第39話
文字数 4,959文字
四つの足音が近づき、奏楽は何を考えているのだろう。英は奏楽が監禁されている部屋の前に来ると、軽くノックをしてからドア越しにこう尋ねた。
「佐伯さん、お腹は空いていませんか」
殴ってしまった実績のある真は、下手に刺激しないようにと奏楽には何も話さない。彼を嫌っているとも言えるだろう。
「平気です。それより、下の様子はどうですか」
奏楽の生存が確認され、英は安堵した様子で問いに返した。
「安定してますよ。なぜ下の様子が気になるんです」
「紗良さんがかなり不安定でしたから。それに若杉さんも、僕を犯人にするだけじゃ飽き足らず、まだ何か喋っているんじゃないかと思って」
「そこら辺はうまく僕と浅葱さんでやりますよ。若杉さんが調子に乗ってでたらめな話でもし出したら、虚言壁でも疑ってみてあなたを解放でもしましょう」
解放という言葉は、犯人にとってはこの上ない誘惑だった。仮に奏楽が犯人の一人だとするならば、何らかの通信手段を亜里沙と取れれば、亜里沙の
見えない罠を設置するのは、刑事としての経験が活かされている。真は少しだけ、英に対する敬いの気持ちを強めた。
「じゃあ何かあればまた。一時間後に来ますからね」
奏楽と話している間、彼が細工をしている音は聞こえなかった。声の距離感も一時間前と大して変わらない。
真と英は部屋の前から遠ざかって、念のため全ての部屋を巡回する。鍵は紫苑から預かっているものを使って、不審な点がないかを探るのだ。まだ見ぬ第二の犯人が、
奥の見えない調査をしながら、英はこう言った。
「第一の事件。蒼佑が殺された事件です。今改めて思えば、あれほど不可解なものはありませんよねえ」
「俺の話を信じてくれるなら、俺が銃を撃つまでは生きていた。部屋に入った途端に死んだんだ」
「まさか、僕は浅葱さんを最初から全面的に信じてますとも。でもちょっと都合が良すぎるんですよねえ。実行犯が二人いたとして、中にいたのは僕らも見知らぬもう一人の人間、その人間と蒼佑が争っていて、入ってくるタイミングで煙のように消えてしまうなんて。人間業じゃありません」
英の言う話は最もだ。蒼佑は確かに何者かと争っていた。真はいくら記憶をほじくり返しても、その事実は変わらなかった。
「もしかしたらウィンチェスターが実在して……なんて考えもしました」
「とんだ推理だな」
「まだ若手刑事の僕ですけど、たまーにあるんですよ。幽霊か妖怪かが犯人じゃないかって思える現象が。浅葱さんはトリアノンの幽霊を知っていますか」
考える素振りを見せ、記憶の引き出しにある全てをひっくり返しても見当たらないと分かれば、真は素直に首を横に振った。
「これは殺人事件とかじゃないんですがね。今から百年近く前の話。イングランドの教師二名が、小トリアノン宮殿を訪れた時にタイムスリップを体験したという事件です。タイムトラベルのオカルトを聞きかじっていれば多少は耳にする事件なんですが、これがまた奇妙な事件でしてね」
二人の教師は宮殿の小道を入ったところで門番に出会い、差された方向に向かうと天然痘を患った男性や病気にかかったのではないかと思えるほどの樹木が見え、さっきまで見えていた観光客も見えなくなって世界が変わってしまうのを目にしたのだ。このスリリングな体験が本として出版され、当時のベストセラーとなる。
「もちろん、否定的な意見が多かったでしょうねぇ。僕の知ってる限りでは妄想の共有だとする説もあります。ですが、結局は分かっていない」
「映画みたいな話だな。にわかには信じがたいが」
「映画に似た話だとは僕も思いますよ。ですが、百パーセントまで否定はできない。本人達がそう主張したならば、どんな方法を使っても嘘だと断定はできない。嘘だと主張はできますがね。トリアノンの幽霊に関しては、今でこそ真偽を判別などできないでしょう。本人はもう亡くなっていますし、その状況を再現するのはほぼ不可能ですから」
