第13話 「死に至る病」

文字数 2,564文字

「絶望は死に至る病である。それは永遠に死ぬという、死んで、しかも死なないという、死を死ぬという、この苦悶に満ちた矛盾であり、この自己における病である」
 キルケゴールのこの言葉を目にした15、6歳の頃は、何が何だか分からなかった。
 ただ、「あ、この人はホントウのことを言っている」ということだけは分かった。感じた、入ってきた。
 何かを真剣に追求していくキルケゴールの姿勢、その確かさに、打たれた。こういう言葉は、そういう人間からしか出てこない、とも強く感じた。
 真実?めいたものが、そこから湧き立っているのを体感した、初めての「哲学書体験」だった。
 これは、平凡社発刊の「世界の思想家」シリーズの「キルケゴール」で、その表紙に書かれていた言葉。
 他に、「不安はひとつの共感的反感であり、かつひとつの反感的共感である」とか、「結婚せよ、君はそれを悔いるだろう。結婚するな、君はそれをやはり悔いるだろう。結婚するか、しないかのどちらかだが、いずれにしても君は悔いるだろう」などが書かれている。
 いずれも、キルケゴールの著作から抜粋された短い言葉。

 キルケゴールは、「私の著作を読んでいるうちに、読者が自己に覚醒することがあったなら、残りの部分は読まないで、ただちに自分自身に関わることを進めてほしい」と言っている。人間が他者に対してできることは、その人が自己自身となるのをたすけること、と信じていたキルケゴール。かれの著作を通じて、ぼくはまさに自己自身になるきっかけを得ていると思う。でないと、あれだけ真摯に、難しいことを書き続けたかれに、失礼というか、申し訳なくも感じる。

 ぼくの、ない頭で、この「死に至る病」の一言の第一印象をそのまま書けば、不安や絶望の中にこそ、生きている意味がある、と言うことができる。生きる意味は、不安や絶望があるからこそ、あるんだ、と。
 きっと、人生は希望に満ち溢れる時間より、惰性の電車に乗って、運ばれるだけの時間の方が多い。さらに、時には言いようもない絶望、希望が一さじもないと思える時間が波のように訪れる。危機的な、精神のピンチの時間。その時間は、あたかも永遠に続く、圧倒的な「絶望さま」に支配される時間に思われる。
 どうしてこうなるのか? というところから、あれこれと考え、むかしの哲学の轍を踏み直し、思想家たちは四方へ飛んでいく自分の頭の中を子細に書き続けたように思う。そしてキルケゴールは、ニーチェと同じく、机にかじりつくような研究態度よりも、自分の著作を通じて、読者ひとりひとりの自己自身に目覚めるよう、個々人が生活を生きる中で、自分の著作が生きた形で生かされることを強く望んでいた。

「死に至る病」。
 冒頭に引用した言葉から、自分なりに考えたこと。
 望みがないということ── それは、生き生きとした望みがある時間にくらべて、死のような永遠の時間であるということ。
 生は永遠でない。死によって、時間によって限定されている。限定されないものは、無限であり、永遠であるかのように思えるということ。
 希望は、目的から限定を受ける。目的を持った自分がその目的に向かうことができる時、希望は初めて希望となるだろう。
 しかし絶望は、目的を持たない。むしろ目的の対象から拒否され、自分から主体的に、目的へ歩を進めることができなくなる。停滞した不安や絶望を抱える精神は、限定を失い、枠を外れる。
 だが、それは何も、今に始まった精神のはたらきではない。不安を見つけることが、心の本来のはたらきなのだ。それは心の、うまれた時からある姿である。人間は、だから不安なしでは生きてこれず、不安とともに、心とともに、生きていくことになる。

 そして心は、五歳児のように落ち着きがない。これを統括するのが、親である精神の役目なのだが、絶望の時間はこの精神さえもまるごと飲みこんでしまう。絶望のあまり、自死さえ思うこともある。
 そうして死を意識する時、人間は永遠を感じている。その時、精神が肉体を支配して、精神と肉体の二者からなるひとりの人間が、まるで精神そのものになっている。均衡、バランスを失い、沼地に突っ込んだ片足から浸食してくるアメーバの如きものから、全身がくるまれる。
 だが、その時、人は生(=希望)から限定を受けず、自由な精神そのものになっている。心、精神が、最も自由を謳歌している時間が、絶望の時間であると言えるだろう。
 それは元来、精神の持っている性質であって、ふだんから、人に宿って、寝食をともにしている精神が、その性能を発揮している時間なのだ。
 だが人は、そこから脱し、越えようとする。つらい、苦しい時間だからだ。その時間を生む心は、しかし、肉体が死ぬまで、ひとりの人間と生命をともに続けて止まない。
 これを「病」とキルケゴールが呼んだのは、かれのセンスだと思う。確かに、人を苦しめるものが病だとしたら、立派な病だろう。だが、誰もがこの心をもっているとしたら、というところで、ぼくの考えは限界を迎える。

 ただぼくに分かるのは、不安な心が動き回って、絶望となって精神を支配する時、まるで生きた心地がしない。死を、死に続けているような状態だ。だが、それは安定や喜び、歓楽を味わいたいとする心が求めた一つの結果のようなもので、希望に満ちた時間こそ「生きていることに相応しい、素晴らしい状態」と仮定して、それと違う状態になっているにすぎず、絶望しているということだ。
 平凡社の「キルケゴール」のページをめくれば、かれの思考の進み方、自分はこれを考え、あれを考え、という、目についた些細なホコリでも拾って描写しようとする、かれの頭の中が漏れなく、くまなく、言葉にされているように感じる。この言葉の多さに、とにかく読んでいて圧倒されてしまう。

「自分について絶望すること、絶望的に自分自身から脱け出ようと欲すること、これがあらゆる絶望の公式である」(死に至る病)

 人間が目に見る出来事、事象は、目に見えない心、精神から生まれる副産物で、その生みの親である心、精神に、頭から突っ込んでいったキルケゴール。ぼくは一生、かれを理解することができないかもしれない。それでも、切り離すことができない、自分の中にのめり込んでいる存在…
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