第27話
文字数 5,077文字
英の声は聞こえるが、それは音として認識しているだけに過ぎない。鳥が鳴いているのと変わらない。その音が言語として意味を為していくまで、真は幾度かの深呼吸を要した。
「浅葱さん、大丈夫ですか。この指は何本に見えますか」
真が二本だと答えると、英は安心したように笑みを浮かべてみせた。
「ここで何があったんですか。犯人に襲われたんですか?」
「俺も何がなんだかサッパリだ。強いていうなら、この部屋で殺人事件が起きたらしいことを伝えねばならんだろう」
「ということは……そこいらに飛び散っている血は、浅葱さんの血ではないのですね?」
真は腕につけてきた時計に目を向けた。時間は二十二時、二六分。倒れてから相当時間が立っている。
体がだるく、吐き気さえ催すほどの
「浅葱さん、ここは僕に任せてあなたは戻ったほうがいい。その調子じゃ何もできんでしょう」
「大丈夫だ。俺は犯人の顔は見ていないが、服は見た。もしまだこの辺りに残っているなら誰が犯人か言い当てられる」
「その犯人が服を脱いでいたら、その情報の意味もない」
英の制止を振り切って、真は落ちているはずの銃を探した。だが、銃はどこにもない。犯人が没収したか、あるいは宝探しのようにどこかに隠したか。
犯人と優位に立つ攻撃手段を失った。
「銃がない。どうやら犯人は銃を奪え返したかったらしいな」
「大丈夫です。拳銃なら僕が持っています。犯人の武装がどれほどのものかは分かりかねますが、少なくとも犯人の一撃で倒せるアイテムがここにあるわけです。僕のことは構わず、浅葱さんは部屋に戻って休んでいてください。金井さんも心配してますよ」
英が言い終わるか言い終わらないか、その瀬戸際の中で談話室の扉が開いた。怜美が駆け込んで入ってきたのだ。
「御手洗さんの言う通りだ! 浅葱君、今すぐ部屋に戻ってきて」
「怜美、悪いが議論をしている場合じゃない。今もどこかで人が死んでるかもしれない。探偵として、放っておくわけにはいかねえんだ」
「探偵は正義のヒーローじゃないでしょ。事件を解決すればいいだけ! 人を助けるのは刑事の役目だよ」
「まだ分からないのか、怜美」
真は汗をかきながら机に片手を置き、怜美の顔を見ながらこう言った。
「既にこの島は、無法地帯だ。何が起きてもおかしくないから、何も信じてはいけない。英の警察手帳が偽物で、偽装刑事だっていうことだってあり得るんだ。この島では全員が被疑者なんだ。仮に本物の刑事だとしても、それ以前に人間だ」
根拠と確信に欠けた推理を提唱したのには訳があった。怜美はミステリー小説に
でも、と言いかけた怜美は、即座に口を噤んだ。真には自身のリスクを背負ってまで敵地に潜り込む理由があるのだ。
八条二十から聞いたことがあった。真は幼い頃に両親を亡くした。他殺だ。その過去が切っ掛けとなり、今は探偵という職務についている。
既に当時の事件は監獄の中にいて、死を待つだけの日々を送っている。
当時、真は小学生。杏とそう変わらない年齢。怜美は理解した。真は、当時の犯人と今の犯人を重ねているのだ。種類や方法、舞台さえ異なるが、一つだけ確かなものがある。
その場にいて、人を救えないという無力感。蒼佑の時もそうだった。中から物音が聞こえて、犯人はすぐそこにいた――もしくは蒼佑は幻覚と戦っていて、その時点では生きていた。どちらにせよ蒼佑が生きていた事実に変わりはない。しかし、死んでしまった。
幼い頃と何も変わっていない自分に、真は憤りを感じているのだ。怒りを前にして、恐怖という感情は身を隠す。
「分かった。それなら、私も一緒に探す」
英は勘弁してくれと言わんばかりに首を振ったが、二人を止めはしなかった。代わりにこう言った。
「とりあえず、遺体を見つけても現場は必要以上に荒らさないように。事件は初動捜査が重要だって、探偵さんも知ってるでしょ」
