第11話 (小休止)

文字数 1,779文字

(少しの間、パソコンから離れて暮らしていたので、久々の更新となります)

 埼玉の方へ行って、パートナーの実家に4日くらい居て、昨日帰宅。奈良からはけっこう遠く、新幹線でニーチェの「善悪の彼岸」を熟読…東京駅、乗り換える時に見かけた「29」とかいう立ち食い蕎麦屋の美味、大宮の雑踏に目を回し。
 その「29」という蕎麦屋、立ち食いなのに蕎麦湯の入ったポットが! 三人が立てるカウンター、その真ん中にいた私の目の前に。しかし両サイドには蕎麦湯ポットがない。
 右隣りの連れ合いと私は飲めたが、左隣りのサラリーマン風の男性は飲めない状況。それに三人の間には飛沫防止ボード。
 私と左隣りの男性はほぼ同時に食べ終え、私は蕎麦湯を飲む。彼に、「蕎麦湯、飲みます?」とポットを持って聞く。30歳半ばほどだろか、サラリーマン風の彼、丁寧に手を横に振って、「要りません」の仕草をして、何とも言えぬいい笑顔で、「ありがとうございます」。
 横から変なおじさんに蕎麦湯を勧められたことが意表を突いたのかもしれないが、細い目をほんとに笑わせて、なんだかほんわかした。

 ちょっと高級な立ち食い蕎麦で(かけそば470円)、奥には簡単な座れるカウンターもあった。いや、ほんとに美味しかった。タテに切られた長めのネギも気品があったし、蕎麦湯が置いてあるのがとにかく嬉しかった。
 まぁ、それはそれとして…
 パートナーの両親、特に母の方は、認知症がかなり進んでいる。池田晶子の「高齢化、認知症社会の解決法」といった感じの文章を思い出す。「人間が、おむつをしたり、自分で下の世話もできなくなったら、人間の尊厳に関わる。そうなったら、自分で自殺できるように…自死する権利があっていい」。
 むかし週刊文春で連載されていた「人間自身」という中での、文だったと思うが、ほんとにそうではないかと思う。
 池田晶子は、その過激な表現ゆえに(まともなことを言っているのに)、文学界では干されていたらしい。
 ニーチェも、善や道徳を疑うことの大切さを説いている。命とは何なのか、存在とは何かもろくに考えず、ただ善や正しさばかり遂行しようとするのは、家畜のようなもので、愚かしいことだ、と…。真の豊かさとは、ほど遠い、と。

 今まで、私は善、正義、といったもの、書いてみればいかがわしい言葉、を重くとらえていたけれど、悪、悪徳をふくめて考える…みだりに善をヨシ、悪をダメ、などと判断しない、その重要性を、自分の中に取り入れようとしている。
 きっと、これが本当にだいじなんだと思う。でないと、そこに止まったままで、先へ進めないのだ。
 むろん悲惨な事件や、自殺のニュースなどは痛い。ひどい気持ちになるけれど、全体、世界として、善悪の範疇を超えて、考えていかなくちゃと思う。
「みんな」は、きっと変わらない。これが善、これが悪、としか判断しないだろう。しかし、それが「判断」なのか? 自分で考えての判断なのか?

 いや、こんなことを書いても仕方ないが、老いた母や父は、接していて、私にはとても楽しい。
「頭が外れて、どっか行っちゃうんですよ」とか、「また戻ってくるんだけど、時間がかかって」とか、うわあ、お母さん、頭いいなあ、というか凄い表現、しっかりなさってる(客観的には物忘れがひどく、数秒前のことも部分的に覚えていない)、と感心してしまう。
 薬を飲む時も、「あなた、飲んだの?」と父に何回も聞く。「ぼくは飲まないよ。きみが飲むんだよ。ぼくは医者に行ってないから」と父。すると、「あ~ら、(医者から)相手にされてないんだ」と、母は嬉しそうに優越感に浸って、少し意地悪そうに笑って言う。
 そうか、医者から相手にされない、って発想、凄いなぁ、と私はほんとに感心して、一緒に笑う。そして、どうしたわけか、やっぱり楽しい。

 目薬を飲もうとしてしまったり、夜中にドスンと音がして、パートナーが行くと母が何かにつまずいたのか転倒していたりと、てんやわんやの時もあったが、まぁとにかく、それでも、暮らしていらっしゃるのだ…
 全く、老いるって何なのか、その他、いろんなことを思う。今、いちばんの心配は、いや、心配事なんか無限にある。しかし私の両親、母も、晩年は同じようだったんだよな。
 またしても、何が言いたいのか分からぬ文になっている。イケマセンネ…
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