第3話
文字数 4,404文字
説明通り部屋には鍵がかかっておらず、金メッキのドアノブを捻ると抵抗もなく扉は奥に開いた。
部屋は二十畳ほどの大きさで、ビジネスホテルの一室よりも広いのは確かだった。これで参加費が無料だとは到底思えないほどの待遇で、真は部屋から香ってくる
入って靴を脱いだ先、すぐ左手側にはバスルームへ続く扉があり、試しに中を覗いてみると中流階級の家庭にありそうな構造の一室になっている。ユニットバスではなく完全に別れており、風呂場は真っ白だった。鏡や換気扇、排水溝等が無ければ何も描かれていない画用紙の中に閉じ込められてしまったかのような錯覚を覚えたであろう。
風呂の扉は引き戸になっていて、内側からしか鍵が掛けられないようになっている。それは化粧室も同じだった。
催しているわけではないが、一応化粧室も確認しておくことにする。
引き戸を開け、中は程よい広さが約束されていた。扉から便器までの距離はおよそ五メートルで、この空間の中に手洗い用のスペースまで設けてあった。男女共用の化粧室だと確認した真は律儀にも扉を閉め、次に部屋の中を見てみることにした。
一番最初に目に飛び込んできたのは天蓋のついたベッドだ。テラコッタタイルの床を踏みながら、優しい羽毛のベッドに横になる。驚いたことに、天蓋には絵が描かれていた。見たことのない絵だったが、丁寧にもちょうど目線の真上に絵画のタイトルが記されている。
タイトルは「魔術師ウィンチェスター」だ。絵はリアリズムを追求したような油彩画。レオナルドダヴィンチのモナリザに似て、そこには椅子に座った一人の若い男性が描かれている。その絵を見た時、真は不意に目を奪われた。
黒い腰掛椅子は男の肩幅よりも大きく、領主のような威厳を醸し出している。右手は前に突き出し、その手には地面まで届く長い杖が。左手は膝の上に置いて、その手には紫色の液体の入ったフラスコを持っている。目に覇気はなく、しかしはっきりと生きていることが示されているのは、少しだけ開いた口元と、生々しく血が通っている人間らしい顔つきの賜物だろう。
赤い薔薇のようなネクタイをして、古めかしい紳士服を着ている。靴は茶色の革靴で、白い靴下を履くその若い男性こそがウィンチェスターに違いない。それだけでも十分な迫力の絵画だが、真はそれ以上に絵画が秘めている神秘的な魔力に、瞬きさえ忘れた。
一見すれば若い男性が椅子に座った自画像だ。だが見物者は、絵画の中にある残虐性が込められた小道具を無視できない。
それは、ただの花瓶。
生首が生えた、花瓶。
女性の首だった。髪は長く、目は虚ろに開いている。彼女の口からは細い血が垂れ、緑と青の混ざった薄い花瓶を伝ってテーブルに垂れている。真は彼女の死という芸術、その美しさに見惚れていた。
美しい。死が、美しい。
しばらく絵画に引き込まれていると、扉のノックと同時に怜美の声が聞こえてきた。意識を取り戻した真はベッドから離れて、扉を開けに近付いた。
だが鍵を掛けていなかったから、耐え性のない怜美が扉を開けた。
「さあ浅葱君! 挨拶回りだ」
彼女は既にメモ帳とペンを手にしていた。ワトソン役としての役者になりきっているようだった。
絵が頭から離れない真は、息巻いている怜美に絵のことを聞いてみることにした。
「ああ、あの絵なら私も見たぞ。いやに怖いよね。夜にしっかり眠れるか今から心配だぞ」
「魔術師ウィンチェスターなんて絵画、見たことあるか? 見たところ古そうな絵だったが」
「私も見たことがない。もしかしたら参加者の中に知っている人物がいるかもしれないな! それより、絵よりもっと大事なものがあっただろう。役職と、魔術師の遺言だよ」
「役職は市民だった。だがその遺言ってのはなんだ?」
役職を聞かれた時、真は咄嗟に出まかせを吐いた。まだ確認していなかったが、確認するまでもなく市民であると察したからだ。十六人いるのだ、一人しかなれない探偵になる確率は、恐ろしく低い。
しかし魔術師の遺言は初耳だった。真がぱっとしない顔付きをしたものだから、怜美は大げさに呆れた風にしながら、まるで自室のように真の部屋の中に入り込んで一点を指した。
部屋はベッド以外に冷蔵庫やテーブル、ラジオやテレビモニターといったものがついている。本棚の中には聖書や図鑑等が入っており、場違いなポーカーのルールが書かれた本が中央に置かれている。怜美が指しているのは部屋の一番奥にある額縁だった。
長方形で、派手な洋風の装飾がなされている額縁に入っているのは文章が刻まれたプレートだった。
「なんだこりゃ。長々と書かれてやがる」
「きっとこれがゲームの謎に違いない」
