第1話
文字数 4,216文字
ただ宇宙に行かずとも地球が円形だと理解する証拠は幾分にも揃っている。
では、もし海を赤く染めてしまったら。海が青いから、地球は青い。では海が赤かったら、地球は赤くなるのだろうか。
「なあ
同伴者の
怜美はサイドテールが似合う華奢な女性で、身長も低い方だ。負けん気が強く、男性相手でも押しが強い。だがそんな性格に似合わず私服は女性らしい。膝裏まで伸びる桜色のチェスターコートを着ていて、無地のシャツは水色で小奇麗に纏まっているがデニムは男性のように黒いのだから、どこか不統一感を覚えてしまう。頭につけているマリンキャスケットと呼ばれる前にしかツバのない帽子は、ベージュの色をしていた。
「藪から棒に。どうした」
怜美に対して
それに加え普段から声が小さいと金井に小馬鹿にされる真は、船酔いに耐えながらも、モーターの駆動音の小ささに感謝した。外にいるというのに、都会の繁華街よりも静かだからだ。
「人々はノックスの十戒やヴァンダインの二十則を時代遅れだという。だがね、私はそうは思わない」
一週間以上前に聞いた話だが、真は沈黙を尊んだ。
「考えてもみてほしい。後半にひょっこり出てきた人物が犯人なんて面白いか? じつは隠し扉がありましたなんてトリック、アンフェアじゃないか。他にも色々あるぞ」
「ミステリーのお約束っていうのは必要だって言いたいんだろ」
「分かってるじゃないか。それでこそ、私がワトソン役を買ってでるだけの探偵だ。まあ十戒と比べてヴァンダインの方は確かに、作者を縛る鎖が多いかもしれない。必要でない描写を入れるな、なんて私が作者だったらお手上げだ!」
舞台役者がよくそうするように、彼女は両手で呆れたポーズをしてみせた。
探偵事務所に入ってくる前、彼女は俳優を志して専門学校に入っていたようだ。その時の癖なのか、生まれ持った性分なのかは分からないが、役者に似た仕草をするのが癖だった。痛々しいほどではないが、真からしたら鬱陶しかった。
「だが、やはりルールというのはミステリに重要だ。それが無かったら大変だぞ。作者は何でもし放題。催眠術、超能力、天使に悪魔に神に妖精にって使い放題!」
「そこまで言ったらもう、ミステリーじゃないな」
「とはいえ、アンチミステリーを批判しているんじゃない。世界三大奇書はどれも
彼女が言うには、十戒も二十則もミステリー初心者のための技法らしい。読者はその技法に沿って、まずは謎に挑んでみろと。作家は技法に沿って創ってみろと。ただ、屁理屈をこねればルールに沿いながら執筆することも可能で、ルールに慣れたら突飛したものを創ればよいのだ。もちろん、それは読者が納得するフェアな物であるべきだと主張は揺るがない。
例えば、十戒にある双子は最初の内に明かされなければならないというルール。どちらも双子に関する記述だけで、三つ子にはなんの言及もない。最初は双子のつもりで出てきたキャラクターが、実際は三つ子だと分かってもノックスの十戒では何の問題もないのである。
しかしながら、物語の中で三つ子だという伏線はミステリーなら必須だ。
――ということを、怜美は長々と説明していた。真の返事が少しでもおざなりになれば、やや不機嫌に同じ言葉を何度も何度も言うのだから、返事がずっといい加減だと一生彼女の口は動き続けるのだ。
彼女は探偵事務所を出る前に、真にこう言葉を掛けた。
「今日が晴れててよかったね。ちょっと雨が降るだけでもフェリーって揺れがひどくなるし」
真は精神的な乗り物酔い患っている。幼少期に乗り物酔いがひどく、その影響で大人になっても無意識に酔いを思い出してしまうのだ。それでも子供の頃に比べたら嘔吐しないだけマシなのだが、同時に彼は嘔吐恐怖症という珍しい疾患も抱えている。乗り物に乗るというだけで、表面上こそ穏やかを装ってはいるが、彼は時折手が震えるのだ。
乗り物酔いの唯一の味方は睡魔だ。寝てしまえば、たとえ長時間の搭乗でも酔いに悩まされることがないからだ。だから、今回の旅も行き帰りは寝て過ごそうと考えていた。そのはずが、怜美がついてきたおかげで調和が乱れた。
そもそも真は、今回のゲームには最初から乗り気ではなかった。
小笠原諸島の一つとして数えられている小さな島、
リアルタイム推理ゲームと称されるルピナスは、人狼ゲームに近い。発端は東京の大学で、文芸サークルが行ったイベントだ。そこからネット上でルールが広がっていき、日本で一大ムーブメントを起こした。
