第30話
文字数 5,789文字
身元が分からなかった五人目の遺体は、亜里沙の証言で婚約者の新城文世だと判別した。彼の表情を見た時の亜里沙の反応は、敏腕刑事の英さえギョッとするものだった。遺体となった彼の頬を撫で、クスクス笑ったからだった。
談話室の空気は重く淀んでいた。英は談話室で自由に過ごすべきだと全員に告げ、誰も反抗する者がいないのだから、彼の意向のままに時は流れていた。
純也の弟、恒は真っ暗闇の窓から外を見ていた。月明りに照らされる木々が見える。恒は兄の遺体を見てからずっと、この調子だった。泣きも怒りもせず。何かに夢中になっているようにも見えず、表情からはなんの感情も窺えない。
「恒君、大丈夫?」
眠り方を忘れた怜美が、ソファから立ち上がって恒の側に寄った。恒は怜美を一瞥し、口を動かさずにただ頷いた。
一日で六人もの人間が失われた。心臓の鼓動が止まったのだ。一人で来たリミーや茉莉の家族は悲しむだろうし、相棒だった蒼佑を失った英は仕事を優先しているが、時折見せる感情を殺す笑みは痛ましいものだった。亜里沙はソファに横になり、小声で何かを呟いては寝返りを打つのを繰り返している。目は動いていなかった。
「大会に参加したのは、兄さんのためだったんだ」
誰が訊いたわけでもなく、恒はそう言った。唯一彼に答えたのは怜美だった。恒はこう続けた。
「兄さんにはお金が必要だった。医者になるのが夢だった兄さんにとって、僕の家は酷い有様だったんだ。父親は借金まみれで、母親は薬物乱用で治療施設にいる。施設の費用もバカにならない。そんな中、兄さんは自分の夢を捨ててバイト生活を始めたんだ。週六、十時間以上も働くチェーン店のファミレスでね」
「試験に落ちたっていうの、嘘だったの?」
「そうだ。兄さんは隠し通していたつもりらしいが、僕は知ってるよ。医師国家試験に落ちたって言って、次の日から突然バイトを探し始めたんだ。同時に、就職活動もしてた」
純也は専門学校に払える費用に限界を感じ、自ら夢を潰した。その日暮らしの細々とした生活を続けながら恒にも小遣いを与え、平凡でもいいからと正社員を目指していたのだ。
「だけど、社会はそんな兄さんに冷たかった。兄さんは高卒だし、特別な資格を持っているわけでもない。趣味で作曲をしていたけど、兄さんの実力を買う企業はどこにもなかった。最初は音楽、バラエティ業界に応募していたらしいんだ。だけどどこにも受からなくて、焦った兄さんは募集を出している会社なら手当たり次第に応募していった」
「そんなに切羽詰まってたんだね、純也さん――」
「数撃てば当たる……兄さんの志望じゃないけど、契約社員の薬剤師として雇われることになった。だけど、適材適所とは呼べない劣悪な会社だったんだ。でも兄さんは就職活動をしたくないと散々言って会社の歯車として精神をすり減らしていった」
まともに手入れもせず、毎日アスファルトに傷つけられたタイヤはどうなるだろうか。
「僕は思うよ。兄さんのように、多くの抗うつ薬を飲みながら働いている人は少なくないんだろうって」
「そんなことって……純也さんはやりたいことを我慢して必死に働いてるんでしょ。それなのに、なんでそんなに苦労しなくちゃならないの?」
「それが今の日本だからだよ。国のために歯車の一部として使われることが美化されて、変化を恐れ、恒常的であり続けようとしてるのが今の日本なんだ」
第二次世界大戦の時から何も変わっていない、真はそうとしか思えなかった。
戦争中は国のために大儀を成すことが美徳とされ、正気を保っている人間が排他的に扱われた。今と昔で、何が変わっていようか。正しいことを言えば芽を摘まれる、狂った人間の声ばかり大きくなるのだ。昔と違うのは、海外に逃げられるようになっているということか。
「良いとは言えない家庭環境だったから、僕と兄さんは二人で協力して生きてきた。けど僕はまだ大学生だ。バイトと勉強を両立しなくちゃならない。兄さんのようにたくさん働けない。僕はいつも、足を引っ張ってばかりだったんだ」
「そんなことないよ。働いてるんだったら立派だと思うよ」
何とか恒の機嫌を取り繕おうと怜美は必死に見えた。そのせいか、彼女の喋る声に熱がこもり始める。すると連鎖的に恒の声にも熱がこみ上げてくるのだった。
「違う。僕は足を引っ張っていた。子供の頃から可愛がられてるのは僕だった、兄さんはそれに嫉妬してた。そのせいで兄さんは愛に飢えて、自分よりも年上の別の女性とチャットするようになったんだ、笑えるだろ」
「笑えないよ……そんなの」