文章の最後にはウィンチェスターとサインがあり、怜美がこれを遺言だと言ったのはそのサインの横に十字架の墓のマークが描かれているからだ。
遺言は日本語で書かれているが、何かの儀式が記されたような文面で、その説明書のようにも思える。死んだ後のことだとか、後悔だとか懺悔だとかが記されているようには見えなかった。
「これ、不思議な文章ですよね」
怜美の声でもない、真の声でもない。二人は驚いて振り返ると、二人の若い男性が立っていた。二人は色違いのシャツを着ていて、背が僅かに高い男性が紅色の襟付きのシャツを。もう片方が黒の同じシャツを着ている。黒いジーパンは二人とも色合いが似ている。
「すみません、扉が開きっぱなしだったもので。声を掛けようとしたら、お二人がこの文章を読んでいるとお見受けしたので」
黒のシャツを着た男性がそう言った。彼は朗らかな日差しのような表情で、自分は
「挨拶回りなんて必要ないと思うんだがね、兄さん」
「必要だよ。これは皆で謎を解き合う協力ゲームのようなんだから」
「違うね。ルピナスはそんな生易しいゲームじゃない。兄さんは初参加だから知らないだろうけど、互いが互いを疑り合うスタンドプレーのゲームなのさ」
遺言よりも二人の様子に怜美は興味を持ったらしい、体を完全に兄弟に向けて彼らの会話に参加し始めた。
「お二人とも、今日明日はよろしくね。私は金井怜美で、こっちは浅葱真。私達は探偵なんだよ。役職じゃなくて、本物の探偵ね」
探偵、という言葉に恒が反応した。
「ほう。小説でしか見たことのない探偵を現実で
「その通りだよ。ああ。安心して、探偵といっても今回は私はワトソン役。探偵が二人以上いたらルール違反だからね」
「ははは! そうだな。探偵が二人以上いたらルール違反だ。だがノックスでさえ十戒のルールを破った作品を出してるんだ、今日に探偵が複数いるのは珍しくはないかもしれないな」
恒もミステリー好きであると分かれば、怜美と心が通じ合うのは早かった。二人はそれから自分の好きな作品や、新本格ミステリーの定義について弁論を交わすのであるが、数年前にミステリーとは距離を置いた真には関心のない話であり、彼はもう一度遺言に目を凝らした。
ミステリ―談義に関心がないのは純也も同じ様子で、二人が話しているのをよそに真と肩を並べて遺言に注視した。
「全部屋にこの額縁があるそうですよ。進行役がどうしても全員に見てもらいたいということでしょうね」
「だろうな。怜美はこの文章が今回のゲームの謎なんだって豪語してたが、あながち間違いじゃないかもしれない」
「僕は弟と同室なので、さっき一緒に謎に挑戦してたんですが、僕は全然。ただ恒が、フィボナッチ数列と関係があるかもとか、いやいやノアの方舟かもしれないって言いだして。もしかしたら解いちゃうかもしれないですね、恒が」
「よかったな。高くつく臨時収入が入ってくるぜ」
真はそう言って、部屋の隅に置いていたバッグの中から大学ノートとシャーペンを取り出した。真っ白なノートではなく、真がこれまで事件解決のために使ってきたために「使い古された」と装飾する言葉を使ってもいい見た目と中身になっている。
そうして額縁の文章とノートとを目を行ったり来たりしながら真は遺言の内容をメモにおこした。
集中している時に限って、外野がうるさく感じるものだ。
「――現代人は読解力が落ちている。どいつもこいつも、一から十まで説明しないと分からんやつばっかりだ」
ミステリーの話から飛躍したらしく、恒は苛立ちを声に乗せながらこう続けた。
「意味が分からない作品は無条件で駄作と決めつけ、考察の必要すらない凡作を持ち上げる現代のこの時流は、僕はどうかと思うね。はっきり言って日本の今後が心配になるレベルだ」
「その通りだよ。ミステリーは子供向けヒーロー小説じゃないんだ。探偵が推理するから必要ない? バカバカしい。読者は勘違いしている。探偵っていうのは主人公じゃないんだぞ。読者が探偵なんだ。最終的に答え合わせが間違うのはそりゃ悔しいけれど、犯人の突き出してきた謎に挑戦する姿勢こそもっとも
どちらかというと何も考えずに小説を読んできた真にとって、彼らが頷き合っているその理論はたった一言で掃除できるものだったが、あえて口にしないでおいた。「人の勝手だろ」という言葉は彼らの仲良し談義に水を差す。真はそこまで
「よかったら後で、一緒に考察してみませんか? 浅葱さんとは仲良くなれそうな気がして」
「どうせ暇だしな。二人でするか、それとも小説家でも連れてくるか」
「古谷さんでしたっけ。あはは、こういうのもなんですけど、僕はあの人ちょっと苦手なタイプで」
真はもう一度遺言を目に入れた。この謎の、本筋。おそらく、原点。主催者の挑戦状だ。
プレートには達筆な文字で、こう書かれていた。