第1話

文字数 4,216文字

 宇宙にも行ったことがない人間が、地球が青いという言葉を真に受けてしまうのは海が青いからだろう。地球という名前のついた宇宙からの写真を見て、人はそれを地球だと知る。多くの人間は実物を見ていないにもかかわらず、地球は丸いのだと信じる。もしかしたら平面かもしれない、と思っていた古い時代のことは考えない。
 ただ宇宙に行かずとも地球が円形だと理解する証拠は幾分にも揃っている。
 では、もし海を赤く染めてしまったら。海が青いから、地球は青い。では海が赤かったら、地球は赤くなるのだろうか。
「なあ浅葱(あさぎ)くん。私は、やはりミステリーとは縛られるべきものだと思いたいのだよ」
 同伴者の金井(かない)怜美(れみ)は海鳥達を眺めるのを止めて、船の柵に背中を凭れさせながら浅葱に振り返った。船はゆっくりと目的地に進んでいるから、モーターボートの音に必要以上に気を使うこともなく、普段と同じ声で話せるのだ。
 怜美はサイドテールが似合う華奢な女性で、身長も低い方だ。負けん気が強く、男性相手でも押しが強い。だがそんな性格に似合わず私服は女性らしい。膝裏まで伸びる桜色のチェスターコートを着ていて、無地のシャツは水色で小奇麗に纏まっているがデニムは男性のように黒いのだから、どこか不統一感を覚えてしまう。頭につけているマリンキャスケットと呼ばれる前にしかツバのない帽子は、ベージュの色をしていた。
「藪から棒に。どうした」
 怜美に対して浅葱真(あさぎまこと)は、無難な服装。髪が銀色の混ざったウルフカットということ以外は、地味な黒ジャケットに無地の白いワイシャツ、装飾のない黒のチノパンという、いかにも社会人らしい出で立ちだ。怜美はよくその服装を社会人のコスプレだと揶揄(やゆ)しているが、真が気に留めたことは一度もない。
 それに加え普段から声が小さいと金井に小馬鹿にされる真は、船酔いに耐えながらも、モーターの駆動音の小ささに感謝した。外にいるというのに、都会の繁華街よりも静かだからだ。
「人々はノックスの十戒やヴァンダインの二十則を時代遅れだという。だがね、私はそうは思わない」
 一週間以上前に聞いた話だが、真は沈黙を尊んだ。
「考えてもみてほしい。後半にひょっこり出てきた人物が犯人なんて面白いか? じつは隠し扉がありましたなんてトリック、アンフェアじゃないか。他にも色々あるぞ」
「ミステリーのお約束っていうのは必要だって言いたいんだろ」
「分かってるじゃないか。それでこそ、私がワトソン役を買ってでるだけの探偵だ。まあ十戒と比べてヴァンダインの方は確かに、作者を縛る鎖が多いかもしれない。必要でない描写を入れるな、なんて私が作者だったらお手上げだ!」
 舞台役者がよくそうするように、彼女は両手で呆れたポーズをしてみせた。
 探偵事務所に入ってくる前、彼女は俳優を志して専門学校に入っていたようだ。その時の癖なのか、生まれ持った性分なのかは分からないが、役者に似た仕草をするのが癖だった。痛々しいほどではないが、真からしたら鬱陶しかった。
「だが、やはりルールというのはミステリに重要だ。それが無かったら大変だぞ。作者は何でもし放題。催眠術、超能力、天使に悪魔に神に妖精にって使い放題!」
「そこまで言ったらもう、ミステリーじゃないな」
「とはいえ、アンチミステリーを批判しているんじゃない。世界三大奇書はどれも秀逸(しゅういつ)で、小説として面白味があった」