「たまたま見ちゃったんだ。兄さんがまだ高校生だった頃かな。自分より六つ、いやもっとかな、それくらいの女性と肩を並べて撮っている写真を見つけちゃったんだよ。本当は言わないでおこうと思ったんだけどさ。もう無理だ、言わせてもらうよ」
目の端で、誰かが立ち上がった。真は誰が立ち上がったのか想像すらできなかったが、その人物は意外だった。彼女は焦った表情でこう言った。
「恒君、その話はもうおしまいにしたほうがいいんじゃない?」
紗良は弱気な声で言った。
「なあ金井さん、これは偶然かな? 兄さんと一緒に写ってた年上の女性がさ、大会に参加してるんだよ。写真を見たのは五、六年前くらいかなあ。だから結構やり取りしてるんだよね。きっと兄さんのこと、結構知ってると思うんだよ」
冷たい幽霊の手が首筋を撫でるような悪寒が、真を襲った。誰も想像をしていなかった事実が明かされたのだ。拓真も、杏でさえも口を開けて紗良に目を向けている。紗良は口を動かしているが、そこから出てくる言葉は無かった。だから恒の独擅場が続くのだ。
「大会に一緒に行こうって言ってくれたのは兄さんだ。ねえ黒須さん。黒須さんが兄さんを誘ったの?」
「違うわ。それに、その写真ってどこにあるのかしら。恒君、記憶違いでしょ。私に似てるだけでしょう」
「見間違えるわけないよ。その時僕は兄さんに嫉妬したからね。こんなに優しそうな、楽しそうな人と一緒にいるなんて羨ましいって。僕は親が嫌いだったから」
拓真が立ち上がった時、彼は一瞬だけ横に揺れた。そうして目元を押さえながら紗良にこう尋ねた。
「純也君と会っていたのは本当なのか、紗良」
「ううん、会ったことないわよ。なんで私が年下の子と会わなくちゃならないわけ? あなたは黙ってて」
「紗良、よく聞いてくれ。恒君がここで嘘をつく必要はない」
「だから見間違えたんでしょう!? 黙ってて!」
不思議な共通点だった。拓真の言う通り、恒が嘘をつく理由が無かった。恒はおそらく、紗良が犯人に加担していると思っているのだろう。動機は分からないが、最初から兄を利用するつもりで接近して。玩具が無限に出てくる箱のように、推理はいくらでもしようがある。
その推理に
明らかに疑いを持たれている現状で嘘をつくのは、むしろ紗良にとって不利にしかならない。旦那がいながら隠れて年下の学生と会っていたのは省みるべきだが、それ以上に殺人加担もしくは殺人の罪を着せられるほうが危険なのだ。
恥を捨ててでも認めたほうが恒の懐疑心は減る。しかし紗良は、断固として純也との関係を認めようとしなかった。
認めてはならない、別の事情がある――?
「もういい加減にして!」
真が推理の駒を一歩進めた時、何かが弾け飛ぶ音が聞こえた。見れば、紗良がガラス製のコップを地面に叩きつけていたのだ。
「人間の記憶なんて一番頼りないのよ、一度くらいはあるでしょ? 一度だけしか会ったことのない人ともう一度会ったら、思っていたのと違った顔だったとか! 恒君、あなたもそれとまったく同じなの。それに化粧をすればね、女って大体似たような顔つきになんのよ!」
「おかしいですよねえ黒須さん。ここで認めればそれで良かったんですよなんでか分かりますか? 今回の事件で、一番得をしてるのは黒須一家なんですよ。誰も死んでないし、ライバルが一人減れば大金は自分達のもの! もしかして兄さんは答えに辿り着いて、用済みだから殺されたんじゃないですか?」
「それなら人を殺してる間に謎を解いてればいいじゃない! それに知らなかったかしら、今回のゲームの賞金は山分けじゃないの!」
「じゃあ兄さんが解いて、その兄さんの分を貰えれば二倍だ!」
「何を言っているのか! あなた、兄が殺されたから頭でもおかしくなったんじゃないの? そうよ。そうに決まってる!」
「刑事さんに起こされてからね、部屋の中を見たらあったんですよ。こんなものがね!」
恒は周りに見せるように、懐から紙を取り出した。ウィンチェスターからの宣告に使われていたのとまったく同じ紙だった。そこには大きな文字でこう書かれていた。
――根本純也、おめでとうございます。賞金は明後日の船の中に入っております。
「細かい文字を読むと、どうやらクレジットカードの暗証番号が記載されている。つまり今回のゲームマスターは現金じゃなく、銀行口座に金を預けていることになる。つまりどういうことか。カードを二つこっそり奪えば簡単に賞金が二倍になるんだよ!」
「私はそんな卑怯なことをする人間じゃない!」
宥めようとした拓真の手が跳ねのけられた。真は英と目を合わしたが、英は黙って首を横に振った。
