第28話 キルケゴールの婚約破棄

文字数 1,098文字

 彼は、レギーネという女性と婚約した。彼女には、すでに両親が認め、結婚を前提に交際する男がいたにも関わらず。
 彼は彼女を恋し、愛した。そしてやっと、婚約にこぎつけた。レギーネも、彼、セーレンを愛した。ふたりは婚約指輪を交わした。
 それだのに、彼はその婚約を一方的に破棄してしまう。
 ひどい話である。わけもわからず、勝手に惚れられ、勝手に捨てられたようなものである。しかも、ふたりで生活を、人生をやっていく将来さえ決めた後になって!

 だが、このひどい仕打ちをした、残酷な彼の気持ち、わかる気がする。
 文学者、思索家として異常なほど、膨大な量の日記を書いたというキルケゴールだが、ほとんどが暗示的に書かれていて、(ショックを受ければ「大地震」と書いたりして、その内容が全く読む者に明らかにされない)彼の人生、生活そのものが日記にさえ、とことん思索の言葉に埋められていたからか、と思わせる。将来、「研究」されることを嫌がった、とされるふしもあり、とにかく彼がどの時期に・どのような出来事があり、という子細については、だということである。
 その謎の中でも、最たる謎が、この婚約破棄である、という見方がある。
 せっかく、こっちを振り向いてくれた恋人を、捨てる── 凡人のぼくには、理解し難い。すごい勇気だとも思う。そうせざるを得なかった彼は、その胸、頭いっぱいに、何を抱えていただろうと思う。
 だが、やはり分かる気がする。言葉にすれば、何ということもない、彼は、彼の姉兄の多くが33歳以下で死んでいることから、自分も33歳以上は生き

のだと思い込んでいた。そして、それまでの生の時間を、「書く」ことに費やすことを、おのれの運命に

のだということ。
 キリスト教への強い思い、レギーネへの愛、残された自分の時間、生活…さまざまな思惑が溢れただろうが、彼が現実に選択したのは「とにかく書く」ことに尽きるのではないかと思う。

 ぼくが言いたいのは、これまた大したことではないが、「自分の命には限りがある」ことを知って(彼の場合、思い込みだったが)生きるのと、そうでなく生きるのとでは、全然生活模様、時間の費やし方が全く違ってくるだろう、ということだ。
 いついつまでに自分が死ぬ。これが分かっていたら、ぼくだったら…どうするだろう。
 それこそ自分が生きた証のように、今までにもまして、自分の体験したことを叩き台に、社会に言いたいことを書くだろか。「言いたいこと」を、とにかく言おうとすることに、時間をどんどんさくだろか。
 自分は、

死なない、と思っている。そうして、やんわり、ぬるい生活をしているということだ。
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