「気を付ける。俺は一階を全部見て回るから、刑事さんは二階を任せていいか。そして全員の様子を見てきてほしい。素人探偵よりも刑事の方が、そういうのは強いだろ」
「紫苑さんにも、色々尋ねなければなりませんからねえ。分かりました。浅葱さんと金井さんは一階の様子を、僕は二階の様子をでいいでしょう。何かあれば僕を呼んでください」
一階の部屋にはすべて鍵が掛けられているはずだから、使用人室、食堂、化粧室の三つに鍵が掛かっていることを調べれば、後は外に出て遺体を探せばいい。
「刑事さん、一つだけいいか」
「はい?」
「一日の内に二度も事件が起きている。アリバイ聴取は今日中にやっておいたほうがいいだろう。寝て記憶が捨てられない内にな」
蒼佑の事件が起きた後すぐにアリバイ聴取をしなかったのは、まだ全員に恐怖心が残っていて休憩する時間が必要だった事ともう一つ、事前に犯人が用意していたであろうアリバイ用の台詞を忘れさせるためだった。
劇場型事件と違って、犯人がその場にいて犯行を行い、さらに内部犯だった場合。即興でアリバイを考え出すのはほぼ不可能だ。どのようなプロでも事前に台本は用意されている。言わば犯人とは、殺人事件という物語の役者なのだ。筋書きを考え、自分で演じる必要がある。そこで英と真は、なるべくアリバイ聴取を遅らせて犯人の台詞を忘却させる計画に打って出た。リスクとしては、翌日になれば犯人以外も何時にどういう行動をしていたのか
更に言えば、すぐに事情聴取をしても犯人の脳が足りてなければすぐに犯人を特定できる。これも内部犯の場合だ。なぜなら、犯人は予め用意してきた台詞を喋るだけで良いからだ。
アリバイを聞かれて、一般人ならば答えに窮するだろう。自分が疑われている緊張感と、正確に答えて疑いを晴らしたいという焦りから答えるのが遅くなるのだ。それに比べて犯人は、予め用意していた台本通りに話すだけで良い。英なら一発で犯人と一般人を見分けられるだろう。
だが今回は例外だった。恐らく犯人はそこまで見越している。朝から夕方まで一切不審な言動をせず、誰からも疑われずにいるだけでなく、銃の用意や鍵穴に粘土を詰めること、幻覚剤の用意――つまり用意周到な犯人が、つまらないミスをするとは思わなかった。そこまで議論して、英と真が至った計画だ。
しかし事情は変わった。二度目の事件が起きたからだ。
犯人にとって、一度目の事件においてアリバイを証明するだけならば簡単なのだ。
例えば役者になったとして、本来なら一ページから十ページまで読まねばならなかったとして、事情が変わって一ページから二十ページまで読む必要が出てきた。プロの役者でもない限り、辻褄を合わせた多くの台詞を喋るのは簡単ではない。
それに加え、蒼佑の事件が起きてから全員が相互監視状態だ。台本を確認するような動作をしていれば一瞬で看破されるだろう。
「そうですねえ、ちょうど僕も同じことを考えてました。ある程度の調査が終わりましたら事情聴取としゃれこみましょう」
「それと、もう一つだけ言い忘れていたことがある」
先ほどから真は、腕の感覚が薄れていた。肩から先は微かな感覚しかなく、指先を律儀に動かせなかった。右腕に限った話ではあるが。
「どうやら麻酔かなんかの薬物を注射されて眠らされていたらしい。それならこの吐き気の想像もつく」
「幻覚剤の次は麻酔ですか。いよいよきなの臭いが濃くなってきましたねえ……真さん、もし打たれたのが麻酔なら、その時点で気付かなくちゃならんことがあります。分かりますね」
「ああ、勿論だ」
麻酔は、打つ量を間違えると人を簡単に死に追いやる殺人薬だ。全身麻酔の時は息さえできなくなるからだ。今回の犯人は幻覚剤の投与量も、麻酔の投与量も理解して利用している。
「では、僕は視察の方へ。真さん、くれぐれも無理はせんようにですよ」
「分かってる」
