第16話
文字数 3,560文字
まだ部屋の中では亜里沙が声を張り上げて、同室者と言い争っている。
しばらく様子を窺っていた英は、最初は静かに扉をノックして亜里沙を呼び掛けた。しかし真の時と同様、彼女は救いの手に気付いていない様子だった。中で何が起きているんだ。
「浅葱さん、すみませんが使用人の方からマスターキーを借りられませんかね。こりゃ婚約者さんの身が危ない」
頷いた真は、一段飛ばしで階段を駆け下りて使用人室へ向かう。使用人の紫苑に事情を説明すると、彼女はすぐに亜里沙の部屋の鍵を渡した。
真は彼女にここで待っているように告げると階段を駆け上がり、英に向けて鍵を投げた。英は即座に鍵を受け取ると、扉の施錠を解除した。
解除した後はすぐに入らず、二人は扉の左右へと別れる。英はドアノブを掴み、爆弾に触れるかのように慎ましく扉を開けた。
「来ないでください! 誰か助けて!」
扉が全て開かれると同時に、英が先頭に立って中へ入り込む。
「大人しくしろ! 警察だ!」
部屋の中には亜里沙がいた。亜里沙は包丁を持っていて、彼女を襲おうとしているのだろう誰かに切っ先を向けていた。
しかし、誰もいないのだ。切っ先の先にあるのは天蓋のついたベッドだけ。そこには誰もいない。
英が彼女に近付こうとすると、蒼佑がその肩を掴んで地面を指した。真も引き寄せられるようにそこを見ると、落ちていたのは注射器のようだった。遠目で見ても中は空で、ガスケットが押しきられているのが分かった。
何らかの液体が彼女、もしくは誰かに流し込まれたのだ。
英は亜里沙の背後から近づき、布団に彼女を押し込む。包丁を持っている腕を後ろに引いて、関節を極めて包丁を取り上げた。
「若杉さん落ち着いて! 私です、御手洗英です。あなたに危害を加えるつもりはありません、どうか落ち着いて!」
「いやだ、離して! 死にたくない!」
扉近くで傍観していた真は中に入り込み、注射器を拾った。針の先端に鼻を近付けて匂いを嗅いでみるが無臭。付着している液体も透明で、一見すると水と同じだった。
「馬宮さん、多分これはエルエスディーだ。幻覚剤に違いない」
「それが本当なら、大変なことですよ……! 浅葱さん、タオルか何か持ってきてもらえませんか。二つほど!」
幻覚剤の中でもエルエスディーは強力で、情動のゆれが激しく、パニック状態になっているから力も強くなる。このまま放っておけば亜里沙の命が危険にさらされる。真は急いで部屋の中を探して、引き出しの中に白い清潔なタオルが入っているのを見つけると蒼佑に手渡した。
蒼佑と英は手際よく亜里沙を制圧しながら、口と目にタオルを巻き付けた。視力を奪ってしまえば幻覚による症状を少なくできるし、口を不自由にすることで舌を噛まれる心配もない。警察なだけあって、対応がよくできていた。
「真さん、何度もつかいっぱしりにして悪いんですけどね、次は水を持ってきてもらえませんか!」
英の声にそのまま従い、真はコップの中に水道水を入れて英に渡す。英は亜里沙の額に手を当て、口伽となっているタオルに水を染み込ませていった。
亜里沙は暴れようとせず、ただ全身が痙攣していた。目からは涙を流し、激しく動揺しているようだった。声にならない声をあげ、口からこぼれた水が服を濡らす。
蒼佑は立ち上がると、机の上に置かれていた亜里沙のだろう鞄の中身を開ける。女性物の白い鞄だった。
「英さん、この注射器はきっと若杉亜里沙のものじゃありませんね。誰かが彼女に打ったんでしょう。こんな強い幻覚剤を入手できるやつといえば、患者くらいしかいません」
「だろうな。しかしなんだってこんな……人間の所業とは思えん。可哀想に」
恐怖で怯える亜里沙を介抱しながら、英は声に怒りを乗せてそう言った。
幻覚剤は摂取量を間違えると人間を死亡に追い込む。患者――いや、もう犯人と呼んだ方が正しい。犯人は亜里沙を死なせることは簡単だったはずなのに、生きて暴れさせた。一体なぜ彼女を生かしたのだろう。
あれ? と真は周囲を見渡した。数時間前と部屋の様子が一部だけ変わっていたのだ。