ルールはこうだ。まず、参加者一同が三部屋以上ある施設に集められる。誰かの家でも、学校を一部借りてでも、図書館で迷惑にならない程度に、でも良い。集められた参加者に役職が秘密裏に言い渡される。役職は四種類あり、「市民」「犯人」「医者」「探偵」だ。それぞれ勝利条件が異なるが、どれもシンプル。市民と医者は、ゲーム終了時まで自分達が生き残れば勝利。犯人は制限時間内に全員を殺害できれば勝利。探偵は制限時間内に犯人を見つければ勝利。
犯人が分からず、人間が生き残ったままゲームが終われば市民と医者の勝利で終わる。探偵と犯人にとっては少々不利なルール。だが、その不利な条件の中で勝利できるからこそゲームというのは面白く、人々を惹き付ける魅力があるに違いない。どこかのサークルが始めた些細なゲームが、今日では島の洋館で行われるというのだ。
芦哭島を買い取っていた大富豪が、金を持て余しておかしなゲームを始めた……というのが真の見解だった。しかし、島を買い取っている当の本人は当日不在。真は違和感を持っていた。
ルピナスには役職の他に、管理役が必要だった。ゲームの舵を上手に取るために必要な進行役がいないのだ。この状況でどうやって物語が進むというのだろう、ちょっぴりの好奇心がないとは、彼は言えなかった。
そして何より、真が駆り出された理由がある。
芦哭島で行われるゲームには、とある謎があるという。事務所の八条も知らない謎があり、正解すれば賞金がもらえるというのだ。三〇〇万円という非常に大きな額だ。当たれば山分けではなく、当たった人物全員に三〇〇万円。今回の参加者は十五人だと聞くから、最低でも四五〇〇万円は用意しなければならない計算になる。
金持ちは、時に突拍子もない行動を取ることがある。人間は金で物欲がかなえられると、最後には承認欲求をかなえたくなるものなのだ。
真のいる八条探偵事務所は、年々仕事が減っていくばかりだ。維持費がそろそろ厳しくなり始め、特に真の属する殺人科は一週間も客が来ないことはザラだ。近年の個人情報取り扱いが厳しくなってきたご時世に、客足が遠のくのはごもっともな話だ。これが十九世紀のロンドンだったら真は重宝されていただろう。少しばかり、生まれた時代を間違えたのだ。
仕事が無いのに給料だけは入ってくるのだから、オーナーの八条は真に金を稼いでこいと尻を叩いたのであった。養ってもらっている身で、表面上は断っても最後は嫌々承諾するしかなかった。助手として怜美が任された時はすでに八条に逆らう気力さえ起きず、真は今日という時の流れに身を任せることにしていた。
「悪い、怜美。船酔いがひどくなってきた。コーラもらえるか。俺のカバンに入ってる」
「軟弱だなあ。そんなんだから独身貴族なんて言われ続けるのだよ」
コーラを飲めば酔いが緩和されるという情報を見つけた真は、その日から乗り物に乗る時は毎度コーラを買っている。最初は眉唾物だと思っていた情報だが、どういう訳か確かに緩和されるのだ。真はこういう時、プラシーボ効果というものに感謝する。人間の不出来な脳がもたらす恩恵だ。
信じれば、ただの塩だって癌さえ治してしまうかもしれない。
怜美は真のバッグの中から、地面に尻をついている真にペットボトルを手渡した。彼はそれを受け取る時、ちょうど船が揺れたから怜美がバランスを崩し、前のめりになって倒れてきた。
「おい、大丈夫か」
咄嗟に避ける間もなく、怜美の顎と真の肩がぶつかる。彼女は呻き声のようなものをあげながらよろよろと立ち上がり、顎を手で摩っていた。
「こういう時は優しく受け止めてくれるのが男性の役割というんじゃないかね……?」
「悪いな。恋愛小説は一度も読んだことがないんだ」
「この石頭め。小説なんか読まずとも、倒れてくる女性がいたら優しく介抱するのが魅力的な男性だと気付かないか。世間知らずもいいところだ」
悪びれる様子もなく、真はペットボトルに口をつけてコカ・コーラを飲んだ。炭酸が喉を通り過ぎると早速と効果が働いて酔いという悪魔を遠ざける。
今は朝の九時を少し回ったところだ。到着までは残り三十分もかかるだろうから、しばらくはまだ怜美の長話に付き合う必要があるだろうと思いきや。彼女は顎の痛みで喋る気分でもなくなったのか、寒そうにして船内で戻っていってしまった。
ようやく一人の時間が巡ってきたことに