第45話
文字数 3,324文字
始まりの産声は、今日によって帰結する。思い描いていたキャンパスの中から聞こえてくる唯一の足音が、望んだ未来へと続くレールの上をそのまま進んだという証になっていた。時計の秒針が絶え間なく時間を刻んでいく。その瞬間、若杉亜里沙は息をしていた。
刑事にも、探偵にも語らずに二日間過ごしてきた。全ての準備は奏楽に任せ、亜里沙は自分の意志が悟られないようにひっそりと息を潜めていた。
探偵が真相に気付いた時、真っ先に断定すべき犯人は奏楽だろう。
奏楽と出会った切っ掛けは、チャットカウンセラー。亜里沙は当時、文世との政略結婚を嘆いていた。有り余る金銭を使って見出したストレス発散法が、奏楽との会話。今の世の中を非難したり、慰めてもらったりしながら過ごす夜が一番有意義な時間だった。文字だけのやり取りではあったが、奏楽との会話は憂鬱を忘れさせた。
結婚式も間近になっていた頃、奏楽が個人的な携帯端末を用いて直接連絡を取ってきた。亜里沙はそこで、彼の妻が亡くなったのだと知る。
電話の前だから、どんな表情をしていても分からない。亜里沙は笑いを堪えるのに必死だった。
奏楽に妻がいると知った時の衝撃は、大きく彼女の精神を揺さぶった。話を聞いてくれる彼に抱いた恋慕は、計りに乗せたところで数値が数えきれなくなるほどの大きく、鈍重なもの。どうして結婚相手が文世であったのか。なぜ奏楽ではなかったのかと考えた時間は数日にも及ぶ。
だから妻が死んだと涙ながらに告白してきた時、今日の計画を立てたのは亜里沙だった。文世を殺害し、奏楽と駆け落ちをする。
島で何人も死ぬには人数が必要だった。それは簡単に集められる。奏楽の人望を使って、本気で切羽詰まった人生を送っている人間を集め、大胆に殺害していく。警察と探偵を呼んだのは、人間の気まぐれ。ミステリーが好きだった亜里沙にとって劇場型殺人の犯人役は、これ以上ない興奮をもたらすものだった。
全てが上手くいっていた矢先、すれ違いが起きたのは今朝だった。奏楽は駆け落ちしようなどと思っておらず、復讐が済んだらとっとと警察に出頭して罪を認める気でいたのだ。亜里沙とは違う、まったく異なった想いを抱いていた。
だから殺した。
容赦はなかった。談話室のソファに座った今、どういうわけか燃えるような恋心は冷めきっていて、心が
地面に転がっている紗良の遺体を目にした。仰向けになっている彼女の胸にハサミが突き立てられていて、目は安らかに閉じられている。
その隣に転がっている英と恒、拓真は至るところに穴が開いていて血が滴っている。無駄に弾を使ったせいで、亜里沙は自分に使うための銃弾を失っていた。もう使い物にならない銃を机の上に置いた。
「生きる価値を無くしたライオンが、どのように一生を終えるのか考えて、私はとても
自分ではない声が聞こえても、亜里沙は驚く表情さえ見せずにその方向に首を向けた。
談話室の扉を開けて入ってきたのは神崎紫苑だった。
「私の考えの中にいるライオンと今のあなたは、よく似ています」
紫苑は怖れる様子もなく亜里沙の前に座り、行儀よく手を膝の前で組んでみせた。亜里沙は銃を手にして、渇いた笑みを浮かべた。
「じゃあこう考えてみてください。好きでもない男と
「考えてみました。しかし、それが大量殺人を行う動機にはなりません」
「じゃあ聞きましょうか。人が人を殺していい動機ってなんですか。私は自分の存在価値を守るための、些細な殺人さえも許されないと?」
「仰る通りです。人が人を殺めるのに値する動機など、この世のどこにも存在しません」
最後の時間は一人で過ごしていたかった亜里沙にとって、紫苑という存在は邪魔でしかなかった。それに加えて説教もされるとなれば、亜里沙の心の波が苛立ち始める。
「あなたは哲学者ですか。違うでしょう、一般人の域を出ないただの使用人でしょう。あなたが私を非難する資格など、どこにもありません」
「少し勘違いをされているようですね、私は亜里沙様を非難しているつもりはありません。今まで辛かったのでしょう、苦しくて寂しかったのでしょう。そのお気持ちは計りかねども、亜里沙様の精神を歪ませるに値する運命の仕打ちだったとは理解しているつもりです。私がここに来たのは、亜里沙様に敗北を認めてもらうためです」
「敗北? それはどういう意味ですか」
紫苑は引き締まった表情で、厳格な口調でこう続けた。
「出入口に瓶が置かれていましたね。今回の事件のあらましについて全て書かれていた瓶です。置いたのはあなたか、奏楽様でしょう。その瓶の中には、あなたが最後に自害して死ぬというところまで明記されていました」
亜里沙は驚きのあまり、開いた口の閉じ方を忘れた。
「それがあなた達の勝利宣言ならば、私はそれを覆します」
「――どこかに隠れているあなたをどう殺そうか画策していましたが、そちらから出てきてくれるのなら早いですね」
「その銃には弾がもう入っていません。あなたが私を殺めるのは不可能です」
二人の視線の間に、
紫苑がそれを防げるとするならば、亜里沙は警察に逮捕されるだろう。愛のない幼少期時代を過ごし、苦痛と戦いながらも悪魔の囁きに負け悪魔と化し、牢獄の中でほぼ一生を過ごす。
亜里沙の背後に回った紫苑は彼女の首を掴み地面へ押し倒すと、膝で背中を押しながら両手首を手錠にかけた。
「離してください! どうして私ばっかりこんな目に合わなくちゃならないんですか、私ばかり不幸にならなくちゃいけないんですか! こんなの不公平です、私だって幸せになりたかった!」
「幸せなんてちっぽけで儚いものなんです。そんなものを追い求めても意味はない!」
「やっぱり理解してない! あなたは私の辛さや苛立ちを、何も理解してない!」
「私はもう少しで人を殺すところでした、自分の父親です。その寸前で助けてくれた人がいた。私も一歩間違えればあなたと同じになっていたんです」
敗北の鐘は、どんな音をさせるのだろう。亜里沙は絶望を前に、地面に頬を当てながら涙を流した。せめて死なせてもらえれば、それが最大の幸せだったというのに。一番の救いが死であったというのに。
亜里沙が抵抗をやめると、背中の上に乗っていた紫苑の膝は持ち上がり、胸を圧迫する苦しさが取り除かれた。
「終わったか」
――え?
幻を見るような目。亜里沙は、思わず足を使って起き上がり声のした方向を見た。
浅葱真。彼が頭を押さえながら、静かに立っていたのだ。