第9話
文字数 3,433文字
「本来ならば言うべきなのでしょうが、もし本人に感づかれたら厄介です。こっちは二人、向こうは一人。万が一のことがあれば取り押さえるのでご心配なく」
「じゃあ、どうしてこの話を俺にしたんだ」
「話している間に、探偵の浅葱さんなら何か閃いたこととかないかと思いましてね。事務所に訪ねてくるお客さんの中で、不審な人がいたとか。まあダメ元だったんで大丈夫ですよ。あんまり気にしないでいただいて」
重い腰を持ち上げるように英が立ち上がると、蒼佑もそれに続いた。二人は麦茶を飲み干すと「それじゃあ」と言って、部屋から出て行こうとした。
すると英が思いついたかのように立ち止まって振り返る。
「そうそう。どうして患者さんがこの島にいるのか分かったのかについてなんですがね。向こうからお誘いが来たんですよ。それに僕たちが乗り込んだ、ということです」
不穏な後味を残して、刑事達は去っていった。二人で話しながら、階段を下りる音が聞こえる。
怜美はコップをシンクに置き、水を流しっぱなしにしながら洗い物を始めた。コップ二つ分しかないのだから簡単に終わるだろうに、洗い終わるのには短くない時間をかけていた。重度の潔癖症でもない限り、異様な長さだ。
表情に帯びている
「大丈夫か、怜美」
真の言葉で我に返ったのだろう、怜美はスポンジを置いて泡だらけのコップを水で流しながらこう答えた。
「大丈夫」
「だといいんだがな。犯罪者と同じ屋根の下にいるんだ。誰でも怖がる。お前、ホラー映画苦手だったよな」
「よく私がホラー映画苦手だって覚えてたね。一度くらいしか言った覚えない気がするけど」
怜美が八条探偵事務所に入りたての頃、オーナーの八条がよく怜美をからかって遊んでいた。怜美はビビりだからと、オモチャの虫を買って机の上に置いておいたり、共用トイレの便器の赤く染めたりやりたい放題だ。怜美はその全ての仕掛けを前に毎度ひっくり返っていた。
「何となくわかる。探偵の性ってやつかもな」
洗い物を終えた怜美は、乾燥棚の中にコップを入れて濡れた手を拭くと、ベッドの上に腰を下ろしてそのまま仰向けになった。足は外に出ているから、体がローマ字のエルの形になっている。
「なんか成果発表っていう気分でもなくなっちゃったな。思えば、大した情報集まったわけじゃないし」
「気まぐれだな。ワトソンが気まぐれでどうする」
「いいじゃないか、そういうのがいても。律儀に探偵の犬になっているだけがワトソンじゃないのだよ。それにしても、昼に見ても不気味だ……この絵。今日はソファに座りながら寝ようかな」
「体が痛くなることに
怜美のメモ帳が机の上に乗っている。真はそれに手を伸ばし、中身を見ることにした。彼女が自称する通り、確かに大した収穫は得られていないようだった。
書かれていたのは参加者の名前と、大雑把な情報。談話室では話しに夢中になっていてメモを取る余裕が無かったのだろうとすぐに分かった。ただ真の目を引いた、一つの文字があった。そこにはこう書かれている。
――ウィンチェスターは私達の中にいるらしい。誰もがウィンチェスター? マリの言葉。
マリとは、行峯茉莉のことだろう。一人でゲームに参加した女の子だ。
「茉莉と仲良くなれたみたいだな」
睡魔に襲われていたのだろう、怜美は軸のない発音の言葉をいくつか発してからこう言った。
「茉莉ちゃんはなんだか神秘的だと思うね。まだ十歳なのに、ミステリーに豊富な知識とオカルト方面に強い興味を抱いてる。言動も洗練されていて、一体どんな教育を受ければあんな子に育つのかって感じだ」
口調が大人びていたことは確かに特徴的だった。表情も朗らかで、頭の上に黄金色の輪が浮いていても誰も違和感を持たないだろう。
「どんな話をしたんだ」
「最初は世間話。私が探偵って言ったらすごく驚いてね、質問責めだった。けど反対に私がウィンチェスターと口にすると、すごく
部屋の前を誰かが横切っていった。話し声から察するに根本兄弟だろう。自室の方へ戻っていったようだ。