再現という単語を使った時、英は調査をやめて部屋の中心に立っていた。真は心の中に発生したガスのような不吉感に、思わず身構えた。
「しかし、蒼佑の事件は再現ができる」
犯罪捜査で重要なのは、現場の再現だ。被害者がどういう行動を取るか、犯人がどういう行動を取るか。どういう感情になるか、その想像力は解決の糸口になる場合がある。初動捜査では優先的に誰もが考えるのだと、真は二十から聞いた記憶があった。
蒼佑はどのように死んだのか。その一つの手掛かりとして見つかったのは、幻覚剤。
「正気とは思えない。俺は反対だ」
「浅葱さん。少し残念ですがね、僕は本気です。蒼佑を殺されて僕が何とも思ってないとでも考えてましたか。犯人を殺してやりたい気持ちでいっぱいですよ。だけどその思いだけでは推理なんてできない。どんな事柄も冷静さを事欠いた者から脱落していく。感情を剥き出しにしていいのは、全てが終わった後です」
「奏楽はもう犯人だと決まったんだ。これ以上何を追い求めるってんだよ」
「実行犯が一人である可能性ですよ」
「第一の事件を解決したからって、実行犯が一人であるとは決められない。確かに第二の事件やそれ以外の些細なトリックは犯人が一人いれば可能。だが可能というだけで、断定的なものじゃない」
「それでも! 第一の事件の犯人が本当に見ず知らずの実行犯だったのかどうかという判断は可能です」
明らかに冷静さを失っていた。真は彼を宥める言葉を見つけられない。今から彼が行おうとしている捜査は蛮行だ。自らを死に追いやる未来さえある愚かなものだった。英は死んでも事件の真相に辿り着きたいのだろう。
このままでは、本当に彼が死んでしまうかもしれない。真は冷や汗を浮かべながらこう言った。
「奏楽が暫定犯人としている以上、これ以上の捜査は無駄でしかない。御手洗さんは言ってたはずだ、下手に動くよりも今は身を護るのが大事だってな」
「あんなの刑事として当然の話をしたまで。そして、下手に動くなというのはあなた方一般人に対してだ。僕はね、腐っても刑事なんですよ。このままじゃ全員殺される。分かりますか、僕の重責が。六人もの人間が殺されてしまった時の
最もな理論を並べられて、真は返す言葉もなかった。既に刑事は一人しかいない、全ての責任が英にのしかかっているのだ。一刻も早く終わりの見えないゲームから解放されたいと思うのは当然だろう。
ならば、いっそのこと。
「なら御手洗さん。俺に打ってくれ」
真実を追求したい気持ちは、真も同じだった。蒼佑の扉の前までいたのだ。その時、犯人に一番対抗できたのも真だ。銃を持っていたし、護身術の
第一の事件という生物に一番近い人間、それは英ではなく真だ。そう自分に言い聞かせ、真は英の前に腕を突き出した。
「刑事がいなくなったら、もう誰も守れなくなる。正直、俺なんて役に立たない素人探偵だ。真っ先にいなくなるんだったら俺の方がいい」
「論理的にいくと確かにそうなるかもしれない。ですがね、君には金井さんがいる。彼女を悲しませるのはやめなさい。何も良い事は起きませんよ」
「大丈夫だ。あいつなら一人でも上手くやれる。それに何かあったら御手洗さん、あんたが守ってくれ」
感情論を抜きにすれば、一番穏当な結論が真が差し出す腕だった。
真の表情に恐怖はない。それどころか、覚悟さえ決したように真っ直ぐな目をしている。幻覚剤を注射したところで死ぬとは限らないが、それでも同じ状況を再現しようとするならば死の可能性は十分にある。
何もしないという選択肢はまだ残されている。だが何もしないとは、壁際に追い込まれて戦意を失った野獣と同じ。無抵抗のまま血肉を食い破られていくのとまったく変わらない。
