Trampled Under Foot【1/4】
文字数 1,375文字
『破戒』には〈学校の小使い〉が出てくる。
けど、数年後のわたしがまさか、小説にも出てくるその学校の〈小使い〉である〈用務員〉になるとは、誰も予想していなかっただろう。
正確には、寄宿舎の用務員になったわけだけれども。
それはともかく、読むと意外にコミカルなのが、文学というものだ。
いや、純文学のテーマは概して重く、そこに諧謔が混じる形式を取る。
その〈妙〉こそが、文学のツボだろう。
重く、しかしその重さは軽やかに。
ユーモアをたっぷり入れた、真っ黒い珈琲を暗い照明の中で飲むような。
白い木製のベンチに座りながら。
視線を、わたしは読書中の『破戒』に落とす。
そこには、こう書いてあった。
…………父はまたつけたして、世に出て身を立てる子の秘訣、唯一つののぞみ、唯一つのてだて、それは身の素性を隠すより外に無い、
…………『たとへいかなる目を見ようと、いかなる人にめぐりあはうと決して其とはうちあけるな、一旦のいかりかなしみにこのいましめを忘れたら、その時こそよのなかから捨てられたものと思へ』
…………こう父は教へたのである。
「確かに、そうね」
誰にともなくそう呟いてから、わたしは校庭の芝生で昼食を取っている、他の生徒たちの方を見る。
独りでいるのは、わたしくらいだ。
すこし、思うところもある。
女生徒たちのなかには、くすくす笑いながら、わたしを見ている者もいる。
「この噂、ご存知かしら。夢野さんてね、同性愛者なんですって」
「まぁ! 夢野さんて、あのいつも俯いてご本を読んでらっしゃる方ですわよね」
「そうそう。どういうつもりで読んでいることやら」
「怖い怖い……」
ギリギリ聞こえるようにする陰口。
もう慣れた。
わたしに癇癪を起させたいのだろう。
わたしはこの学校には不似合いだ。
くちびるを噛んでこみ上げる悔しさを我慢していると、「りん」と、鈴の音が鳴った。
それは、男子学生風にたすきがけにした鞄につけた、お守りについた鈴の音。
わたしは鈴の音の方を見る。
それは、校庭の中庭を横切る、全身が刀でできているのではないか、と思える鋭さの塊。
名前を、鏑木盛夏、と言う。
なんであの娘は、あんなに凍るような視線でまわりを見ていられるのだろう。
〈先生のお気に入り〉、噂には〈先生の稚児〉と呼ばれている、あの鏑木盛夏は、なぜ、あんなに冷静に物事を見られるの?
無意識に目で追ってしまっていた相手、鏑木盛夏が、ベンチを見る。
わたしと目が合う。
だが、それは一瞬だった。
鏑木は、校庭の中庭を横切って、すぐ建物のなかに消えてしまう。
悔しい。
わたしは悔しかった。
まわりからの好奇の視線も、鏑木盛夏の落ち着き払ったその態度も。
先生……灰澤瑠歌(はいざわるか)先生は、なんであんな愛想なしで見下したような冷たい女、鏑木盛夏を稚児にしているのだろうか。
わたしには、解せなかった。
灰澤先生のことを好きなわたしは、またくちびるを噛んだ。
強く噛みすぎて、血が出た。
その血を、わたしは舐めとる。
鉄のような味がした。