第37話
文字数 1,990文字
「純也君、分かってると思うけど」
杏が寝静まった後、紗良さんは小声でそう言った。僕は「分かってます」とだけ返して黙した。紗良さんの起こした殺人事件は社会的に見れば許されざる行いだが、僕は彼女の心境と環境を知っている。警察に通報すれば良いとは分かっていても、どうしても社会に彼女を売る気にはなれなかった。
一番辛い時に一緒にいてくれた恩があるからだ。僕が今生きているのも彼女がいたからかもしれない。であれば、僕ができる恩返しは口を閉じるだけ。簡単な話だった。
犯罪の片棒を担いでいるようで気が進まないと思いもした。紗良さんの家が調べられれば、パソコンのチャット記録から僕まで警察は簡単に辿り着けるだろう。家のチャイムが鳴った時、どうやって言い訳すればいいのだろう。母は怒るだろう、父は裏で僕の陰口をたたくのだろう。
恒は、分からない。最近あんまり弟とは話せていない。
オンラインカウンセラーの取り計らいで兄弟で島に訪れて、久々に長い会話をしている。
カウンセラーは紗良さんからかつて紹介してもらっていた。学生時代、僕は自分の目標が分からず迷子になっていた。何がしたいのか、明確な人生の道標が無かったのだ。高校生だったが、僕は焦っていた。周りの生徒達は焦る気配すらないし、友達にさえ考えるのが早いと言われる始末だったが、無駄だと分かっていても僕は焦りを抑えられなかったのだ。
それを紗良さんに話したら、自分よりもカウンセラーの話を聞くべきだと紹介してもらった。だが僕は、自分の将来を他人に決められるのに抵抗を感じていた。表面上はありがたくカウンセラーの電話番号を頂戴したが、きっと使わないだろうと最初から分かっていた。
実際に使わなかったのだが、それから数年経って紗良さんが事件を起こし、殺人を黙している責任感が重圧としてのしかかってくると、一人では処理しきれなくなった。誰にも言えない、爆弾のような秘密。誰かに話せば楽になると分かっていた僕にとって、紗良さんを庇い続けるのはとんでもなく難しいのだった。
そして僕はオンラインカウンセラーに連絡を取る。すると、カウンセラーは紗良と会わせてくれると言ったのだ。ルピナスというゲームを介してだが、二人で会って話せば少なくとも孤独には感じないと。
会うのは初めてではない。島に着けば彼女だと気付くだろう。そう感じた僕は一言の返事だけで了承を済ませた。
島で彼女と出会って最初に湧き上がってきた感情は、嫉妬。それともう一つ、彼女を守りたいと思う責任感。
紗良さんが結婚しているという話は知っていた。だが言葉で語られていただけで、杏も拓真さんも会うのが初めてだった。僕は日ごろからのやり取りで、もしかしたら家族持ちというのは彼女の作り出した幻想なのではないかと考えていた。そう願っていたというべきだろう。ところが、彼女は家族を連れて島に訪れていた。
明瞭な恋心というのが、僕の中に芽生えていた。優しい女性に包まれる感覚が、僕にとっては至福の時間だったのだ。
もう一人、御子さんが参加していたのは偶然だった。時期的にいえば、御子さんは紗良さんよりも早くネットの中で出会っていた。最初は彼女の投稿していた小説にコメントを送ったのが切っ掛けだった。どうやら僕が初めてのコメントのようで、彼女は大層喜んでくれた。
御子さんと会うのはルピナスが最初だが、チャット仲間としての歴は積み重ねられ、彼女の人柄がよく分かるようになっていた。
だから彼女からメッセージが届いた時、僕はただならぬ悪い予感を抱いた。
「遺言の謎が解けたかもしれない」と、スマートフォンのモニターに表示されていたのだ。その他にも一緒に来てほしいとさえ語っている。
まだ誰も触れていないが、この館には三階に開かずの扉がある。僕も昼にいったが、鍵が掛かって入れなかった。一番謎めいた部屋だったが、少し不気味だったからすぐにその場を立ち退いたのだ。御子さんはその扉の前で遺言の謎の答えを言ってみようと言いだしたのだ。
行って、帰ってくるだけ。それなら刑事さんにもバレないだろう。五分くらいあれば事は足りる。ならば、その誘いに乗るのは悪いだけの話とは思えない。僕には今すぐにでも、多くのお金が必要だった。
「紗良さん、ちょっとだけ外に出てきます」
止められるだろうな。僕はそう思いながら声をかけたが、
お金が必要だとは言ったが、何事もなく終われるのならそれでよかった。
御子さんに会ったならば答えを聞いてみようと思った。その答えをこっそり紗良さんに教えて、彼女がしばらく逃亡できる資金を集めるのだ。