第54話 本のよみかた

文字数 1,649文字

 むかしから、その作者自身のことを書いている本が好きだった。
 書き手自身が、どんな生き方をし、どんな感じ方をし、どんな時間を過ごしてきたのか。そこには、もちろん考え方も含まれてくるから、結局その本から見える、「書き手自身」に僕はいちばん興味を持っていた。
 だから一般小説風に、「彼が」「彼女は」といった三人称を主人公にした本は、作者自身を迂回しているように思えて、まどろっこしかった。たとえそれが作り物でも、「私は」を主語に書かれたものが、直接的で、僕の「作者を知りたい願望」が満たされた。
 旅行をしても、高価なレストランなんかに行っても、風景や味などにはほとんど関心がない。そこに住まう人、その生活感、高価な食事をする富裕層的な人はどんな人なんだろう、と、ヒトにばかり興味が行ってしまう。

 この、性癖ともいえる僕の「ヒトへの好奇心」は、そのまま、この小説投稿サイトへの接し方にもあてはまる。といって、自分のことばかりに熱中し、客観的なまわりを見ない作者の作品は、苦手だ。(この言葉、そっくりそのまま、僕自身に言ってやりたい)
 といって、客観にばかり捉われて、作者のハナイキが何も感じられないようなのも、読んでいてナンダロウと感じてしまう。
 それは僕の読み方のせいで、たぶん僕は小説を小説として読んでいないのだ。花子は、太郎は、と物語があったとしても、この花子・太郎を書く、画面の向こうにいる作者本体(?)にばかり、気が行ってしまう。
 で、ああ、こういう表現をするんだ、とか、ここにこういう描写を入れるのか、と、その作者本体の「そう表現せざるをえない」人となりのようなところを、ほとんど直感的に感じながら読んでいるようだ。
 いやらしい読み方である。もっと素直に、書かれたことだけをそのまま読めばいいのにと思う。が、これは子どもの頃、小学高学年~中学くらいから、こういう読み方、そういう「作者があらわされた本」を好んできたから、もう自分の性癖なんだと思う。

 今、山川方夫という作家に耽溺している。この人は、大江健三郎、石原慎太郎とほぼ同世代で、しかし思想的なものにこだわらぬ、とてもスマートな、おシャレで、でも誠実な、素敵な作家だ。三十半ばで、交通事故で亡くなってしまった。
 以前から気になる作家で、古本屋でたまたま全集を見つけ購入、ずっと本棚にいるだけだったが、今やっと読めている。
 感じるのは、「あ、本って、じっくり読むものなんだな」ということ。
 もちろん、じっくり読もうとできるだけの、魅力ある内容でなければいけない。そして、誠実であるということ。この山川さんという人は、本当に誠実だな、と思う。こつこつ、こつこつ書いている。そういう姿が、ありありと、目に見えるようだ。
 すると、この人の書いているものが、愛しく、読んでいてフッと笑えたりする。もちろん、つまらないのもある。でも、それも許せてしまう。そう、僕は山川さんのファンなのだ。
 冬樹社という出版社は、面白い出版社だった。椎名麟三の全集も出し、山川さんのも出してくれた。誠実な作家と、誠実な出版社。イイものを、イイものとして出そうとし、出してくれたと思う。
 
 とりとめのない頭のまま、書き続ければ、やっぱり僕は何で書いているんだろう、と、仕方のないことを考える。もう文学賞とかに送る気はさらさら無いし、特に「認められよう」とも思わない。そりゃ読まれたりすれば嬉しいけれど、それはやはり結果であって、読まれることを目的に書くよりも、何か大切なことが、比べるものではないけれど、あるような気がする。
 誠実。僕は、誠実な作家が好きだ。きっと、僕が誠実でないからだろうと思う。
 誠実とは? 自分に正直になること? それだけでは、単なるワガママだ。正直でありながら、客観的にも物事をよく見れ、「主」と「客」を同列に、あつかうことができることだろう。作品でいえば、その主と客の両者を、同列に描写することだろう。
 僕は、自己に、重きを置き過ぎている…。
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