第62話 ホントウのシアワセ
文字数 587文字
一体、今まで何を書いてきたのかと思う時がある。
なにやら時間をかけて、何か考えたつもりになって、一生懸命になった気になって、しかし、さて、それで? と。
その時その時のことを、ひとりで何やらPC画面に向かって、何をしていたんだろう、と。
何も書いていなかった、と思える時がある。
幸/不幸、そんな極端なところから見るならば(だが結局そんな “ 気分 ” に左右されるのだと思う)、「この世」という自分に関わり合う狭い世界から見るならば、自分ひとりだけから成るシアワセはあり得ない、というということ、それはわかった。
ひとりだけでは、シアワセになれない。
誰かと一緒にいればシアワセ、という意味ではない。
自分のやりたいことができればシアワセ、という意味でもない。
シアワセが、個人、ひとりが感じるものであるのは、その通りだ。
が、世界、それが近所であれ地球の反対側であれ、まわりと自己は、どうしたところで繋がっている。
自分ひとりがシアワセになったところで、繋がっているまわりがそうでない以上、その自分もホントウにはシアワセになれないのだ。
すると、では、ホントウのシアワセなんか、無い、となる。
そも、「ホントウ」は主観で、「シアワセ」は気分だ。
しかし、主観でないホントウ、気分でないシアワセ、も、確乎としてあることが、ホントウのことに思える。
ほら、何も書いてない。
なにやら時間をかけて、何か考えたつもりになって、一生懸命になった気になって、しかし、さて、それで? と。
その時その時のことを、ひとりで何やらPC画面に向かって、何をしていたんだろう、と。
何も書いていなかった、と思える時がある。
幸/不幸、そんな極端なところから見るならば(だが結局そんな “ 気分 ” に左右されるのだと思う)、「この世」という自分に関わり合う狭い世界から見るならば、自分ひとりだけから成るシアワセはあり得ない、というということ、それはわかった。
ひとりだけでは、シアワセになれない。
誰かと一緒にいればシアワセ、という意味ではない。
自分のやりたいことができればシアワセ、という意味でもない。
シアワセが、個人、ひとりが感じるものであるのは、その通りだ。
が、世界、それが近所であれ地球の反対側であれ、まわりと自己は、どうしたところで繋がっている。
自分ひとりがシアワセになったところで、繋がっているまわりがそうでない以上、その自分もホントウにはシアワセになれないのだ。
すると、では、ホントウのシアワセなんか、無い、となる。
そも、「ホントウ」は主観で、「シアワセ」は気分だ。
しかし、主観でないホントウ、気分でないシアワセ、も、確乎としてあることが、ホントウのことに思える。
ほら、何も書いてない。