第40話
文字数 3,300文字
全身の毛が逆立ち、目を見開いて起き上がる。全身から汗が噴き出していて、呼吸も荒い。口元が濡れていたが、これは誰かが水を強引に飲ませた時に溢れたものなのだろうとすぐ察した。
「浅葱様、問題はございませんか」
胃の奥からこみ上げてくる液体を無理矢理押し込みながら、真は横を向いた。
中腰になって浅葱の手を握っていたのは、使用人の紫苑だった。彼女は今までと変わらない冷たい眼差しでありながら、温かみの含まれた声音でこう言った。
「良かった。お目覚めになりましたね」
「今まで生きてきた中で最悪の寝覚めだ」
幻覚剤の威力は強力で、五感の全てを敏感にさせて些細な音でさえ心臓を撃つような衝撃を味わう。すぐに気を失ったからまだいいにしろ、あのまま続けていれば。そう考えると、真でさえ悪寒が走るのだった。
まだ幻覚剤は抜けきっていない。
「俺が談話室から出てってから大体何分くらい経った」
「四十八分です。それと浅葱様、緊急事態が発生しております」
意識を失う前に聞いた悲鳴を思い出した。緊急事態と聞いて、良い予感を感じる人間はいない。真もまた頭をドリルで抉られるような痛みを感じながら、目線を彼女から外して報告を聞くのだった。
至って冷静な口調で話す紫苑は機械的だった。誰かがお皿を割ったとか、大嵐が吹き始めたと報告するような口ぶり。緊急事態と言っておきながらも大それた事態ではないと言わんばかりの紫苑の目。だからこそ、彼女からの短い報告を聞き終えた時に真は反射的に聞き返してしまうのだった。
心では理解した、だが頭が追い付かない。そんなのあり得ないと、頭が否定の壁を張って事実の侵入を拒む。しかし紫苑の言葉は変わらなかった。否定の壁は砕け散って、真は絶望という感情の波に呑まれた。
「佐伯様が首のない状態で発見され、若杉様が階段から落ちて重症。黒須紗良様はハサミを持ち、もはや手に負える状況ではありません」
「奏楽が、本気で言ってるのか。現場の状況はどうだったんだ」
「室内に鍵はかかっていませんでしたが、チェーンが仕掛けられていました。窓も全て施錠の状態です」
「チェーンの間を人が通れるわけがない。また密室かよ、くそったれ! 部屋には誰か隠れていなかったのか」
「拓真様と私とで探しましたが、どこにも」
真は半身をベッドの外に投げ出して、地面に足をつけた。
「チェーンが外側からかけられるか確認しにいくぞ」
「私が試しましたが、不可能でした。外側からチェーン施錠に関する工作は不可能です」
「悪いが、外注とはいえ使用人であるあんたの言葉だけじゃ信じられない。自分で確かめにいく」
渋々ながら紫苑は了承し、真は立ち上がって部屋を出た。
廊下に出ると、一時間前とはまったく違う空気が流れているのを感じ取った。まるで殺人鬼が徘徊しているかのような、混沌と恐怖が入り交じったかのような風が吹いているのだ。自分と紫苑以外は全員死んでしまったのではないか。そう錯覚させるほどだった。
「浅葱様、もう一つご報告しなければならない事があります」
「なんだ」
「金井様と黒須杏様の行方が分かっておりません」
歩みを進めていた真は、立ち止まって紫苑を振り返った。
「どういうことだ、行方が分かっていないって。俺がいない間に何が起きてるんだよ、一体!」
「チェーンの確認よりもまずは二人の安否確認を優先すべきだと考えます」
「それじゃあ犯人に工作する隙を与えちまう。もしかしたらチェーンが入れ替えられ、俺が二人を探してる間に外側からじゃ掛けられないチェーンにすり替えられてもおかしくない。今はまだ、外側から掛けられるチェーンかもしれない!」
「浅葱様、落ち着いてください。私がしっかりと確認しました」
「あんたが共犯者じゃないって断定できない限り信じられるわけないだろ。俺が自分の目で確認しにいく。二人の安否はその後だ」
再び歩いていこうとする真の手を、紫苑は強く掴んだ。思わず真は面喰い、苛立ちのこもった声で「離せ」と口にした。すると紫苑はきっぱりとこう言い放った。
「私は神崎紫苑ではありません」
真が疑問を並べ立てる前に、紫苑は続けた。
「八条二十様にかつてお世話になった、
最初は作り話かと疑った。だが考えが深まる内に、彼女の話の真実性が見えてくるのだ。彼女の前で八条の名前を口にしていないし、
「飯沼って名前は聞いた記憶がない……が、その話が本当なら、信じてみてる価値はあるな。怜美に聞けば分かるかもしれない。そのためには怜美を探さなくちゃならないって話か。よくできた辻褄だ」
「犯人は二人の居場所が書かれた紙と、この鍵を置いていました。紙と鍵が置かれていたのは佐伯様のいた部屋です」
「紙にはなんて書いてあったんだ」
「私共を挑発するような文言と、二人を儀式のために借りると。助けるには浅葱様でなければならない。さもなくば二人とも死ぬだろうとも書かれておりました」
今回の事件で怒りを覚えた場面は何度かある。だがテレビゲームをしているかのような犯人のやり方に、真は初めて強い
「鍵はどこだ」と真が問うと、実乃はポケットから鍵を取り出して真に託した。
「この鍵は三階にある部屋の鍵です」
今回の参加者では誰も立ち入っていない、隠された部屋。謎とは関係がないのだろう、本来の館主の部屋なのだろうと勝手に推測していた。その扉が開かれるというのだ。
真は鍵を預かると、実乃に背中を向けてこう言った。
「さっきは酷く言っちまった、それは謝る。だから俺がもし帰って来なくても気にすんな。あんたはこの島で何があったのか八条さんに伝えるために、絶対死ぬなよ」
「ご安心ください。私の目が光っている内は、浅葱様と金井様は何があっても守り抜きます」
彼女から漂う厚い信頼感。真は彼女を信頼するしかないのだと心に言い聞かせた。これでさっきの話が作り話であるならお手上げだ。犯人の勝利だと
人を信頼したいという気持ち、怜美を助けなければならない使命感。しかし心の奥底にある
真は走って三階の開かずの間へと向かった。何やら一階で紗良が騒ぎ立てているが、もはや聞く耳を持たない。今は怜美と杏が最優先だった。怜美には生きていてもらわなければ困る。守ると誓った相手だ。杏は、まだ死ぬには幼過ぎる。せっかく母親とも和解できそうだというのに、ここで死なせるわけにはいかない。
真は
罠かもしれない。だが、犯人は罠を仕掛けるような
心臓が音を立てるという表現を真は小説で目にしていた。読んだだけでは、それがどれほどの感情なのか想像もつかなかった。だが今は分かる。自分の心臓が血を循環させている音が、しっかりと聞こえてくる。
鍵穴に、鍵が差し込まれる。奥へ奥へと沈んでいく。
手を横に回すと、鍵細工が作用する軽快な振動が手に伝わり、音として耳にも響いた。