第17話
文字数 5,630文字
電話越しにそう言われた怜美は慌てる様子もなくこう言った。
「殺人犯が紛れ込んでる時点で、命を狙われることは予測できたぞ、浅葱君。今更何を言っているんだ」
「さっき、若杉さんが強力な幻覚剤を投与されて暴れていた」
「え、嘘……。それ、本当?」
怜美の想像にも色が付き始めた。言葉で聞くだけでなく、実際に経験するだけでこうも人間の恐怖というのは力を増大させるものなのだ。彼女のお得意のキャラクターを崩して、不安だけが取り巻く声だったから、目の前に彼女がいなくてもどんな表情をしているのか推測は安易なものだった。
殺人は起きていないが、これはれっきとした事件だ。
「しかも手の込んだことに、部屋は密室ときている。これがゲームの一環だっていうんなら俺は文句は言わない。だが、明らかに推理ゲームとしての域を超えている」
「でも、じゃあどうする? 船が来ないと帰れないよ」
「船が来るのは明後日の朝だったよな。この館にボートとかそういったものはないか探そう。今俺たちにできるのはそれくらいだ」
怜美からの返事がなくなった。真は「おい」と声をかけると、怜美の不安そうな吐息が耳に入り込んだ。
「ご、ごめん。正直現実味がなくて。そ、それでボートを探すんだっけ」
「そうだ。念のためな。これから先、万が一殺人が起きた場合に備えて脱出できるように。できるか?」
「う、うん。これでも私はワトソン役だからな」
怜美が虚勢を張っているのは間違いない。だが、今はそれを気に留めて足踏みをしている猶予はなかった。
「じゃあ俺は屋敷の外を探す。森の中に入って、海岸を見て何かないか探ってくる。怜美はこの館の中だ。頼んだぞ」
「任せておくとよい!」
これでは推理ゲームではなく脱出ゲームだ。真は彼女にもう一度大丈夫か確認して電話を切ると、まず真はスタート地点として自分の部屋に戻ることにする。その最中、怜美と顔を合わせたが軽い言葉を交わすだけで、すぐに別行動をとった。
部屋に入り、窓から外を見下ろす。誰も見えないが、念のためカーテンを閉めておくことにする。
それから刑事を疑っているわけではないが、盗聴器や監視カメラの類も探す。専用の道具は持ってきてないから、原始的に目と直感を使って部屋中を調べたが不審な発見には至らなかった。コンセントの中や屋根裏は調べるには時間も知識も足りていないから、確定的にないとは言い切れないが。
だが、面白い発見があった。
人体を解体する用具はないからその二つのどちらかをするのが犯人の役目なのだろう。しかし真は、至極真っ当な疑問を抱くのだ。
そんな用具が、どうして自分の部屋に。犯人が隠したとするならば、隠し場所も変だ。箪笥の中というのは意外性もなく、簡単に見つけられてしまうだろう。
一つの結論として、真を犯人に仕立てあげる計画を練っているのだろうか。それならば尚更隠し場所がおかしい。真が犯人だと追及される前に、真自身が廃棄すればいいだけなのだから。犯人はそこまで考えていなかったのだろうか。精神病棟から脱出した患者が犯人だとは分かっている。監視カメラも潜り抜ける手際の良い犯人が不確定な要素を排除しないのは、そっちのほうが間違いのように思えた。
目的が分からない。殺人用具が箪笥の中にしまわれている理由が。後で他参加者にも聞いてみるべきだろう。自室の箪笥に殺人用具がないか。
当初の目標を思い出した真は箪笥を閉め、部屋の鍵をしめて外に出た。屋敷の中は怜美に任せているから、森の中を探ってみるべきだ。日が暮れる前に急いだほうがいいだろう。
目印として、真はその場に落ちていた木の棒を拾い、地面にさすことで帰り道が分かるよう慎重に進んだ。人の気配はないが、犯人に見られていれば怪しまれる。一番最初の犠牲者になるのは、さすがの真でも遠慮願いたかった。
森に入ってから三十分は経っただろうか。数十メートル刻みに木の棒を立て続け、体力がなくなってきた真は太い木の幹に座り込んで水を飲んだ。獣道はなく、足場は不安定で蛇が出る森だ。犯人に心臓を刺されずとも、油断をすれば命を落としかねない。
絶えず波の音が遠くで聞こえてくるから、海岸から離れすぎてはいないはずだ。道標が万が一野生動物によって持ち帰られたとしても、波の音を頼りに戻れば夕食時には帰れるだろう。
汗が額からこぼれる。聞こえてくるのは木の葉が風で揺れる音と波の音、野鳥のコーラス。木漏れ日から漏れる光にミミズが息絶えていて、アリが群がっている。
