第13話
文字数 4,106文字
「あ、よかった。こちらにいらしたんですね」
聞き覚えのある声だった。扉の向こう側にいる男は、杏の父親だ。背中から、怜美の安堵する息の音が聞こえた。
「何か?」
「先ほどは杏がお邪魔してしまいまして、手前みそで申し訳ないのですが簡単に謝礼をと思いまして」
「礼を受けるような程のことはしていないんだが」
それでは気持ちが収まらないと彼が言うと、真は静かに扉を開いた。
杏の父親は、まったく威圧を感じさせない和みのある男性だった。黒い髪は短髪で、身長は高いが痩せ型だ。フードのついた灰色の上着は、彼の生活感が全面に押し出されていた。
片手には未開封のティーバッグセットがぶら下がっていた。
「これ、僕が美味しそうだと思って買ったものなんです。きっと気に入ってもらえるかと思いまして。マジョラムのハーブティーです。集中力の向上に良いみたいなんですよ」
丁寧にラッピングされた真四角のセットを差し出された真は、こういう時に浮かべる表情に悩みながらも、軽く礼をして受け取った。
「杏は、ちょっと変わった子です。でも根はすごく良い子なんですよ」
「そうだろうな。俺なんかよりも、きっと人間ができてる。親の教育がいいんだろうよ」
「いえ、それはあり得ません」
彼は言い切った。自分達が模範的な親でないことを、
「僕は仕事でもいつも遅くなって、家族のことをまともに面倒を見られない。
ついでに真も自分の名前を名乗った。
かたや仕事で構ってもらえず、かたやギャンブルで遊び惚けて愛情がない。
「このゲームに参加できただけでも幸いでした。――なんて、すみません。長話をするつもりはなかったのですが」
「謝ることでもないだろ。しかしその様子だと、誰かの付き添いできたって感じだな」
「はい。この大会に行こうと言いだしたのは紗良です。といっても、杏が来ることは予想外だったみたいですが」
ギャンブルに使う金欲しさだろうことは、
「紗良は、どうやってこの大会のことを知ったんだ」
思ってもない問いかけだったのか、拓真は困惑気味にこう答えた。
「それは分かりませんが、きっとギャンブル仲間から聞いたんじゃないでしょうか。金がかかった催しの匂いを嗅ぎつけるのは、連中は得意ですから」
「――だろうな。じゃあなんて教えてくれたやつは来なかったんだろうな」
真面目な顔付きの真とは対照的に、拓真は苦笑していた。
「私も想像でしか物を言ってませんから、さすがにそこまでは。ではすみません、そろそろ部屋に戻ります。こういう時くらいしか家族孝行っていうのができませんから」
分かった、と真が返事をすると拓真はもう一度だけ「ありがとう」と言って、自分の部屋へ戻っていった。真は廊下に身を乗り出して彼が死角に入りこむのを見届けると、周囲に目をこらして扉を閉めた。
今回は脱走した患者ではなかったからいいものの、刑事との話が外部に漏れるのはよくない。彼らは盗聴器は部屋にないと言っていたから、おそらく安全なのだろうが、だからといって話し込むのは不用心だ。唯一誰にも聞かれない頭の中での会話なら許されるのだろうが。
「良かったな、浅葱くん」
この旅で初めて、怜美に同意した。患者本人でなくて良かった。
「さて、使用人にはまだ会っていなかったような気がするぞ。浅葱くん、挨拶だ」
「別に使用人に挨拶する必要はないんじゃないか。業務をこなしているだけに過ぎないだろ」
「忘れてはいないか探偵よ。このゲームは、犯人によって仕組まれたものなのだ。ミステリーでは使用人が犯人と通じているのがお約束、調べぬわけにはいかぬのだ」
あくまでもここは現実の世界なのであるが、真は彼女の生む理論が間違いではないとも思った。使用人はゲームの参加資格を持たないであろう。ならば雇われている、ということになる。その雇われ元を探せば患者の正体に行き着くかもしれない。刑事達も同じ道を辿っているだろうが、目線が違えば返ってくる答えも違うはずだ。
危うく、再び
「よし、そうと決まれば早速いってしまう! ついてきたまえ、浅葱くん。私は使用人室の場所は把握済みだ」
怜美がやる気を出せば、現場は最早彼女の
さらに水を差された怜美は態度に出やすく、その時のフォローは真の仕事だった。
「何をしているのだ、いくぞ!」
扉の出入り口で突っ立っている怜美に急かされて、真は彼女の後に続くことにした。
