第24話 神と自然と運命と

文字数 1,027文字

 パスカルとモンテーニュ。
 ふたりとも、キリスト者であった。
 だが、「パスカルは神に殺された」とニーチェは言う。
 その敬虔すぎる信仰心ゆえ、肝心な自分自身がはるか後方に追いやられ、彼自身の創造した神に緊縛されてしまった。だから彼は声高に言う、「わたしは神を信じている。わたしは真のキリスト者だ」
 神を信じすぎたあまりに、神に喰われたパスカル。
 
 対して、モンテーニュは神とうまくやっていた。
 父から譲り受けた自宅、(シャトー)の一階には礼拝堂さえあって、一見、敬虔なキリスト者に見えた。
 だが、それは「信じてますよ、ええ、皆さんと同じです」という社会にならった慣習、習慣以上の意味はなく、彼が神以上に心から畏敬し、信じていたのは「自然」であり「運命」だった。
 モンテーニュは、神に従うより「自然に従って生きること」を、至上の生き方とした。

 パスカルは、早熟の天才だったゆえに、早く跳びすぎた。それだけの脚力もあった。だが、その生涯は、あまり幸せそうでない。
 彼の生涯を読むと、人間の一生、万物の在り様は、天秤のようなものであることを痛感する。
 一方に偏ったある時期を過ごしたパスカルが、名声やら地位を得た。得ることは、そのぶんチャンと、失うものを伴った。軽くなってしまった天秤の一方に、

を付けようとして、彼は後年の時間、必死に神にすがったように思える。

 バランスを保つこと── それは人間の、そしてこの天地の、万物を育てる自然の、いのちのはたらきに見える。
 一方に偏り、バランスを崩したいのちは、それ自身のちからで中点に戻ろうとする。無意思に、無意識に。それこそ、自然であるように。

 ニーチェはパスカルを哀れみ、モンテーニュを愛読した。
 僕には、ニーチェの狂気はまっとうに見える。パスカルの狂信には、涙ぐむ。
「パンセ」も「ツァラトゥストラ」も、創造せざるをえない、彼らの手によってつくられたものには違いない。
 だが、それは個人の運命を越えた、もっともっと大きな運命によって描かれたに違いない。
 自然のはたらきには抗えない。いや、抗うまいとして、モンテーニュは積極的な諦念を持って、喜んで「エセー」を書き続けた。

 何が言いたかったのかといえば、

 神に自分を導かせまい。
 生ける人を自分は信じたい。
 自然にめぐり逢った、
 ニーチェのような繊細な情熱と
 荘子の、虚空のような寛容さと
 モンテーニュが常に感じていた「書ける喜び」を

 我が身に備えたいということだった。
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