第40話 ところで、この連載について

文字数 1,083文字

 その処置に困っている。
 最初、というか、自分は「こういった心構えで」この連載を続けて行こう、としていた。
 それは詩の精神のようなもの、キルケゴールとニーチェから得たインスピレーションのようなもの、これを基に、ここでの「創作活動」を連ねていこうとしていた。
 で、少し引っ掛かりを持ちながら、詩篇、という大仰な言を付けた。が、徐々に、というか最初から、ほとんど詩になどなっていない。だが、自分にしてみれば、詩の精神… こっぱずかしいが、情熱的な、刹那的な… あの二人の思索家の中にある、美しい心、それが私にとっての詩的なもの、それを基軸に「思い」を体現して行きたい動機、これを自分の気持ち、言語化するバックボーンにして、書いてきたつもりだった。
 だが、あくまでも私にとっての詩的イメージにほかならず… そうだ、詩ではない、的だ、となって、詩的、と途中から改題した。
 が、なかなか、落ち着かない。背伸びしていると思う。あの二人の思索家が、「詩人」と呼ばれるのは、学問的なものを書きながら、その文中に詩的な表現が不意に現れるからで、しかもその言葉は言葉でなく、ぼくには彼ら二人を立たせている精神そのもののように感じられた。だが、それはあくまでもぼくにとっての詩的なものであって、一般に言われる「詩」とは全然違う、狭い、自分の中でのみの詩、詩的なもの、だった。
 タイトルと内容が、かけ離れている… これが、どうにも、くるしい。自分が自分についてこれないようなものを書こうとして、タイトルと内容が一致していないまま続けて行くのも、どうかと思う。
 が、もうしばし、しがみついて行きたいと思う。刹那的な、切羽詰まったような気持ちに陥った時、このような場所があることが、一種のはけ口のようにもなって、論理的でない、ただの

のようになりそうだけれど、なるべく感情的なところに重きをおいて、言葉にすれば、それが「感情のコントロール」することにも繋がるだろう。文体、体裁は、あとづけ。こんなふうに書いたら、あとで後悔するな、と思っても、それを分かって書くのなら、後悔もしないだろう。確認、することになる。恥ずかしさを受け止められれば、こわいものも、なくなる気がする。妙なカッコづけ、体裁づけ、プライドが為そうとするような行為。なるべく、なるべく、少なくしていきたい。
 見かけを、最低限、どうにかしようとするはたらきは出るだろうが、それこそ見かけのための見かけでなく、自分自身として、それが結果的に見かけの形になる…
「人はいかにして自分自身になるか」が、「この人を見よ」の副題だった。
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