 彼女が言うには、十戒も二十則もミステリー初心者のための技法らしい。読者はその技法に沿って、まずは謎に挑んでみろと。作家は技法に沿って創ってみろと。ただ、屁理屈をこねればルールに沿いながら執筆することも可能で、ルールに慣れたら突飛したものを創ればよいのだ。もちろん、それは読者が納得するフェアな物であるべきだと主張は揺るがない。
 例えば、十戒にある双子は最初の内に明かされなければならないというルール。どちらも双子に関する記述だけで、三つ子にはなんの言及もない。最初は双子のつもりで出てきたキャラクターが、実際は三つ子だと分かってもノックスの十戒では何の問題もないのである。
 しかしながら、物語の中で三つ子だという伏線はミステリーなら必須だ。
 ――ということを、怜美は長々と説明していた。真の返事が少しでもおざなりになれば、やや不機嫌に同じ言葉を何度も何度も言うのだから、返事がずっといい加減だと一生彼女の口は動き続けるのだ。
 八条(はちじょう)さんが憎いと、今更ながら今回の遠出を後悔し始めるのだった。
 彼女は探偵事務所を出る前に、真にこう言葉を掛けた。
「今日が晴れててよかったね。ちょっと雨が降るだけでもフェリーって揺れがひどくなるし」
 真は精神的な乗り物酔い患っている。幼少期に乗り物酔いがひどく、その影響で大人になっても無意識に酔いを思い出してしまうのだ。それでも子供の頃に比べたら嘔吐しないだけマシなのだが、同時に彼は嘔吐恐怖症という珍しい疾患も抱えている。乗り物に乗るというだけで、表面上こそ穏やかを装ってはいるが、彼は時折手が震えるのだ。
 乗り物酔いの唯一の味方は睡魔だ。寝てしまえば、たとえ長時間の搭乗でも酔いに悩まされることがないからだ。だから、今回の旅も行き帰りは寝て過ごそうと考えていた。そのはずが、怜美がついてきたおかげで調和が乱れた。
 そもそも真は、今回のゲームには最初から乗り気ではなかった。
 小笠原諸島の一つとして数えられている小さな島、芦哭島(あしなきじま)。十一月も終わりに近い二十三日に、その島でとある推理ゲームが開催されるのだ。ゲームの名前は「ルピナス」といって、ゲーム自体は数年前から行われてきた。
 リアルタイム推理ゲームと称されるルピナスは、人狼ゲームに近い。発端は東京の大学で、文芸サークルが行ったイベントだ。そこからネット上でルールが広がっていき、日本で一大ムーブメントを起こした。
 ルールはこうだ。まず、参加者一同が三部屋以上ある施設に集められる。誰かの家でも、学校を一部借りてでも、図書館で迷惑にならない程度に、でも良い。集められた参加者に役職が秘密裏に言い渡される。役職は四種類あり、「市民」「犯人」「医者」「探偵」だ。それぞれ勝利条件が異なるが、どれもシンプル。市民と医者は、ゲーム終了時まで自分達が生き残れば勝利。犯人は制限時間内に全員を殺害できれば勝利。探偵は制限時間内に犯人を見つければ勝利。
 犯人が分からず、人間が生き残ったままゲームが終われば市民と医者の勝利で終わる。探偵と犯人にとっては少々不利なルール。だが、その不利な条件の中で勝利できるからこそゲームというのは面白く、人々を惹き付ける魅力があるに違いない。どこかのサークルが始めた些細なゲームが、今日では島の洋館で行われるというのだ。
 芦哭島を買い取っていた大富豪が、金を持て余しておかしなゲームを始めた……というのが真の見解だった。しかし、島を買い取っている当の本人は当日不在。真は違和感を持っていた。
