エピローグ
文字数 4,127文字
来た時と同じ送迎用のフェリーで、怜美がノックスの十戒だのミステリーだのと講釈を垂れていた席に座り、一人で海を眺めている。いつか室内から怜美が外に出て、小うるさい口を止めない時間が来るんじゃないかと思う。だがいくら待てども彼女は現れなくて、一人の時間だけが過ぎていく。
現実とは
今も怜美は、あの洋館の暗い部屋の中で一人で眠っている。警察の現場検証が入り、運び出されるまでずっと。それはどんな孤独だろう。魂はそこにない、だが彼女の身体はずっと一人なのだ。うすら寒い部屋の中で、真っ暗で殺風景な部屋の中で。
真の心にはポッカリと穴が空いていた。爆弾で粉々に心臓が
フェリーを降りると、実乃は亜里沙を連れて警察へと向かった。送迎者は無実らしく、ただ命令されて船を動かしていただけの気の良いおじさんだった。あの島で起きた惨状を話すと、自分のせいだと泣いたという。真はその涙こそ見ていないが、降りる時に彼はすすり泣くように謝罪をしてきた。真はその時、どういう
帰路。真はキャリーバッグの車輪の音だけを聞きながら、静かに歩いていた。
八条探偵事務所に着くと、玄関扉の前で既に二十が待機していた。いつからそこに立っていたのか分からない。だがいつもの上品な服で、長い髪は腰まで整っていて、いかにもオーナーらしい風貌は顕在だった。
「おかえり、真。怜美は?」
実乃は何も言っていないのだと気付いたのは、そう言われてからだった。二十への業務連絡は済ませると言っておきながら、怜美が殺された件に関しては言わなかったのだ。
真はなんの感情も持たずに、
「死んだ」
困惑して固まる二十の横を通り抜けて、真はキャリーバッグを持ちながら二階の自室に続く階段を上った。いやに荷物が重い。腕が痺れそうで、途中で階段から落としそうになる。
なんとか階段を上りきり部屋に入ると、服を着替えもせずにベッドの上に転がりこんだ。仰向けになって天井を見上げた。
ノックもせずに扉が開く。入ってきたのは二十だった。真はなんて言われるか想像した。そのどれもが真を叱る言葉ばかりだった。当たり前だろう、八条探偵事務所にとって怜美は、必要不可欠な存在ですらあったからだ。優秀な人材を失って、代わりに帰ってきのはヘッポコ探偵だけ。賞金も得られず、大きな物を失って帰ってきた。これから二十は、怜美の親に事情を説明して裁判沙汰にすらなるかもしれない。管理責任能力を問われ、事務所閉鎖の危機にまでなるかもしれない。それは本来、
「怜美は、楽しそうだった?」
急に叱るわけもない。真はずっと同じ調子でこう言った。
「ワトソン役になりきってた。ずっと楽しそうにしてた。途中怯えてたが、俺が絶対守るって言って」
「真、それ以上は言わなくていい」
口を開けるのも難しくなってきたから、彼女に止められて真はすぐに閉ざした。二十は扉を閉めて、ゆっくりとベッドの脇に近付くと音も立てずに腰かけた。
二十はいつも叱る時、相手の眼を見ない。相手を
だが、二十は想像しうる限りの言葉のどれにも属さない事を言った。
「自分が死んで真が帰ってきたら、伝えてほしい話があるって怜美から言われててね」
真は思わず起き上がった。隣にいる二十は、叱るどころか悲しむような目で、様子だった。
「どういう意味だよ。まるで、自分が死ぬのが分かっていたみたいな」
「怜美もチャットカウンセラーを使ってたの」
合うはずのなかった
「あの子はね、真が好きだった。でもあなたは恋愛に興味がなくて、いくら必死に振り向かせようとしても怜美には難しかった。あなたに近付けば近づくほど遠ざかっていくようだって、私に相談してきた日もある。告白もできなくて、でも想いばかりが募っていって、私に泣きながら電話してきた夜をよく覚えてる」
真にとってはただの仕事仲間だった。
それが知らぬ間に、彼女の心を傷つけていた。
「あの子にとって、あなたは初恋だったのよ。どうして恋したか、分かる?」
真は首を横に振った。何も言えなかった。
「些細な出来事だった。一年前、あの子が悩み相談で担当していた子が自殺したの。とても仲が良い女の子で、ここにも十回くらい足を運んできてくれた子。怜美もその子と一緒にレストランにいったり、瞬く間に友達になった。その子が自殺した。理由は分かっていない。そんな出来事があって、怜美はこの仕事を辞めようかって考えていた時、あなたがこう言ったのよ」
何気ない一言だった。真はよく覚えている。
――風邪でも引いたのか?
