第39話 ニーチェは狂っていない

文字数 2,427文字

「ツァラトゥストラ」を書くために生まれたニーチェは、町なかの路上で仰向けに倒れているところを通行人に発見され、以来彼は廃人同様の生活を送ったといわれる。
 廃人、または「影のように生きた」発狂後の彼の日常、生態がどんなものであったのか、わたしは知らない。ただ、老いた母親と妹のエリザベートに介護され、55歳でその生涯を閉じた。
 
 その兆候はあった。「自分はポーランド人だ」と言い出し(実際はドイツ人)、友人に送った手紙の差出人名に「ディオニュソス」と記したり、「私は神だ」と、往来で見ず知らずの人に話し掛けたり、家で奇妙な歌を歌い出したりしていたらしい。
 これらの言動は、こう書いただけでは、たいしたことではないように見える。彼の家系にはポーランド人の血も混ざっていたようだし、自分がドイツ人であることに彼は非常な嫌悪感をもっていた。自分を何人と思おうが、たいした問題ではない。
 また、ディオニュソスにこよなく心酔していた彼が、自分はディオニュソスである、とその差出人名に表わしたのも、わたしには分かる気がする。彼は、ディオニュソス

その手紙を書いたのだ。
「私は神だ」と通行人に話し掛けたのも、当然のようにわたしには思われる。彼は実際神であった。
 だが、もし実際に、かような言動にわたしが接し、そしておそらくおかしな内容の手紙を受け取ったなら、やはり一種の戦慄を覚えただろう。そこには、「異常」と感ぜずにはいられない、たしかに「狂気」を見た気になるだろう。

 だが、それがニーチェであったなら── わたしは、恐怖と戦慄のために涙ぐみながら、ああ、だ、彼である、彼であるのだ、と見つめることになると思う。
「狂った」その姿が、どんな異様で異常であっても、彼がなぜそうなったか、そうなる彼の必然、彼の

上のこと、その一線を

そうなっているのが、わたしには分かる、理解できると思えるからだ。
 精神異常── 異常を異常と、人に判断させるものは何であろう?
 それは言動異常というべきものであって、常軌を逸した言動によって、わたしたちはその人を「おかしい」と呼ぶ。だが、精神異常── 精神が異常であることを、どうして判断できるだろう。
 もし、おかしな言動によってその人が精神異常者であるとみなされるのならば、わたしたちは日頃から

を見、精神的なものと対し、精神的なものと交流していることになる…

 むろん、殺傷沙汰を起こすとかは別の話だ。自傷行為も、もしかしたら、傷つけられたくない肉体、本能の肉体に対する反自然として「異常」な行為であるかもしれない。
 だがニーチェの、彼の「狂気」とみられるところの異常さには、そのようなものはない。人を攻撃する残酷さはないし、(むしろ「発狂」前のほうが、キリスト教をはじめとして様々な人間に攻撃を加えている… それも文筆という作業によって)静かに、おとなしい、そこら辺りに生えている木のように「狂った」ように見える。

「発狂」前年に書かれた「この人を見よ」を読めば、わたしは笑いなくしてこの本を読めない。ニーチェは自分史を書く癖がもともとあったそうだが、これも彼の自分史であり、彼が書いてきた著作の、彼自身による批評、説明によって成り立っている本である。
 そして「ツァラトゥストラ」を読めば… もう4回ほど読み返しているが… 「神は死んだ」の言葉ばかりが独り歩きしているが、神は

ならなかったことが分かる。人間が人間、個人が個人として、各々に

神を殺し、超克を繰り返していかない限り、まことの創造、人間の進化はあり得ないというのである。
 平易にいえば、神のようなものにすがるのではなく、

で考え、この世界をよりよいものにして行きましょう、わたしたち個人個人が創造していきましょう、わたしたちの世界、個々からによって成る世界なんですから、ということになる。こんなふうに言い表すのは、あれほどの創作で表わされたニーチェの魂に申し訳ないが…。

 彼は、熱い人だった。少なくとも、紙とペンを持っている間は。だがそれは、彼からほとばしり出る熱量の、彼という容器からこぼれたマグマにすぎず… その本体である彼自身、つねに冷めやらぬものを彼のなかに抱き続けたろうと思う。彼自身が、抱

続けたのか…。
 その「発狂」は、梅毒のせいであったとか、遺伝によるものであるとかいわれる。だが、それらもふくめて、「発狂」は彼の必然であり、自然であり、彼にとって避くべからざる一線上のものだったと思う。

 経済的には、バーゼル大学で教鞭を振っていたことから、市から生涯、恩給のようなものを受け取ることができたという。バーゼル市の寛容に、ニーチェの「ツァラトゥストラ」は創造された、といってもいいかもしれない。だが、ニーチェ自身が社会から認知されることはなかった。ほんの、まもなく──「発狂」後のまもなくに、その著作が目されるようになった。
 だが、それもニーチェの、あるいは神の、運命、思し召し!であったと思える。
 衆目を浴びるようになった彼は、もし「正気」のままであったら、その持ち前の批判精神をさらに燃え滾らせ… 火の粉を、おのれを燃やす養分に、そして灰に変えていっただろうと思う。

 人から認められた賢者など、賢者でない、と言っていた人だ。それは、せいぜい

なのだ、と。彼は、崇められる宗教家にもなりたくなかったし、「愚民」に認められる人間になど、なりたくなった。なれなかった…
 そして、だが、認められないことに、そうとうの寂しさも感じていた。
 思うに、ニーチェは、ニーチェとしての人生を生きたのだ。発狂は、彼の自然であり、必然であった。それが、わたしには分かる── わたしには、彼の発狂が、発狂とできない。
 もう、いっぱい、溢れかえった。もう、おやすみなさい。彼の神の、なぐさみ。それがニーチェの「発狂」だったと思う。
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