 ルピナスには役職の他に、管理役が必要だった。ゲームの舵を上手に取るために必要な進行役がいないのだ。この状況でどうやって物語が進むというのだろう、ちょっぴりの好奇心がないとは、彼は言えなかった。
 そして何より、真が駆り出された理由がある。
 芦哭島で行われるゲームには、とある謎があるという。事務所の八条も知らない謎があり、正解すれば賞金がもらえるというのだ。三〇〇万円という非常に大きな額だ。当たれば山分けではなく、当たった人物全員に三〇〇万円。今回の参加者は十五人だと聞くから、最低でも四五〇〇万円は用意しなければならない計算になる。
 金持ちは、時に突拍子もない行動を取ることがある。人間は金で物欲がかなえられると、最後には承認欲求をかなえたくなるものなのだ。
 真のいる八条探偵事務所は、年々仕事が減っていくばかりだ。維持費がそろそろ厳しくなり始め、特に真の属する殺人科は一週間も客が来ないことはザラだ。近年の個人情報取り扱いが厳しくなってきたご時世に、客足が遠のくのはごもっともな話だ。これが十九世紀のロンドンだったら真は重宝されていただろう。少しばかり、生まれた時代を間違えたのだ。
 仕事が無いのに給料だけは入ってくるのだから、オーナーの八条は真に金を稼いでこいと尻を叩いたのであった。養ってもらっている身で、表面上は断っても最後は嫌々承諾するしかなかった。助手として怜美が任された時はすでに八条に逆らう気力さえ起きず、真は今日という時の流れに身を任せることにしていた。
「悪い、怜美。船酔いがひどくなってきた。コーラもらえるか。俺のカバンに入ってる」
「軟弱だなあ。そんなんだから独身貴族なんて言われ続けるのだよ」
 コーラを飲めば酔いが緩和されるという情報を見つけた真は、その日から乗り物に乗る時は毎度コーラを買っている。最初は眉唾物だと思っていた情報だが、どういう訳か確かに緩和されるのだ。真はこういう時、プラシーボ効果というものに感謝する。人間の不出来な脳がもたらす恩恵だ。
 信じれば、ただの塩だって癌さえ治してしまうかもしれない。
 怜美は真のバッグの中から、地面に尻をついている真にペットボトルを手渡した。彼はそれを受け取る時、ちょうど船が揺れたから怜美がバランスを崩し、前のめりになって倒れてきた。
「おい、大丈夫か」
 咄嗟に避ける間もなく、怜美の顎と真の肩がぶつかる。彼女は呻き声のようなものをあげながらよろよろと立ち上がり、顎を手で摩っていた。
「こういう時は優しく受け止めてくれるのが男性の役割というんじゃないかね……?」
「悪いな。恋愛小説は一度も読んだことがないんだ」
「この石頭め。小説なんか読まずとも、倒れてくる女性がいたら優しく介抱するのが魅力的な男性だと気付かないか。世間知らずもいいところだ」
 悪びれる様子もなく、真はペットボトルに口をつけてコカ・コーラを飲んだ。炭酸が喉を通り過ぎると早速と効果が働いて酔いという悪魔を遠ざける。
 今は朝の九時を少し回ったところだ。到着までは残り三十分もかかるだろうから、しばらくはまだ怜美の長話に付き合う必要があるだろうと思いきや。彼女は顎の痛みで喋る気分でもなくなったのか、寒そうにして船内で戻っていってしまった。
 ようやく一人の時間が巡ってきたことに安堵(あんど)して、真はもう一度ペットボトルに口をつけるのだった。
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登場人物紹介

