分業を伴う職人集落
というスタイル、弥生期の定型的な
勾玉製品(弥生勾玉)を考え合わせると、
糸魚川の
硬玉ヒスイの
玉作集団は、紀元前5世紀ごろの弥生中期以降(BC400年代)に、新潟県妙高・上越市(
斐太遺跡群。第38章)、石川県小松市(
八日市地方遺跡)、島根県松江市(
花仙山、
玉造)、そして福岡県糸島市(
潤地頭給遺跡)の日本海沿岸に分散して行ったものと考えられます。
いずれも弥生のモノづくりの最先端地域で、例えば、八日市地方遺跡では
柄付き鉄製ヤリガンナ、潤地頭給遺跡では井戸と
準構造船・
硯なども出土しています。
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八日市地方の鉄製ヤリガンナは今のところ大陸由来との解釈が定説のようですが、
そうでなければ
、
弥生時代製鉄の証拠となり、日本列島における鉄生産の開始時期が定説よりも700年以上早まる可能性が出てきます。
(写真:
柄付き鉄製ヤリガンナ、BC300~BC150)
潤地頭給の
硯製品は、最近行われた過去遺物の再評価の中で見い出されたものですが、こちらは日本での文字の使用が定説よりも300年以上早まることになりそうです。
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潤地頭給遺跡では、
碧玉・メノウ・水晶・
鉄石英・
蛇紋岩の5種の原石の玉が確認されていますが、このうち碧玉・メノウは出雲の花仙山から運ばれ、加工されていた可能性が高いとされています。またあわせて北陸系や山陰系の土器が多く出土することからも、
出雲・北陸の玉作で繋がる弥生モノづくりの日本海交易ネットワーク
の姿が浮かび上がってきます。
潤地頭給遺跡は三世紀(弥生から古墳時代への移行期)の
魏志倭人伝に『
世々王有るも
皆女王国
に
統属す』と記された
伊都国の
要衝にあり、遅くとも弥生中期(BC150)ごろには、海路で日本海交易ネットワークと繋がっていたと考えられます。
※国土地理院の色別標高地図に4遺跡をプロット。弥生期には青色は海。海側がシマ地域、陸側がイト地域。イト・シマ(現在の糸島市)は東西の入り江に挟まれた自然の細い陸橋で繋がっていました。
弥生後期(紀元後)の
三雲南小路・
井原鑓溝・
平原の遺跡からは王墓クラスと考えられる副葬品類が出土しており、うち弥生勾玉は最も古い三雲南小路から(糸魚川の)
硬玉ヒスイ製、平原からガラス製が見つかっています(井原鑓溝は盗掘がひどく元々あったと考えられるが発見されていない)
なかでも平原は、ガラス勾玉を含む多数のアクセサリーの他、
八咫鏡と同サイズと考えられる
大鏡5枚(青胴)、
素環頭太刀(鉄)の、いわゆる
三種の神器がセットで出土した日本最古の土盛り型の墳墓(
方形周溝墓)で、その状況から魏志倭人伝に伝えられる女王墓であったと考えられています。糸島出身で発掘責任者の
原田大六は、弥生時代と古墳時代を画期する重要な遺構と位置づけ
平原弥生古墳
と命名しました。
(写真:平原弥生古墳、伊都国歴史博物館の大鏡レプリカ)
平原遺跡のさらに興味深い点は、鳥居状の二本の
柱穴と
太柱の中心のラインが墓域中心を通り、東の
日向峠に向かっている点で、大鏡と合わせて、
弥生の稲作文化の発展と関連した姫巫女の太陽祭祀
のこん跡が見られることです。
これをひとつのモデルと考えると、伊都国・平原遺跡で確立された様式は、ほぼ時をおかず、次に大和平野(古代大和湖畔)の
唐古・鍵(弥生後期、BC200~AD200)の後半の紀元後によく似たスタイルがあらわれることになります。(第37章。ただし唐古・鍵は墳墓ではない祭祀場)
*****(参考)
弥生勾玉(硬玉ヒスイ)の出土数・例の分析【京都府埋蔵文化財情報、第46号、近畿地方の弥生勾玉、小山雅人より】から吉備(岡山県沿岸部)、河内も大きな消費地で、紀元後の瀬戸内海には、日本海(伊都-出雲-北陸)並みの交易ルートが確立されていたと考えることができます。
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そして唐古・鍵の文化は、
纏向(弥生晩期~古墳中期、AD200~400)に継承され、纏向はヤマト王権のシンボル・
神奈備の
三輪山(
三諸山)の麓に位置し、姫巫女・太陽祭祀と関連付けて考えることができます。
(写真:三輪山と纏向・箸墓古墳の日の出。2021年2月下旬。弥生時代と古墳時代のワンショット)
この流れを整理すると、いわゆる
姫巫女・太陽祭祀の
東遷という史実を想定することができます。(なお東遷イコール東征ではないと考えています)