Long Season【2/6】
文字数 1,907文字
「あー。もう、ほんと、信じらんない! なんなの、あの百合ップルは!」
怒り露わに黎明地区の夜道を歩くわたし。
石畳の硬さ。
おぼろな月。
百合ップル、というのは、百合なカップルを指す、わたしの周辺で使われるスラングだ。
まったく、なにを考えているのか、鏑木盛夏は。
「苺屋へでも行くか」
好きなカフェーの屋号を、わたしは口にする。
カフェーとは、料理を出すバーのようなものである。
洋食のほか、お酒や珈琲を出してくれる。
今の時間帯も、まだ開いているはず。
そして、苺屋というカフェーには、馴染みの女給、苺屋かぷりこがいる。
かぷりこのところで飲みなおすのも、アリだろう。
持ち込みは大丈夫だっただろうか。
手には角瓶がある。
えーい、これはかぷりこへの手土産だ。
わたしはひょこひょことガス灯の明かりを頼りに、歩いていく。
石畳にわたしの影法師が映る。
影法師の方が、本物のわたしみたいだ。
そう思うと少し愉快になって、さっきあったことを、忘れることができるのだった。
煙草の煙と珈琲の香りが立ち込めるカフェー〈苺屋キッチン〉の店内に入り、まっすぐカウンター席まで行き、座る。
マスターが目配せすると、かぷりこ嬢がやってきた。
「壊色じゃんか。どーした? 顔が青ざめているぜ」
「これ、手土産」
「角瓶? クッソ高いものをどーもな。もらっておくぜ、男装女子、壊色ちゃん」
「かぷりこ。テンションはいつも通りだな。それが仕事する態度か」
「壊色に言われちゃおしまいだな、あたしも。あっは」
「グラス麦酒を」
「はいよ」
勘定表にメモすると、奥の麦酒サーバーの方へと向かっていくかぷりこ。
ひとりになったわたしは、落ち着かせるために、マッチを擦って、ポケットから取り出した紙巻煙草に火をつける。
紫煙を吐き出す。
「相変わらず、空っぽだねぇ」
横合いから、コースターをテーブルに置くかぷりこ。コースターの上に麦酒を載せる。
「空っぽ? わたしが?」
かぷりこはわたしの隣のカウンター席に座り、あはは、と嗤う。
「欠落感がある、って感じじゃない。〈洞〉なんだ。中身がなにもない、空洞なんだよな」
「〈洞〉ねぇ……」
「穴があるから悲鳴のように音が出る、っていうよりも、空っぽの内部が響いて、その大きな空洞の振動で音が出るイメージか、な」
「難しいこと、言うじゃないか、かぷりこ嬢」
「いや、あたしもよくわかんねーけどよ。壊色を見てると、〈洞〉のイメージが強くて」
わたしは、かぷりこに訊く。
「かぷりこが通っていた、〈幼年学校〉には、そんな奴、ごまんといただろ?」
かぷりこは人差し指を立て、口元に押し当て「しー!」と、言う。
黙っていてほしい、ということだ。
「今のあたしは女給。軍とは関係ない」
「ごめん」
「まあ、いいさ。〈あの場所〉にも、確かにいたよ、空っぽだった奴が。大きな〈空虚〉を背負った奴が。今じゃそいつは無政府主義者の首領さ」
「ああ……」
幼年学校出身で無政府主義者と言えば、大杉幸(おおすぎさち)しか、いないだろう。
わたしが各地を旅して歩いていたとき、その名をあらゆる地方で何度も聞いた。
だが、〈あの震災〉で死んだはずではなかったか。
いや、これ以上の詮索は、今はやめよう。
紙巻煙草を灰皿に置いたわたしは、麦酒を、ぐいっとあおる。
グラスが冷えていて、おいしい。
紙巻をまたくわえて、紫煙を天井に向かって吐く。
「レコードが聴きたいな」
わたしが言う。
「鏑木盛夏のところで聴けばいいじゃないか。あいつは、音響マニアでも有名だ」
「わたしはたった今、その盛夏のとこからここへやってきたんだ」
「あー、わりぃ。痴話喧嘩でもしたか、壊色?」
「わたしと盛夏はそんな関係じゃない。いや、そもそもあいつが性的にだらしなかったとは思ってなくて、だな」
「お。楽しそうな話になりそうじゃん。聴かせてよ」
「やなこった」
「でも、顔が青ざめてんのは、鏑木の所為か。あっは。傑作!」
「傑作じゃないっつーの」
空回る。空回る。心が、空回る。
確かに、わたしの中身は空洞なのかもしれなかった。
「下宿に、帰らなくちゃ、なぁ」
なんだか、上手く歯車が回ってない。
こんな時は、下宿の部屋で眠るに限る。
かぷりこに空っぽと言われたわたしは、その言葉を受け止め、二杯ほどグラス麦酒を飲んでから下宿に帰ることにした。
「角瓶、ありがとね!」
上機嫌にわたしを送り出す苺屋かぷりこなのだった。