第60話 記憶の独り言

文字数 1,347文字

「なぜ、ひとはイヤな、つらい、思い出したくもないことを、いつまでも憶えているのか、知ってるいる? さっさと忘れちまえばいいのに、それが忘れられない。どうしてか。
 あのね、とどめておきたいんだよ。これは、ヒトの、持って生まれた本能なんだ。生命の本能、と言えるかもしれない。
 幾千年も、幾万年か分からない。あっちの世界は、時間なんて流れていないからね。でも、この世で生命、ひとつ終わっても、タマシイってやつは未来永劫、普遍なのさ。
 タマシイのエネルギーが、何の集合体であるか? 感情だよ。憎しみ、歓喜、寂寥、悲しみ… ヒトは、うつろな心より強力な感情に、瞬時に支配されてしまう。それは一瞬のことなのに、永遠のように凝固し、心身全体が操られてしまう。
 この世での果てしない鎖、しがないシガラミに絡みつかれた人間の唯一の自由が、感情を謳歌させることなんだ。でも、何もそれはこの世で終わる話ではない。このタマシイは、闇にかえり、また光の粒みたいになって、またあたらしい生命体となって別の世界に生まれ代わるんだ。
 宗教的で、イヤだけれど、そうなっているらしい。ソクラテスのお墨付きだよ。そうならないと、どうもうまくないらしい。ニーチェも、晩年はこのリンネじみたものに、非常な関心を寄せていた」

「結局、この世で、どのようなタマシイ、つまり感情、直情的なものが、個体のなかで占められているか。その強さが、やがて生まれ代わったあとも、かたちを変えて引き継がれていくんだ。
 恨みを強く持った人間は、そのタマシイがまた次の世でそれを謳歌させようとする。この世での生命、自分の役割を淡々とやり遂げ、終えた生命は、おだやかな春のような個体として次世へ生まれ代わる。
 戦乱の時代が、つねに歴史から無くならないのは、この世に恨みを持ったタマシイが、いつもあったということだ、とも言える。
 現実的でないね。だって現実は、今の世でしかないからね。
 ところで、今の僕は自分が何をすべきなのか、皆目見当がつかない。ただ、

ことだけは知っている。ひとに、迷惑をかけない、いやな思いをさせない、ということだ。自分のできることは、たったこれしかなかった。やっと気づいたんだ。善行も悪行も、そんな価値観から何もしたいと思わないよ。
 今までがそうだったように── 今も、生命、ことにヒトの世界は、過渡期にあるようだ。
 で、僕のできることは、

ことらしい。子孫を残すとか、名誉を残すとかじゃないよ。

、これを強く肝に銘じて、この世での生命を全うしてやるんだ。いつか、誰かが僕になって、僕の記憶がとどめられていたらいい。あやまちが、繰り返されそうになった時、『それはしてはいけない』と、声を大にして、記憶が止めてくれるだろう。
 記憶が想起され、触発しあって連鎖して、戦乱のセの字もない、差別のサの字もない、おだやかな世界が、個体が、その世に蔓延るかもしれない。
 きっと創造したヌシ…この生命の創り手は、そんな世界を… このニンゲンという個体の集団が、独力の力で創造しうるか、試しているんだ。
 でないと、ソクラテスじゃないけど、どうもヘンだよ。生まれくる生命が、いつも路頭に迷っちまう。何のために生きてるんだ、ってね」
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