●浅葱(あさぎ) 真(まこと)


八条探偵事務所に所属し、そこで生活している若いアルバイト探偵。

口数は多い方ではないが、心には正義の根が張っている。困っている人は基本見過ごせない。

娯楽や恋愛にはストイックだが、年相応にちょうどよく嗜んではいる。

●金井(かない) 怜美(れみ)


浅葱の助手として連れてこられたワトソン役。

ミステリー小説好きで、とにかく喋ることが好き。

浅葱のことは歳の近い相棒と認識しており、探偵として慕っている。

●黒須(くろす) 杏(あん)


黒須家の一人娘。中学一年生。

普段は根暗で覇気がないが、ミステリーの話題が出た時はここぞとばかりに明るくなる。

ミユキ、という名前でミステリー小説を紹介する動画を投稿しているが、再生数は伸び悩んでいる。

●黒須 紗良(さら)


黒須家の母親。夫の拓真(たくま)とは結婚して16年になる。

表面上は明るく振舞う母親を演じているが、彼女は二つの精神疾患を患っているため、時々ヒステリックになる。

ギャンブルが好きで、拓真とはよくラスベガスに旅行に行っていた。


●黒須 拓真(たくま)


黒須家の父親。杏からすると、優しいお父さん。

ヒステリックな紗良を宥めている内に、落ち着いた雰囲気が宿されてきた。

杏と紗良の仲が険悪なため、このゲームを切っ掛けに仲直りできないかと考えている。

●根本(ねもと) 純也(じゅんや)


フリーターとして生計を立てている男性。恒(ひさし)の兄。

楽観主義者のような振る舞いをするが、頭では常に真面目なことを考えながら生活している。

医師免許を取るために勉強するかたわら、バカンスとしてゲームに参加した。

●根本 恒(ひさし)


大学生活を満喫する純也の弟。

読書家であり、ミステリーゲーム好き。自分が一番賢いと傲慢な態度を示しては純也に諭される。

将来の目標がなく、純也や父親からはいつも気を使われている。

●若杉(わかすぎ) 亜里沙(ありさ)


良家で育てられた長女。新城(しんじょう)の婚約相手。

品行方正で他者優先。洗練された言葉遣いで周囲と接するが、常に自分を犠牲にしていて人間関係に疲弊してしまう。

新城とは政略結婚であり、何とかして取り消せないか考えている。

●新城(しんじょう) 文世(ふみよ)


新城財閥の次期後継者であり、若杉の婚約相手。

男尊女卑の家で育てられ、常に男性が女性を守るべきだという信条で動く。

若杉とは政略結婚であるが、彼女の美しさに惚れてひどく気に入っている。


●御手洗(みたらい) 英(あきら)


友人と語る馬宮(まみや)と参加している男性。

周囲とは気さくに話し、頼もしいお兄さんのような役回りで動いている。

ただし、ゲームに参加した目的はどうやら賞金だけではないようだった。


●馬宮(まみや) 蒼佑(そうすけ)


御手洗と一緒に参加した男性。二人とも同じくらいの若い年齢。

誰に対しても敬語で話すが、非常にノリが良い。高いコミュニケーション能力で、自然とその場の中心になる力がある。

御手洗とほとんど一緒に動いており、何かの調査をしているようだ。

●行峯(ゆきみね) 茉莉(まり)


一人で参加した少女。可愛らしい緑色のリボンを頭につけている。

大人と接するのが好きで、色々な人に話しかけては可愛がられている。計算高いわけではなく、彼女は人一倍の寂しがりやなのだ。

大きく機嫌を損ねると子供特有のヒステリックを催す。同年代の子供に特に顕著にその様子が現れる。

●佐伯(さえき) 奏楽(そら)


一人で参加した青年。常に和やかな雰囲気で人と接する。

周囲との協調性が高く、誰かの尻尾についていくように行動する。否定はせず自分の意見は押し殺すが、窮地になれば思い切った行動も取る。

自分の妹の治療費を稼ぐためにゲームに参加したと語る。

●秋本(あきもと) リミー


天真爛漫な高校生。日本人とフランス人のハーフであり、父親がフランス人。

物事を深く考えず、能天気な口ぶり。共感性が高く、感動映画を見たら絶対に泣く純粋な子。非常に扱いやすい。

佐伯のことが異性として気になっており、チャンスがあれば告白しようと思っている。


●古谷(ふるや) 御子(みこ)


艶やかな雰囲気のミステリー小説家。小説はそこそこの知名度を誇る。

知的であり、大人びた話し方で周囲の人間と馴染んでいくが、どこか常識から外れた思考をするからと多くの人間は彼女を避ける。友達は少ない。

数年前に付き合っていた男性に借金を押し付けられる形で逃げられ、その返済のために様々な仕事を請け負っている。


●神崎(かんざき) 紫苑(しおん)


ゲームの進行を滞らせないために呼ばれた洋館の使用人。一人で鍵や食事の管理等を任される。

寡黙で、参加者一同とは滅多に話すことはない。普段は使用人室で休んでいるか、厨房で料理を作っているかのどちらか。

そのロボットのような無感情さと手際の良さから、様々な場所で使用人としての高い評価を得ている。

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