第70話 存在

文字数 1,670文字

「死ぬ気になれば何でもできる、って。おじいちゃんが言っていたよ」
「死ぬ気になれば… か。わたしは『無』について考えていたんだよ。おお、死と無、何か関係がありそうだな。死んだら、無、だろうか。いや、それは分からない。分かるのは、死んだら、それまでしてきたことが、本人にとって無になる、ということだろうか。それとも、止まる、ということだろうか。もう進展も後退もなく、止まるということが、死だろうか。
 死ぬ気になればと言われても、死ぬ気になるというのは、どんな気なのだろう。それもわたしには分からない。死んだ気になれば、だったら分かる。もう、自分はこの世にいないのだ、といったような気になることだ、と。それだったら、なんとも気楽でいいではないか。責任もない。無責任でいられる。何も束縛もなさそうだ。まるで自由みたいじゃないか」

「生きているって、そんなに責任が必要で、束縛があって、自由じゃないの?」
「さあ。それも頭で作った幻想のようなものだから」
「情死した日本の作家が言ってたね、『生きてくことは大変なことだ。あちこちに鎖が絡み合っていて、少しでも動くと血が噴き出す』って」
「それも彼の幻想だったのだが」
「幻想が、彼を殺したのかしら」
「幻想は、ひとを生かしもするし、殺しもするから。おそろしいことだよ、想う、ということは」
「何も想わず、行けたらいいのにね」
「それには、自分がしっかりしていないといけない。何も想わない、という意志みたいなものを、しっかり持てば、行けそうだな」
「意志も、想いでは?」
「どんなに、無になろうとしても、なれないものだよ。何も想わないことほど難しいものはない。寝てる時でさえ夢を見るありさまだ。(かす)みたいに、頭とか心には必ず、残ってしまうものがある。そしてもぞもぞ、動くんだな、そいつが。
 どうせ何か残るんだったら、じゃあそれを自分の意志で残してしまおう、とわたしは思った。で、そいつに言ってやったよ、『おまえはわたしの傘下にある。もぞもぞしてもムダだよ』とな。
 だが、それでもそいつは動くんだな。こいつを説得するには、どうすんべえかとわたしはまた考えた。
 で、また言ってやったのだ、『おい、おまえ、どうせ死ぬんだぞ』と。すると、やつはシュンとしたよ。うん、おとなしくなった」

「よかったね」
「うん、よかった。おかげで毎晩よく眠れるし、悪い夢は見ないし、気は楽だし、いいことづくめだ。ただ、それでも、まだ残るんだな、粕が。
 死を、わたしは知らないから、怖いのだよ。その怖がり屋さんには、こう言うことにした。
『お前さん、死が怖いのだろう? 当然だ、わたしはまだ生きているのだからな。わたしは生きている。だから、選んだのだよ、無になろうとすることを。だから選べたのだよ、死のうとすることを。だが結局無になることもできず、死ぬこともできぬありさまだ。
 だが、それを選んだのはわたしなのだ。残ったものが、無になれず、死ねなかったわたしなのだ。そうして残っている今のわたし── わたし自身ぐらい、しっかり、引き受けようと思ってね』と。
 するとどうだ、やつめ、またしてもシュンとした。
 わたしがしっかりしている間は、不安やおそれ、おののきとは無縁だよ。いや、無縁というより、縁がありすぎて、こうしている、というべきかな?

 だがしかし、そいつはまたこう言ってくるのだよ、『

は、』だろう? と。しっかりしてる間だけであって、そんなの長く続くまい、と。時が流れれば、お前は疲れ、しっかりしなくなるだろう、と。
 うん、時の流れの前には、処置なしだ。わたしはそう答えてやった。やつは、フフンと鼻で笑う。その得意げな鼻に、わたしは『諦念』を浴びせてやった。これは便利な観念だ。力も要らない。するとヤツは、霞のように消え入りそうな物体になった」
「… で、あなたは、今いる、と」
「そうらしい。いるのかいないのか分からぬまま、しかしわたしがここにいる、ということは言える。けっこう、ここにいる、ということには、だから自信めいたものを持っているのだよ」
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