Penitentiary Philosohy【1/3】
文字数 1,360文字
〈和の庭〉の〈斜陽地区〉から北上して離れ、ずっと遠く、北東へ向かったところにある、風光明媚な土地。
多賀郡は、山もあれば、すぐに海に至る大きな道がつながっていると言った具合だ。
多賀郡は、昔の宿場町でもあったそうだ。
「メシマノウマヤ」と呼称されているのがそれだ。
その記述に関しては風土記に詳しいが、あいにくわたしの単細胞なのーみそからは、そこらへんの知識が抜けている。
わたしの先生、灰澤瑠歌が師範を務めていた学校〈多賀郡館〉は、その、多賀郡にあった。
藩校が母体だったとも聞く。
多賀郡館。
ここで先の革命前夜、〈水兎学〉は、大成した。
全国から革命の志士たちがこぞって水兎学という、完全には体系だっていないと揶揄されることもあるこの思想を学びに来た。
水兎学の尊攘思想で革命は成功し、いままで隠されていて、言葉に出すのもはばかれていた歴史が、表舞台に現れた。
幕藩体制は、それによって姿を変えることになる。
革命の原動力になった水兎学の考えもそのカタチを変え、様々な教育の根幹をなしている。
だが、多賀郡で水兎学派は地位が高いか、というとほどほどにだが不安である。
思想的に影響を与えたのは水兎学なのだが、多賀郡の内部では佐幕派と尊攘派で内ゲバ状態になり、優秀な人材のほとんどは死んでしまった。
よって、水兎学を学びに来た他藩の者たちが、地元に戻り、水兎学の種子を遠くで蒔き、〈実践〉を行う集団となっていったのが、先の革命で証明されたことである。
水兎学を学んだ多賀郡の〈浪士〉も、先の革命で活躍したにはした。
だが、水兎学の本分は〈退魔士〉であり、魔性(アヤカシ)や「まつろわぬ者」および、まつろわぬ者が使役した魔性を〈調伏〉させたのが、先の革命の舞台裏での、多賀郡の浪士に紛れた〈退魔士〉の暗躍であった。
知る人ぞ知る活躍。
言い換えれば、ほとんどの人が知らない活動をしていたのが退魔士であり、革命の表舞台には、水兎学の徒である退魔士の名前は刻まれてはいない。
表の舞台で隠されていた歴史のベールを開かせ、国を〈あるべき姿〉に戻しそうとした者たちが、英雄とされたのだった。
わたし、夢野壊色は今、日帰りの予定で、ひとり、灰澤瑠歌先生の眠っているお墓の前に、花束を抱え、立っていた。
「先生は東の国の〈ひなび〉を愛してはいましたが、こんな辺鄙なところで眠る先生は、今はどんな気分で、下界を見下ろしているのでしょう」
墓前に向かい、わたしは喋る。
「水兎学師範、灰澤瑠歌先生……今も、今になっても、お慕いしています、この不肖・夢野壊色は」
泣きたくなってくる。
わたしは、花束を捧げる。
線香と供物も、墓前に供えた。
忘れられないひと、というのが、人生においてはしばしばいる。
忘れられないそのひとは、往々にして、自分の中では「生きている」ものだ。
いつも、先生の言葉の数々を思い出してしまうわたしがいる。
次世代を担う者も育てていかなくちゃならない年齢になりそうなのに、未だに恩師の言葉によって〈かろうじて生きていける〉自分がいる。
灰澤瑠歌は、わたしの中で生きている……。
わたしは、嗚咽を漏らし、その場でうずくまった。