第42話 美しさ?
文字数 1,795文字
それにしても、美しさ、って何だろうと思う。
直近で、美しい、と感じたのは、空の色だった。
その日、外を歩いていて、空を見た時、雲が一つもなく、青、青、青、ひたすら青の、青しかない空だった。もしかしたら、どこかにあったかもしれないが、見える範囲内、すべて真っ青な空だった。
あれを見た時、マイッタ。ああ、と思い、薄く涙ぐんでしまった。ほんとに綺麗な空だった。
以前住んでた、マンションの5階が、ベランダがやたら広く、空も近く、夕焼け空にはほんとうにマイッタ。誰かが描いたような色彩で、いろんな雲の形があって、とんでもないことだなあ、と感じ入りながら、よく見ていた。
10年以上前に行った真鶴駅、三ツ石?とか呼ばれる、あれは何だったのか、海に三つ石が浮かんでいるように見える場所だったのか、その海岸から見た海、そして空の青さにもマイッタ。空と海が、ほんとに同じに見えたのだ。空の青、海の青、一体どこからが海で、どこからが空なのか…
ああ、海も空も、おんなじなんだな、と、初めて実体験、まのあたりにした…
あの美しさにも、かなり涙ぐんだ。
人の心にも、美しさがある。それに触れた思いがしたのは、やはり二十歳の頃、「ピースボート」に乗って知り合ったHさんと接している時だった。最初はそんな感じもなかったのに、日本に帰ってきてから、連絡をいただいて、「脱学校の会」で毎月会ったりしているうちに、なんと心のきれいな人なんだろう、と、打たれはじめた。
彼は、とても自然だったと思う、彼にとっての。大学生で、ぼくより少し年上だった。育ちの良さを感じさせる、何ともいえない品のようなものがあって、具体的に何がというわけではなかったと思う。だが、ぼくは、ひどく心を打たれっぱなしだった。ほんとに、涙ぐんでばかりいた。ほんとに、ナンダというわけでもなかったと思うのだけど、いつも真っ直ぐこちらを見つめ、愛想がよく、いつもニコニコして、一生懸命しゃべってくれたというか、… たまに、何か伝えたいことが沢山あったのか、額に汗を浮かべて、しゃべってくれていたこともある。
ぼくは、その彼の微笑み、態度、物腰の柔らかさ、口調の丁寧さに、いつもやられていた。会うたびに、心が洗われる感じがして、涙ぐんでいたと思う。
引っ越ししたりして、それこそ自然に会わなくなってしまったけれど、会うたびに、ぼくは赤ん坊に戻るような、無垢になるような思いがした。洗われるということは、ぼくに醜い心があったのか… 彼の、彼である「自然さ」に、不自然に人と接しようとしていたフシもある自分が、彼の、彼としての自然な振る舞いに、いちいちショックを受けていたのかもしれない。
風景、景色で涙ぐむよりも、人と接して、涙ぐまされたことの方が多い。「学校拒否体験」をブログに書いていた頃、「これだけのことを書くのは、さぞつらかったでしょう」と、よくコメントをくれた人から言われ、なぜだか泣きそうになった。かたまっていた自分の中の何かが、その一言で、ぐにゃりとほぐれてしまったような感じだった。
また、何か、具体的な言葉は忘れたが、ズバリと何か言われて、でもそれはとてもやさしい、自分が包み込まれてしまう、この人の前では無力だ、というような気持ちになった時、やはり何かがほどけて泣きそうになった。
この文章で、何が言いたかったのかといえば、美しいものと接した時、ぼくはどうしてか涙ぐむ、ということで、一体これは何なんだろう、ということだった。
そして言葉… 言葉が、美しかったとは思えない。何でもないようなこと、その人がぼくに対して、何か感じていたことを、言ってくれたのだと思う。それでも、ズドンと響いてくる言葉があった。その言葉を発する、人があった。
大きな青い空や海を見た時、やはりぼくはどこかで、自分の無力さ、力が抜けていく感じ、「入らない」「入れる必要がどこにもない」感じを体感したと思う。
言葉による、涙ぐみ、にも、同じような感じがする。包み込まれてしまう感じ、力が入らなくなる、心がサーッと洗われて、抜けていく感じ…。「理解」されたような、自分という存在が、まるごと、受け止められたような感じ。
宇宙を思う、唐突に。
空の向こう、言葉の向こうに、宇宙が。
見え、聞こえ、接するものは、ある。
