第14話
文字数 4,700文字
どうするんだと真が聞くと、怜美は少しだけ待てと言う。このやり取りは、ついに三回目を迎えた。
そんな二人に運命の女神が助け船を出したのだろう。表玄関のドアが開き、浮かない表情をした御子が姿を現した。彼女は最初、思い詰めたようで真と怜美には気付いていなかった。彼女のファンである怜美は、真よりもいち早く彼女の前へ明るい笑顔を見せにいった。
「古谷先生! なんだか元気がないですねー」
御子は最初こそ戸惑いの表情を見せた。一人だと思っていた空間が、本当は三人だったと知ったからだ。しかし同時に安堵もしていた。一人きりだった世界に誰かがいてくれたからだ。
だから猫が笑った時のような顔を見た御子は、彼女自身もつられて顔を綻ばせるのだった。
「怜美さんよね。ごめんね、本当はあなたとお話をしたいんだけれど、今の私の気分に見合った
自尊心を失った王、愛を失った姫。二つとも真っ当に彼女の心を的確に表した正しい言葉なのだろう。
怜美は、真面目な表情に切り替えこう言った。
「私もね、たまにあるんですよ。落ち込んで、なんか気を使って話を聞くって言ってくる人らが鬱陶しくて一人になりたいって言うこと。でもそう言った後、大体誰かに結局構ってもらいたくなって、信頼できる人と話しちゃうんですよね。そういう時いつも思うんです。ベッドの上に寝転がって、それか机の上に突っ伏して一人で考え事をしている時間って、本当に無駄だったなーって」
真は
「そうね。私も結局誰かに言うと思うわ。だけれど、それは怜美さんにじゃない」
「私は古谷先生のファンです。古谷先生が何を考え、何に悩んでいるのか気になるんです」
「つまらない話よ。聞く価値もないわ」
怜美はしつこかったが、御子が苛立っている様子はなかった。大人の対応でその場を切り抜ける人格者そのもので、真は彼女が小説家であることを忘れかけた。
創作者というのは、どこか不思議な性格を持ち合わせているものだからだ。短気だったり、言葉が強かったり。八条探偵事務所に来る客人の中に画家や音楽家が来た時があったが、二人とも何らかの精神疾患を持っていた。それらに比べ、御子は落ち着いた女性だ。
ただ、ペルソナという言葉がある。人間は幾つもの仮面を持ち合わせているというものだ。表の顔と裏の顔では、時に
「落ちたのよ。私の小説。賞に」
いくつかの怜美との応酬の後、御子は静かにそう言った。真はその言葉だけがはっきりと聞き取れた。
「それだけじゃないわ。売れない小説家ってね、大変なのよ。自費出版だから、私の小説を世の中に出すだけで数百万。そのために幾つもの借金をしたり、あなたは幻滅するでしょうけど夜の仕事をしたりして稼いでる。やりたくない汚れ仕事をやって、それも自分の好きな世界で生きるためには仕方ないと割り切ってね」
真には、彼女が
いや、正確には違うのかもしれない。怜美が彼女の心を縛っていた紐を解いたのかもしれない。彼女が表に出さずに隠し続けていた、しまい続けていた仮面を取り出したのかもしれない。
「でももう限界が近いわ。次出版する小説の資金繰りに失敗して、原稿の締め切りだって近いのに全然構想が思い浮かばない。私ってこんなに無能だったっけ? 賞の一次審査さえ通らないほど、私って才能無いの? そう思ったらね、怒りと悲しみが混ざりあったような、黒い感情が煮詰まってきたのよ」
今度は怜美が圧倒されていた。作家でない真と怜美には到底理解できない境地の絶望だったからだ。
全てを言い切った時に、御子は自嘲気味に笑ってこう付け足した。
「なんて、ごめんなさい。つくづく私って、ダメね。話が面白くないわ。これだから売れない小説家なのよね」
ところが、御子が驚くようなことが起こった。それは怜美が自主的に起こしたもので、真でさえ目を疑った。
怜美は御子の手を取ったのだ。両手で彼女の両手を握って、力強くこう言った。
「私、自分は良作しか読まないって自負があります。小説もアニメも、私が好きなものは作品としての一線を越えた良作だって。でも、そういう良作って埋もれやすいんですよね……」
怜美の趣味はといえば、カラオケに料理に読書。本は漫画が多い。現代を生きる上で無難な趣味ばかりだ。小説を書いたことも、絵を描いたこともない。ましてや自分の作品を世の中に発表する経験など、一度もないのだ。
だからこそ言えることがあるのだろう。怜美はこう続けた。
「古谷先生は、私が尊敬する本当に大事な小説家さんなんです。少なくとも私っていうファンがいるって覚えていてください。締め切りも延びてもいいじゃないですか。そんなに切り詰めることないですよ」
「ありがとう怜美さん、そう言ってもらえて少しだけ安心したわ」
怜美は笑って手を離した。怜美としては満足だろう、一読者として作者の心の安定に繋がったのだから。
傍目で見ていたから真は分かっていた。御子は今でこそ取り繕った作り笑いをしているが、表玄関を開いた時と今とで、何も感情に動きがないことに。
だから真は、次に御子が口にする言葉を聞いても驚きはしなかった。
「でもね、怜美さん。私の悩みって、誰かの言葉で救われるほど簡単なものじゃないの」