紗良の言ったように焼き討ちでもされれば、全滅もあり得るのだ。館から出ようとしてきたパニックになった人々を待ち構えた犯人が殺害すれば良い。更に言えば事件は全て館の中で行われているから、ほとんどの指紋や細工道具は失われる。現代の警察なら多少の持ち直しはきくだろう、そうして犯人の目星もつくのであろう。
だが、警察が来てからでは遅い。犯人はこの事件で自分さえ殺しかねないのだ。犯人は精神病患者。常人には到底考えられない不可解な行動を取る。それもあっさりと、簡単に。
「何が起こるか分かりませんよ。ここは僕が引き受けるべきです。浅葱さんが事件を解決する義理はない」
「義理はある。俺は馬宮さんを守れなかった。御手洗さん、あんたは俺の身体を気遣わなくていい。大事なのは一刻も早く事件を解決して、この惨劇に幕を下ろすことだ。仮に俺が死んだら、本気で解決しろ。俺の死を無駄にしないためにもな」
真の白みがかった腕には太い血管が通っている。今でも絶えず血が流れている血脈を見た英は、躊躇いの表情を隠せなかった。
人間は自分が犠牲になるなら大した精神的負担はかからない。だが、他人を犠牲にするならどんな悪党でも多少の精神的な揺らぎはあるものだ。善人ならなおさら、自分の選択が正しいか誤りか思考するだろう。それが分かっていたから真は英を急かさず、ただ待っていた。
何も聞こえない静かな部屋で。
布と布が擦れる音が聞こえた。英がポケットから注射器を取り出した音だ。その針の先端を腕に押し当てた時、英はこう尋ねた。
「後悔はしませんね。僕を必要以上にイジメないでくださいよ」
「俺が選択した。大丈夫だ、俺は死なない。直感がそう言ってる」
怜美を守ると決意した真にとって、これ以上ない間違いを犯そうとしている。それを知っていながら、真はこうも思った。自分が犠牲になって事件が解決するならば、怜美は死なずに済む。それは間接的に自分が守ったのと同じ話ではないか、と。
英は深呼吸をした。手が震えていたからだ。
鋭い痛み。血管を破り、針が体内に侵入した痛みが真の眉をゆがめた。真はポケットからハンカチを取り出し、針が抜けないように押さえるのだった。
ゆっくりと注入されていく幻覚剤。真は少しだけ、酒に酔った時のような幸福感が沸き上がってくるのを感じていた。その思いが、少しずつ大きくなっていく。楽譜の用語で、クレッシェンドという言葉がある。強弱標語で、どんどん音を強くしていけと命令する記号だ。その言葉のように、少しずつ浮遊感が増していく。全能感さえ湧き出てきた頃には、真は窓から見える空の色や照明の色が変化していくのを感じていた。
気持ちいい、だがそれと同時に訪れる体の拒絶反応。感覚が過敏になる。自分の心臓の音が聞こえる、心臓がはちきれそうなほどに脈を打っている。自分が何を考えているのかさえ忘れているが、それが心地よくも感じる。
気付けば針は抜かれていた。真は判目になって、その場でよろめいて机にもたれかかった。上半身だけをうつ伏せにして机の上に乗せ、涙を流しながら地面に転がり落ちた。
英が何か言っている。だが、言葉の一つ一つは音符のよう。何を言っているのか分からない。だがウルサイくらいに聞こえる。頭の中でガンガン、彼の声が響く。
死の恐怖心が突然にして沸き起こった。目の前にいる男は、自分を殺すのではないか? 真がそう考え始めた時、遠くの方から悲鳴が聞こえた。女性の悲鳴だ。それは英にも聞こえたようで、英は真をベッドの上に寝かせる。手錠の代わりに毛布で真を巻いて自分から抜け出せないようにすると、部屋を飛び出していった。
飛び出していくとき、扉は大きな音を立てた。その音があまりにも大きかった。真は頭を鈍器で殴られたような衝撃が走り、気を失った。