からない、プランクトンのようなものが人間と呼ばれるようになる」
「もともと小さいものではあるけれど。それじゃ、満足できなかったんだな」
「ああ、無為、無為! 為しすぎたのだよ、為しすぎたのだよ。無為を、罪悪と感じるほどに。為せば成る、為さねば成らぬ何事も、などと言って、成しすぎたのだよ」

「さて、しかし、こんな希望のなさをくどくど述べ立てていても仕様がない。さしあたって、希望の種子も、探してみようではないか」
「まだまだだよ。そこまで、われわれは掘っていない。落ちること、しっかり、落ちること。しっかり落ちればいいんだよ。没落が深ければ深いほど、それは高く飛翔する」
「われわれは、その地盤を創造したのだろうか」
「さあね。ただ言えるのは、われわれにはできる限りがあったということだ。とことん堕落し、磊落して… 物質ではなく、人間、生命体として、未来に希望の見えない時代を創造したと、形而上見地から後世に判断されるだろう。何もかもがあったが、何もかもがなかった、この民族は特に、アイデンティティーのアの字も持たず、長いものに巻かれ続け、窒息を続けた、しかもそれを当然とした、と…」
「もともと、個人という概念が希薄だった。それはこの国に限ったことでなく、人類の創始の仕方がそうだった。集団で狩りをし、集団で生活をし」
「とすると、集団の前時期が終わり、個我に根ざした時期が、これから?」
「あと、3、4000年後に」
「もたないな」
「でも繰り返すよ。きっと繰り返す」
 元政務官、元エコノミスト、元庭師、元教師… あらゆる職業を経た老人たちの、宴が終わる。この世かあの世か、伝記記者、よみ人しらず。
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