「あの子はね、同情もしてほしくなかったし励ましの言葉もいらなかった。分かるのよ、私も似たような経験したから。でも、どうしてあなたの言葉が響いたのかは私にも分からない。だけど女の子って、何気ない一言で男の子を好きになるなんてよくある話なの。あなたが救ったのよ」
「もしその時に事務所を辞めてたら、死なずに済んだのにな」
「そうだね。でも、あの子はすっごく幸せだったはずだよ。好きな人とデートできて、好きな人と好きな遊びができたんだから」
怜美にとっては生まれて初めてのデートが、島での宿泊だった。殺人事件が起きてしまったから台無しだが、それでも最初はひどく楽しんでいたように改めて真は感じた。彼女の言葉一つ一つに、幸せだという感情が隠されているのだと知った。
「どうして怜美は、遺言なんか残していったんだ」
「チャットカウンセラーが警察を挑発したのと同じ理由。でもそれだけじゃないの。怜美はね、賭けたのよ」
どういう意味か聞き返すために、真は黙った。
「チャットカウンセラーは自分は殺人をすると怜美に予告した。だけど、もし島に来れば心理的な効果で二人の距離は縮まり、真との恋路が上手くいく可能性があると言ったの」
「なんだよ、それ。そんなの分からないじゃねえか。もし俺たちが生きて帰ってきたとしても、俺があいつのこと好きになるなんてわからないだろ!」
「恋するとね、そんな些細な話どうでもよくなるのよ。死んでもいいから、あなたから好かれたかった。そして、一緒に居たかった。あなたと一秒でも多く一緒にいられるなら、死んでもいいって思っていたの。私だって最初は止めた。でもあの子の決意が固すぎて、どうにもできなかった」
「バカだろ。あいつ、そんな事までして。バカだよ……死んだら意味ないだろ! 俺は約束したんだよ、絶対生きて帰らせるって。他の奴も助けるけど、お前だけは絶対助けるって約束したんだよ、破っちまったんだよ! 俺は……本当に無力だ」
守ってやると言われた時、怜美はどれだけ嬉しかっただろう。そして死ぬと分かった時、どれだけ絶望しただろう。真は怜美が死んでからため込んできた涙を、流していく。頬を伝って、雫が地面に落ちる。二十はそんな真の背中を撫でていた。
「いつだって怜美は、あなたを愛していた。でも愛すれば愛するほど、辛くなっていった。あなたと話すのが怖くなっていった。そんな日々に、もう疲れたのかもね」
二十はハンカチで真の目元を何度も拭った。
「怜美は、あなたにこう言い遺したわ。あの子は字が汚いからって、紙じゃなくて私に直接言ってもらうように頼んできたの。紙はもらってるんだけどね。じゃあ、読むね」
溢れる涙でハンカチを濡らしながら、真は彼女の声に耳を傾けた。
これが、怜美と話す最後のチャンスになる。それは怜美が一方的に語り掛けてくるものだが、いつでもそうだった。いつもミステリーの講釈を垂れて、面倒だからって真は
その様子をいつも見ていた二十は、彼女も瞳を揺らしながら、静かに語り始めた。
「浅葱君。無事に帰ってきてくれてよかった。私は死んじゃったけど、その時苦しくないといいな。できれば背後から鉄砲で撃たれるとか。それと、ごめんね。浅葱君は優しいから、私を助けたいって思ってくれたんじゃないかな。そうだといいなあ。私ね、ずっと浅葱君が好きだった。でもこのままじゃ一生かなわないどころか、浅葱君に好きな人ができるんじゃないかなって思って、すごく不安だった。もう八条さんから、チャットカウンセラーの話聞いてるよね。浅葱君は私のこと、バカだって言いそうだけど、私もそう思う。自分で、なんでこんな話に乗っちゃったんだろうって思う。でも仕方なかった。遺言とか初めて書くから、他になんて言えばいいのか分からないな。だからもう最後にするね」
怜美の存在が消えていくのを間近で感じる。一言一言聞く度に、遠ざかっていくのが分かる。もうじき彼女は消える。時間が彼女を連れ去って、死者の世界へと戻そうとしている。
最後の言葉を聞きたくなかった。それを知って、二十も口を止めた。
だがこの最後の言葉を聞くのが、怜美に対する最大の
「最後の言葉、聞かせてくれ」
覚悟の決まった声で真が言うと、二十は涙を二つだけ地面に落とした。そうして深く息をこぼしてから、最後の言葉を紡いだ。
それは、本当に些細な、最後の一言だった。
「風邪引くなよ、相棒!」
胸が締め付けられて、痛みを帯びる。涙で目が腫れそうだった。それでも真は、我慢できない感情を垂れ流しにしていた。
二十はその感情を支えるように、真が泣き止むまでずっと側に寄り添っていた。何も言わずに、母親のように。