今の時刻は十四時半、誰かが遺言の謎を解いたのでなければ誰もが暇を持て余している時間だろう。廊下からメインホールへと降りたが誰とも出くわさなかった。
使用人室は、階段の左側真横に
「はい、どうかなさいましたか」
彼女が使用人だ。名前は名簿に載っていたから真は覚えていた。
黒ぶちの眼鏡を掛けていて、モデルのような体型と身長だった。黒いスーツを上手に着こなしており、仄かにライム系の香りもした。鼻が曲がるほどの匂いではなく、彼女の美しさを際立たせる丁度良い香りだった。
「挨拶をしにきました、金井怜美とこっちは浅葱真です。今日はよろしくお願いします!」
「挨拶ですか。それはご親切にどうも」
怜美が隣にいるから、紫苑の冷静さが際立っている。冷静だが氷のような冷たさはなく、不愛想にする真にでさえ思いやりの心と目を向けるほどの常識人だった。
「お二人は探偵でしたね。この大会は楽しまれておいでですか」
「それはもう、すっごくですよ。こんな体験人生で二度はないくらい楽しんじゃってます。そうだよな、浅葱くん!」
助け船を求められることを、真はいち早く察した。怜美は紫苑のようなタイプの女性に弱いのだ。
人間が出来過ぎていて、歳が離れている美人。人当たりのよい紫苑に対して、怜美は貴族社会のような世界を好んではいなかった。ジャンキーで、スチームパンクな世界に憧れるような怜美にとって、紫苑は輝きすぎて見えたのだろう、仏様のように。
とはいえ怜美の様子から見て、紫苑を嫌っているようには感じられなかった。滅多に怜美が表に出さない一面、人見知りの属性が出てきたのかもしれない。真は怜美の問いかけに「そうだな」とだけ船を出して、後は彼女に一任することにした。
かくいう真も、貴族社会は好きではなかったからだ。
「ところで一つ訊きたいことがあるのですが、いいですか神崎さん」
「はい、どんなことでも構いませんよ」
「この家の鍵の管理状況について聞きたいです。マスターキーとかはあるのですか?」
きっと事前に用意してきたのであろう怜美の質問に対し、紫苑は微笑みを浮かべてこう返した。
「マスターキーは私が一本だけ所持していて、開けられない部屋はございません。それと服のワイヤーと鍵が繋がっているので、無くす心配もありませんよ。それと鍵は使用人室で管理していて、使用人室に限りオートロックとなっているので中に誰もいない時は基本的に鍵がしまっています」
「こういう時はこう答えろ、とマニュアル本でもあるのか」
「そういった本はありませんが、私が事前に考えておきました。きっとお尋ねになる方も多いかと思いまして」
「できた使用人だな。経験者か?」
「はい。私は中学を卒業してすぐに使用人としての社会に入り、もうそれから十数年経ちます。ちょっと想像するくらいは、お手の物ですよ」
紫苑はおどけた調子で、さきほどの真面目さを崩してそう言った。緊張した怜美も、彼女の態度が
「神崎さんは、とても上品な使用人さんということですね。でもどうして、この謎解きゲームに?」
「私の所属している事務所の上長さんが持ってきた仕事です。島の中でのお仕事ということですから、面白そうだなと思い参加してみました」
紫苑から患者について聞けそうだと思っていた真は、その望みが消え失せたと悟った。直接的な雇われ使用人ではないのだ。
「このゲームの管理人って、どんな人でしたか? お会いしました?」
「いえ、上長さんはお会いしたのですが、私は一度も。今日にでもお会いできるのかと思いましたが、残念です」
怜美は写真も見たことがないのかと尋ね、紫苑はそうだと答える。患者の顔は分からないということだ。彼、もしくは彼女も念入りだった。
「分かりました、わざわざありがとうございます! では私は失礼します」
「ええ。ぜひ楽しんでいってくださいね、怜美さん」
「はい! よし、いくぞ浅葱くん。次のステップだ!」
怜美が次のステップを考えているはずなどない。行き当たりばったりなのが現状だ。そうだと知りながらも、真は彼女に引っ張られ無抵抗についていくのだった。
同時に、紫苑のプロ意識の高さに今頃になって気付いた。紫苑は、自分の固い雰囲気が怜美にとって苦痛を与えていると察して途中から態度を柔らかくしたのだ。紫苑にとって使用人とは、共に夜を過ごす客人達に楽しんでもらうものだという信条を持っているのだろう。