英は談話室の扉を、音を抑えて開けて二階へと上っていった。開きっぱなしになっている扉から冷たい風が入り込んでくる。まるで大理石の壁が吐く冷たい息のように、無機質に感じさせるのだった。それは鳥肌を立たせる程のものだった。
階段を上る音を聞きながら、真も机から手を離して怜美と共に調査に乗り出すと決め込んだ。
「浅葱君、これ帰ったら八条さんに報告するからな。君は無茶をしてばかりだと。そして叱られるといい!」
「やめろよ。八条さんが般若のお面を被ったら小一時間は同じ話を繰り返すんだ」
小言を言いながら、真は先頭に立って廊下を見渡す。花のようなシャンデリアは薄く周囲を照らし、
手短な部屋から調査するべきだ。真は使用人室のドアノブに触れて、横にひねる。すると、どういう訳か扉が吸い込まれるように、奥へと開かれたのだ。
中は暗闇だけが支配する魔物の巣窟のようで、真は端末のライトを頼りに電灯のスイッチを探し、部屋の明かりをつけた。
「異常はない、か。怜美は何か見つけたか」
「ううん、何もない」
怜美は犯人に自分の居場所を知らせないために、小声で、短い言葉ではっきりと断言した。真もこれ以上部屋にいても無駄が時間を食らってしまうだけだと判断し、明かりはつけたまま扉を閉めた。
次に食堂だ。食堂も同様に扉が開き、使用人室よりも広く隅々まで探すのに手間取ったが、何も不審物は見当たらなかった。談話室の血は、犯人が真を
「怜美、次調べるのが一階最後の部屋だ。もしかしたら、悲惨なことになってる可能性もある。俺はまだ馬宮さんの遺体を見たり、これまでも色んな遺体の状況を聞いたりしてきた。お前はまだ本物の遺体を見たことはないだろ」
「それを覚悟してやってきてるから、大丈夫。浅葱君は私のことを気にしないで」
「聞いておくが、強がってるわけじゃないよな」
「勿論だ。私は強がるなんて男らしい真似はできないからな。正真正銘の女の子なわけだし」
「もし犯人に出会ったら、俺に構わず英を呼んできてくれ。右腕は死んでるが、左腕でなら一分くらいは戦える。向こうが会話に応じるようなら、会話でいくらでもやりようはある」
すると、真の肩に怜美が手を置いた。思わず彼女の顔を覗き込むと、彼女は心細い、悲しい表情をしていた。
「浅葱君、死ぬつもりなのか?」
「死のうなんて思っちゃいない。ただ怜美は、多くの人を守るためにできることをやってほしいというだけだ。冷静にな」
怜美はそっと肩から手を退かした。真を恐れるように目を逸らし「分かった」とだけ口にする。
失言をしたんだと、真は密かに気付いた。不本意ではあったが、自身の死を告げるような口振りになっていた。怜美は能天気だが、仲間思いの女性だった。心優しい純朴な人間だった。
「悪い、怜美。余計なこと言ったな」
「言ったでしょ、私のことは気にしないでって」
失言は、ひとたび表に出てしまえば消えることはない。これ以上謝っても怜美の機嫌取りにはならないし、何より今は探偵としての職務がある。
この島で、平和にゲームが行われていればよかったのにと思わざるを得ない。探偵が洋館に来たからといって、お約束のように事件が起きなくてもいいじゃないかと、真は名もなき存在に愚痴ってみせた。それは神か、運命か、どちらでも構わなかった。
すべきことは一つ、最後の部屋を調べることだ。真は少し早歩きになって、化粧室の前に立った。
大丈夫、大丈夫だ。真は自分に言い聞かした。今まで通り扉が開いて、中を調べて何も起きない。英と合流して、いなくなった人間がいないか確認する。何も問題はない。
真は頭の中で数を数えた。そうすることで、恐怖という感情を掃おうとした。実際にそれは成功するのだ。数を数えることに脳が集中したから、余計な感情を捨てられて、真は化粧室のドアノブを掴んだ。
化粧室には鍵が掛かっていた。
これ以上先に進むな。真の心の中で、警笛が鳴り響いていた。