怜美は分からなかったようだった。針を糸に通す時のように慎重に言葉を選んでいた怜美には、御子が時折見せる苦痛の目に気付けなかったのだ。
誰かの言葉で傷付けられた傷であれば、誰かの言葉によって
御子は後者だった。怜美の激励は確かに鎮痛剤の役目を果たしただろうが、一時的なものに過ぎない。真はようやく、御子という人間が分かり始めた。彼女は人一倍、人を信頼していないのだ。
過去に何があったか分からない。何らかの出来事が、彼女から暖かさを奪ってしまったに違いない。最初は苦手だと感じていた御子に対して、真は別の見方をし始めた。人の好意を信じられない哀れみではなく、かといって同情心でもない。真はこの自分の変化をどう捉えればいいのか理解に苦しんだ。分かっていることとすれば、彼女へと向けていた苦手意識が無くなったことだけだからだ。
「じゃあね、怜美さん。あなたの言葉は忘れないわ」
そう言って階段の一段目に足を乗せた御子に向けて、怜美は言った。
「あ、あの。どこに行くんですか?」
「自分の部屋よ。私が一番信頼できる人に、この話をしてみる。怜美さんのおかげでその人になんて言えばいいのかが決まったから」
「その人って、どんな人なんですか?」
怜美の問いかけに、真は違和感を持った。同時に彼女にそれ以上喋らせないよう口を塞ごうとも考えたが、御子は優しく返事をしたから、真は何もせずに耳を傾けていた。
「カウンセラー。オンラインのね。電話じゃなくて文章でやり取りできるから、私にとっては都合がいいのよ。電話って苦手だから」
時代は絶えず変化を続けている。その時代の必要性にあったコンテンツが続々と生まれていくのだ。対面でのやり取りが苦手な悩める子羊達や、仕事が忙しくて対面する時間のない忙しない子羊達に向けてオンライン上で、手紙を送り合うようなカウンセリングサービスがあるとは真も知っていた。
カウンセリングと聞くと踏み出しにくく感じていた人々にとってオンラインカウンセラーの存在は救い主であり、当初こそ心の負担を軽くする役割を担っていたようだが、カウンセラーが増え始めてからはお悩み相談のような役回りを担っているようだ。御子の利用用途もお悩み相談としての意味合いが強いのだろう。
怜美は「そうですか」と言うと、もう何も言わずに御子を送り出した。御子の横顔に生まれていた
真は怜美に近付き、彼女の肩に手を置いた。
「物書きっていうのは――いや、物書きに限らず物を創る仕事に就いてる人間ってのは、全員何かしら歪んでいるもんだ。あんまり気にすんなよ」
そう聞いた怜美は、彼女に似つかわしくない落ち着いた返事をするだけだった。
真が居心地の悪さをどう対処すればいいのか悩みに暮れていると、彼女は小さな声でこう言った。目は真の方を向いていた。
「浅葱くんは、オンラインカウンセラーをどう思う?」
「突拍子もなく、どうしたんだ。さっきのデザイナーチルドレンのように俺の意見を聞きたいのか」
「いや、そうじゃなくて。うーん、まあいいや。何でもない。聞かなかったことにして」
つかみどころのないやり取りに、少しだけ真は苛立ちを感じた。
「私、部屋に戻るね。ごめん、このままだと浅葱くんに気を遣わせると思うから。私、そういうのは慣れてないんだ。どうすればいいかも分からなくなるし」
「分かった。だが気を付けろよ、お前は市民なんだろ。犯人に早くから退場させられないようにな」
「無論、鍵はしっかりとかけておくから安心したまえ。そもそもワトソン役がこんなに早くいなくなったら話が成立しないからな」
口調こそいつもの怜美だが、彼女から明るさが取り除かれているようだった。いつだったか、真は聞いたことがある。
真は階段を上っていく怜美を見守った。その様子を見ている真も毒気を吸い込みそうになったから、真はあえて自室へと戻る階段を上らずに談話室へと足を向けることにした。
談話室では何人かが喋っていて、その内の一人である純也が真に会釈をした。部屋の隅では、奏楽が熱心に携帯端末を操作している。誰かにメッセージを送っているように見えた。
「浅葱さん、これはどうも。遺言の謎は解けましたか?」
純也はコーヒーカップを片手にそう尋ねてきた。同席している恒、リミー、茉莉の三人は期待の眼差しを真に向ける。
「いや、まだ解けてない」
三人の圧に負けることなく、真はそう言い切った。恒は特に無関心に、リミーは少し落胆気味にしていた。茉莉は笑顔になると、真に手招きをしながら言った。
「じゃあ、一緒に考えませんか? 多くの人で考えれば遺言の謎も解けると思うんです」
面倒そうな人付き合いは真にとって不利益でしかなかった。単純に、ひどく疲れるからだ。本来ならば茉莉の誘いは断っていただろう。だがそれ以上に、真は退屈していた。退屈の毒というのは人を簡単におかしくさせてしまう、一種の病気のようなものだ。退屈に殺されてしまうくらいならば、面倒でも人付き合いをしておいたほうが真は楽だと感じた。
仮に謎が解けて賞金を得られるならそれに越したこともない。真は二つ返事で純也の隣に座ると、茉莉はにこやかな笑みを見せた。