そう、新城文世がいない。ベッドに頭から毛布を被っていた彼がどこにもいないのだ。真はこれ以上ないほどの不自然な体験をしているように感じ、窓から外を見た。
「新城さんはどこだ」
真の言葉で刑事達も我に返り、亜里沙が落ち着きを取り戻しつつあると分かると二人はバスルームを探した。だがどこにも彼の姿は見られなかった。
「もしかしたら、この幻覚剤については患者とは別の線で考えないといけなくなりましたね。新城文世が亜里沙さんを殺害するために注射器を用いた可能性がある」
腑に落ちない様子で、真はこう言った。
「動機がない。相手は婚約者なんだぞ。どうしてこれから結婚しようとする相手を殺せるんだ」
「捕まえれば分かることですよ。亜里沙さんと一緒にいられたのは新城文世。被疑者としての線が濃厚だ。真さん、あなたなら被害者に幻覚剤を投与した後、どこに逃げます?」
「俺は以前、動機を軽視して事件を探った経緯がある。でもそれは間違ってた。一生答えに辿り着かない考えなのだと分かった。事件には人間が関わってるんだ、そこには何らかの心の動きがある。それを有耶無耶にするわけにはいかない」
英は腕を組み、口角を吊り上げながらこう言った。
「浅葱さん、どうやらあなたの思考回路はずいぶんと手入れがされているようですねぇ。出てくる言葉が綺麗だ。だけどね、人間の心って複雑なんですよ。人を殺す理由なんぞいくらでもある。あなたは数億の理由の中から一つを見つけ出そうとしている、それは間違いだ。コイントスをして、どうして表が出たのかを考えるのは統計学者。我々の分野じゃない」
「俺はあんたら敏腕刑事のやり方に口を出す気はない。だが、その考えのままいるといつか後悔するぞ。人の心を蔑ろにしたツケは必ず払わせられる」
「でしょうなぁ、いつ後ろから刺されるか分かったもんじゃない。ただ、これで私達は今までやってきたんですよねぇ。まあどうやら? 私とあなたでは性が合わないようだ。いいですよ、あなたはどうぞご自由に動機の線から探っていってください。私達は目の前にある事実を重視するので。終わらない旅っていうのも、きっと退屈はしないでしょうなぁ」
そう言うと、刑事達は部屋の中を捜索し始めた。蒼佑は真に詫びるような目をして、クローゼットの中や亜里沙の身体などを調べ始めたのである。真は捜査の邪魔にならないように部屋を出ることにした。
部屋の中は密室だった。窓も扉も鍵がかかっていて、部屋の中には亜里沙以外の誰もいない。三人もの人間が部屋の中に入ったのだから、部屋に隠れていた犯人が外に逃げ出す
亜里沙が自分で注射したとなれば話は簡単だが、理由が不明だ。
そもそも幻覚剤というのは麻薬の一種でもあり、幸福感を得るために摂取するのが普通なのだ。だが幻覚が副作用として現れる場合、特にエルエスディーの場合は環境によって感情が変わる。注射される寸前の感情に幻覚は左右されやすく、気持ちが安らいでいれば多幸感を、不安や恐れがある場合は恐怖心を煽る幻覚が現れる。亜里沙は今回の場合、後者だったというわけだ。
自分で打ったとは考えられない。なら、誰がどうやって幻覚剤を投与したのかが問題だ。
不吉。真は腕の鳥肌が立つのを感じた。誰かに見られているような、嫌な空気。
彼は足早に自室に戻ると、冷蔵庫で冷やされていた麦茶を手にして、ペットボトルに口をつけて飲んだ。ひとまず、椅子に腰を落ち着かせる。深く息を吸い込んで、吐き出す。
今まで正常に動いていた歯車が、どこかで狂った。平和だったはずの空気が一変した。新城はどこにいるんだ?
遺言の謎を解いているほどの余裕はなくなった。この館に留まっていれば命の危機にさらされる。直感が、第六感が、心がそう訴えかけている。真はふと、怜美のことが気になって彼女に電話をかけた。
出てくれることを祈りながら呼び出し音を聞く。二度目、三度目と無機質な音が鳴り響く。そして五度目になって、ようやく彼女の電話が繋がった。
「やあ浅葱君。一体どうしたんだ。私になんの用だ」
「なあ怜美、もしかしたら俺たちは……何者かに命を狙われているのかもしれない」