「言葉ではなんとでもいえるんだよ。僕がどうしてずっと黙ってたと思う。紗良さんを試していたんだよ。兄さんが死んでどう反応するのか。でもさ、なんの言葉もないんだよね。何もないんだよ! 自分達の家族は生きているからそれでいいのかよ。兄さんと、少なくとも友達だったんだろ」
「だから何も関係なかったって言ってるでしょ、何度言えば気が済むのよ! それ以上私を怒らせてみろ、お前の喉を噛み千切って二度と喋れないようにしてやるよ!」
今にも飛び掛かろうとする紗良を止めに入ったのは英だった。和気のこもった声で止めに入ったが、紗良の標的は次に英に移ったようだ。紗良はもうしばらく止まらないだろう。真は落ち着かない夜になりそうだと、憂いの目で砕けたガラスに視線を落とした。
その真の肩を、奏楽が叩いた。
「浅葱さん、例のアルカナカードの意味が分かりました。少し表へ失礼してもよろしいですか」
「ああ、分かった。ここじゃ冷静に話もできないしな」
恒と紗良の対処を英に任せ、真は奏楽と二人でホールに出た。ホールに出ても喧騒は聞こえてくるが、中にいるよりかは幾分かマシだ。
五人が殺害され、英が簡単な現場検証を行っていると遺体のポケットにアルカナカードが入っているのが確認できた。意味が分かる者は誰もいなかったから、奏楽に任せていたのだ。奏楽はスマートフォンで調べればいい物を、部屋にあった図鑑でじっくりと吟味し、調査に徹していた。
ポケットに入っていたのは左の茉莉から順番にカップの九の正位置。純也にはワンドの十の正位置。御子にはワンドのナイト逆位置。リミーにはソードのクイーン逆位置。文世にはワンドのキング逆位置。
「まずは茉莉さんから。カップ九の正位置は願望が成就し、満たされた状態を意味しています。次に純也さんのワンドの十の正位置。これは過度な責任、重圧に耐えていることを意味します」
過度な重圧と耳にすれば、誰であっても恒が話していた中身がそのままカードに入り込んでいるように思える。偶然か、あるいは犯人が意図的に仕込んだのか。もし意図したものだとすれば、犯人はそれぞれの苦悩を知っているという話になる。
「次に御子さんです。ワンドのナイト、逆位置は無謀な挑戦をして失敗し、挫折をする意味合いがあります」
御子は怜美にこう相談していなかっただろうか。何らかの小説の賞に落ちた、それだけでなく小説の出版費用を稼ぐ手立てがないと。真の中で、嫌な想像が次々と掻き立てられる。
犯人は、参加者のことを知っている。カードの意味が、それを指し示している。
「リミーさんのソードのクイーン、逆位置は周囲を傷つけ独善的になるというのを意味しています」
「なんだって」
事務的に説明していた奏楽は口を止め、きょとんとした表情で真を見た。
「どうかなさいましたか」
「リミーが独善的? そうは見えなかったが」
真の言葉にしばらく悩んでいた奏楽は、合点がいったように表情を丸くしてこう言った。
「カードの意味なんて気にする必要もないと思いますよ。犯人が演出したいだけでわざとらしく置いたとも考えられますから」
「俺たちを混乱させるため、か。話を割って悪い。最後の、新城さんのを教えてくれ」
「はい。文世さんのワンドのキング、逆位置は、これも独善的であるとか威圧的であるとか……とにかく周囲に悪い影響を及ぼしている意味になりますね」
リミーと違って、文世と話したことのない真にとってこのカードの意味は真実を示しているのか否かは判断できなかった。しかし亜里沙の悲しみに暮れる痛々しい姿を見るに、悪い婚約者ではなかったように感じる。
犯人はどういう意味をこめてカードを置いているのか。意味等ないのか。数字が九から十三まで繋がっているのに、理由はあるのか、ないのか。犯人の
かつて真は事件を動機の推理から入って解決いた過去がある。今度の事件も動機を推理すれば、正解までたどり着けるのか。だが、難しい。犯行の手段も分からなければ、誰が犯人なのか目星をつけられもしない。
英は既に救援要請を警察本部に出している。明日になれば帰られるのだろうが、それでも気味の悪い後味だけは屋敷に置き去りになる。
そして、そもそも犯人はそう簡単に生存者を帰すだろうか。ここまで計画的な大仕掛けを用意しておいて、たった一つの連絡で帰すとは思えなかった。真の嫌な予感は綿あめのように巻かれていき、その綿あめは真っ黒に染まっていくのだった。
あまり外に長居しすぎると犯人の的になりかねない。真は奏楽に調べてくれた礼を告げ、談話室のドアノブに手をかけた。
その途端、屋敷から光という光が消えた。