けれど、その向こうに、人にも、景色にも、宇宙が…
直近で、美しい、と感じたのは、空の色だった。
その日、外を歩いていて、空を見た時、雲が一つもなく、青、青、青、ひたすら青の、青しかない空だった。もしかしたら、どこかにあったかもしれないが、見える範囲内、すべて真っ青な空だった。
あれを見た時、マイッタ。ああ、と思い、薄く涙ぐんでしまった。ほんとに綺麗な空だった。
以前住んでた、マンションの5階が、ベランダがやたら広く、空も近く、夕焼け空にはほんとうにマイッタ。誰かが描いたような色彩で、いろんな雲の形があって、とんでもないことだなあ、と感じ入りながら、よく見ていた。
10年以上前に行った真鶴駅、三ツ石?とか呼ばれる、あれは何だったのか、海に三つ石が浮かんでいるように見える場所だったのか、その海岸から見た海、そして空の青さにもマイッタ。空と海が、ほんとに同じに見えたのだ。空の青、海の青、一体どこからが海で、どこからが空なのか…
ああ、海も空も、おんなじなんだな、と、初めて実体験、まのあたりにした…
あの美しさにも、かなり涙ぐんだ。
人の心にも、美しさがある。それに触れた思いがしたのは、やはり二十歳の頃、「ピースボート」に乗って知り合ったHさんと接している時だった。最初はそんな感じもなかったのに、日本に帰ってきてから、連絡をいただいて、「脱学校の会」で毎月会ったりしているうちに、なんと心のきれいな人なんだろう、と、打たれはじめた。
彼は、とても自然だったと思う、彼にとっての。大学生で、ぼくより少し年上だった。育ちの良さを感じさせる、何ともいえない品のようなものがあって、具体的に何がというわけではなかったと思う。だが、ぼくは、ひどく心を打たれっぱなしだった。ほんとに、涙ぐんでばかりいた。ほんとに、ナンダというわけでもなかったと思うのだけど、いつも真っ直ぐこちらを見つめ、愛想がよく、いつもニコニコして、一生懸命しゃべってくれたというか、… たまに、何か伝えたいことが沢山あったのか、額に汗を浮かべて、しゃべってくれていたこともある。
ぼくは、その彼の微笑み、態度、物腰の柔らかさ、口調の丁寧さに、いつもやられていた。会うたびに、心が洗われる感じがして、涙ぐんでいたと思う。
引っ越ししたりして、それこそ自然に会わなくなってしまったけれど、会うたびに、ぼくは赤ん坊に戻るような、無垢になるような思いがした。洗われるということは、ぼくに醜い心があったのか… 彼の、彼である「自然さ」に、不自然に人と接しようとしていたフシもある自分が、彼の、彼としての自然な振る舞いに、いちいちショックを受けていたのかもしれない。
風景、景色で涙ぐむよりも、人と接して、涙ぐまされたことの方が多い。「学校拒否体験」をブログに書いていた頃、「これだけのことを書くのは、さぞつらかったでしょう」と、よくコメントをくれた人から言われ、なぜだか泣きそうになった。かたまっていた自分の中の何かが、その一言で、ぐにゃりとほぐれてしまったような感じだった。
また、何か、具体的な言葉は忘れたが、ズバリと何か言われて、でもそれはとてもやさしい、自分が包み込まれてしまう、この人の前では無力だ、というような気持ちになった時、やはり何かがほどけて泣きそうになった。
この文章で、何が言いたかったのかといえば、美しいものと接した時、ぼくはどうしてか涙ぐむ、ということで、一体これは何なんだろう、ということだった。
そして言葉… 言葉が、美しかったとは思えない。何でもないようなこと、その人がぼくに対して、何か感じていたことを、言ってくれたのだと思う。それでも、ズドンと響いてくる言葉があった。その言葉を発する、人があった。
大きな青い空や海を見た時、やはりぼくはどこかで、自分の無力さ、力が抜けていく感じ、「入らない」「入れる必要がどこにもない」感じを体感したと思う。
言葉による、涙ぐみ、にも、同じような感じがする。包み込まれてしまう感じ、力が入らなくなる、心がサーッと洗われて、抜けていく感じ…。「理解」されたような、自分という存在が、まるごと、受け止められたような感じ。
宇宙を思う、唐突に。
空の向こう、言葉の向こうに、宇宙が。
見え、聞こえ、接するものは、ある。
けれど、その向こうに、人にも、景色にも、宇宙が…