第63話 ここに何かを書く時

文字数 1,286文字

 どうしても、カクバッテしまう。
「作品」というのを、意識する。
 これを目にした方の、貴重なお時間を、奪うような形になるのだから、それなりのものを書きたいと思う。読んで、ヨカッタと思われるようなことを、と思う。
 だが、どうも、そういうものでもないらしい。
 こちらはこちらで、かってにやる。好きな、書きたいことを、書く。
 ひとり作業。
 その時、ベクトルが分散すると、どうも、うまくない。読み手に、これで伝わるだろか、などと考えると、どうもよろしくない。

「あそび」なのかもしれない。あそびの基本は、ひとりあそびだ。
 読んでいる人も、きっとひとりで、書いているほうも、ひとりで書いている。
 その線と線が、どこで交じり合うかは、もう、知れたことではない。
 意識はする。この今という時を生きている、共通の空気を吸うものとして、その接点を。
 かの国で行われている戦争も、長引けば長引くほど、流れてくるニュースにも「慣れ」てしまうのかな、とか。
 政治が、市井と乖離する一方で、乖離していること自体、当然のようになっているのかな、とか。
 そう、べつに、どうということもないのだ。ここに何か書いたからって、何がどうなるわけでもない。
 ならば、せいぜい娯楽的なことを書いて、たのしく、人さまを笑わすようなことを記すのが、得策というものかもしれない。
 だが、やはり書いている時、ひとりなのだ。生活は、家人がいたり、電話で誰かと話したりして、むしろ笑ってばかりいる。ひとりで、何か書く時くらい、真剣に、照れ隠しで笑うこともせず、今この時間の中にいるということを接点に、会ったこともない人に向けて、記したいと思ってしまう。

 まったく、「好きで、する」が基本だ。何をやるにしても。

「要するに私は生きたいのであり、それ以外に、特に何も言いたいことはないような気がする」。
 そんな一文から始まる、山川方夫のエッセイも面白い。この人の書いたものは、自分に対して真剣に生きた、そんな内面の動き、山川さんを山川さんとした、ある法則のようなものが、微細に繊細に描かれているように思う。
「誠実な人だった」が、故人となった山川さんに対する、多くの人の印象であったようだ。
 だが、山川さんは、自分に対して真剣であったのだ。それを「誠実」というのは、まわりの

であり、山川さんのしごとは、自分に対する真剣さに尽きると思う。
 このように、きっと、自己と他者、一と、そのまわりは、乖離している。
 もともと、離れているものだ。
「自分は、他人になれない」。
 山川さんに、ものを書かせたものは、その強い自覚からだったように思う。
 やさしい、人だったのだと思う。

 とにかく、文を書く時、自分と向き合うことになる。比重を、どんなに「読み手」に向けても、それは自分に向かうことになる。そいつが、どんなものであるのか、正体不明であることも、それは貴重な結び目になるような気がする。
「おまえは、何のために生きてるんだ?」
 返答に窮していると、
「自分を知るためだろう?」
 そう言った、出版社の社長がいた。
 みんな、そうなんだろうか。みんな?
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