「ウィンチェスターの奇跡の話か?」
「なんだ。浅葱君は盗み聞きをしていたのか。探偵らしいが、乙女の話を盗み聞きするとは無礼だぞ」
「杏からもウィンチェスターの話は聞いた。多分、あれくらいの女の子にとってウィンチェスターは
心理テストも占いも、男児は大して興味が湧かない。現に浅葱も占いの類はあまり信じるほうではなかった。
「杏ちゃんは奇跡と言っていたのか。なるほど、人によって解釈が異なるということだな。茉莉ちゃんはウィンチェスターが起こす出来事を、魔術だと口にしていた」
「奇跡と呼べば神様らしいが、魔術と呼べば人為的らしい。ウィンチェスターという人物像は決定的ではないのか」
「浅葱君の言う通りだ。杏ちゃんがどんな話をしていたのか分からないが、茉莉ちゃんはウィンチェスターは魔術によって生み出された存在だと認識している。中世ヨーロッパのどこかの国で錬金術師が生み出した存在。今は姿や形を失っているが、霊体となって生き続けてルピナスというゲームを操り続けているのだと」
「元々は文芸サークルが作った遊びなんだろ。それを操り続けているっていうのは、いくら子供でもおかしいと気付きそうだが」
「魔術師ウィンチェスターの都市伝説は、小さな火じゃないんだ。私も調べてみたんだが、どうやらゲームの制作者がウィンチェスターの存在を認めたらしい。ある日家に帰ったら、机の上にウィンチェスターからの手紙が置いてあって、ゲームのルールが詳しく書かれていてその通りに遊べと。するとゲームは世間に広がり、制作者の名前が世に出るほどの流行を作った」
怜美のメモ帳にそのことは書かれていない。彼女の中で、不必要な情報だと判断した証拠だ。
いわばウィンチェスターの存在は制作者の悪ノリによってつくられたものだと、真は解釈した。一部の参加者がウィンチェスターの都市伝説を作り、制作者がその神輿を担いで更に信憑性を倍加させた。大人はエンターテインメントとして楽しめるし、子供は神秘的な空想を楽しめる。都市伝説の存在によって更にゲームは広まり、ほとんどの人間にとって得なのだ。
「茉莉ちゃんはすごくウィンチェスターのことを信じてる。そこらへん、無邪気で可愛いなあと思ったよ」
「ウィンチェスターはどんな魔術師だとか、彼自身については何か語っていたのか」
「良い魔術師なんだって」
真はベッドの天蓋に描かれていた絵画を思い出し、薄い笑みを浮かべた。
「そうは思えないな」
「この絵を見たらね。でも慈悲深くて、人を楽しませるのが好きなんだって言ってたぞ」
茉莉は好意的な解釈をした。杏はどうだっただろうか。何か悪い予感がすると、語っていたはずだ。
「そういえば、まだ会ってない参加者がいたよな。使用人にも会っていない。怜美、俺の代わりに挨拶をしてきてくれ」
怜美の返事が無くなった。真は怜美に何度も声をかけたが反応はない。おそらく、睡魔に
真は胸ポケットからペンを取り出して、怜美のメモ帳に伝言を書いた。怜美には遺言の謎を解いておくように指示し、重い腰を持ち上げて真は残りの参加者への挨拶回りにいくことにした。
部屋を出る前に、一度振り返って怜美の寝顔を見る。彼女の寝顔を見るのは、これが初めてだった。
憂いの目で彼女の安眠を見届けた後、真は扉を開閉して鍵を閉め、談話室へと向かった。
真が部屋を出ていくと同時に、怜美は目を開けてむくりと起き上がった。三度ほど深呼吸をして心を落ち着かせると、口元に手を当てて、思い詰めたように背中を丸くした。
同じ屋根の下に、殺人者がいる。
窓の戸締りを確認した後、怜美は水道水を飲んで乾いていた喉を潤し、真の座っていたソファに腰を下ろした。まだ温もりが残っている。彼の
怜美は思いついたようにポケットからスマートフォンを取り出した。電波が圏外でないことに安堵の息を漏らし、両手でスマートフォンを操作し始める。怜美は何度か画面を動かした後、メッセージを書くように指を動かす。
担当者と連絡がつくように祈りながら、怜美はそっと送信ボタンを押した。