どうしてか、森の中にいると館の中で感じていた不穏な空気がなかった。それだけでない。都会で暮らしている時のような鬱屈も、世の中の戦争も胸糞悪いニュースも全てが絵空事のようだと真は思うのだった。
自然は時として人類を滅ぼしかねない大きな力を有する。しかし、文明を築いてしまった人類は忘れているが、人間も本来は自然の生き物なのだ。人間は、この空気の中で生きていくべきなのだ。
真はしばらく、頭の中を空にした。心地よかったのだ。風の音が、鳥の声が、波の音が、太陽の陽ざしが、森の囁きが。
だが、いつまでも座ってはいられない。真はもう一度だけ水を飲み立ち上がった。
「浅葱君?」
一瞬だけ、真は現実味を失って
声は、真が歩いてきた場所の方から聞こえてきた。振り向けば、そこに立っていたのはリミーと茉莉の二人だった。
「やっぱり浅葱君だ!」
木の棒を追ってきたのだろうとあたりをつけながら、真は後ろ髪をかいて言った。
「何してんだ。こんなところで」
「茉莉ちゃんと仲良くなろうと思って、冒険に出ようよって二人で言ってたんだ。そしたら謎の木の棒発見! これは何かゲームの謎に関係ありそうって思って辿ってみたら、探偵さんがいるではありませんか~! 先を越されちゃった悔しさはあるけど、何か見つかった?」
「残念だが、その木の棒を立てたのは俺だ。俺も冒険したくなって森の中を歩いてた。帰り道を忘れないように棒を立ててただけだ」
大発見に繋がらないことをダイレクトに伝えられたリミーと茉莉だったが、真顔になって彼女達はお互い顔を見合わせ、その後で大笑いした。
「そうだったんですね。私、てっきり遺言の謎が関係してるんじゃないかなって」
「肩透かしだろうが、怒るのは勘弁してくれよ。俺だって悪意があるわけじゃないし」
「怒りませんよ。だって、面白いじゃないですか」
茉莉はよほど面白いのだろう。お腹を両手で押さえて笑いながら言った。
「浅葱さんが帰ってくるための棒を、私達は大発見だって思ってついていったら、全然違うなんて」
二人とも面白がっているが、真は何がどう面白いのか分からずに疑問符を浮かべることしかできずにいた。だからリミーと茉莉が笑いの渦から解放された時、地に足がついたような感覚を取り戻した。
それにしても深い森だ。二人の和やかさで緩和されたが、館の中に殺人犯がいることは間違いがない。この島ならば、完全犯罪が可能になるかもしれない。そう思うと楽観視している場合でもなさそうだった。
「浅葱君って、探偵よりもインディジョーンズのような冒険家のほうが似合ってるんじゃない?」
「岩が転がってきたり謎の部族が出てきて捕らえられたり、そこまで歓迎してくれりゃ考える。それより、あんまり外に出過ぎないほうがいいぞ。ここまでくるのも大変だっただろ」
茉莉は小さな手提げ袋を持ってきているようだったが、リミーの両手は空いていた。水も食料もなく遭難するわけにはいかない状況ということだ。
「あれ、心配してくれてるんだ。嬉しいな! だけど大丈夫、こう見えて私、昔は一週間くらい森の中で迷子になったことあるから! 日本じゃなくてフランスでね」
「俺なんかよりお前のほうがよっぽど冒険家に向いてるんじゃないのか」
「そんなことないよー。冒険家が大事なのは知恵! 私には知恵がなかったから迷子になっちゃったんだし」
「どうやって生き延びたんだ」
「うーん。葉っぱ食べて、ペットボトルの中に小石とか砂とかを詰めて池の水を
「分かった、もう十分だ。お前にはどうやらサバイバル能力があるらしい。その調子じゃ、動物の体内で暖を取るって言われても驚かない」
人には得手不得手があるものだ。ベートーヴェンがピアノではなく裁縫の道を進んでいたならば歴史に名前を遺すことは無かったのと同じように、リミーはサバイバル能力が常人を超えている。であれば、犯人に抵抗することもやぶさかではないかもしれない。
「ちなみにね、蛇のお肉って硬いって言われてるけど、樹液に漬ければちょっとは軽減されるんだよ」
「へえ、秋本さんすごいです!」
名人のように語りだすリミーと、童心を露わにして尊敬の眼差しでリミーを見る茉莉。この組み合わせは、今日この後もずっと続くのかもしれない。二人とも個人で参加しているから仲間外れにされる心配もなくなったというわけだ。
「俺はこの後、海岸沿いまで歩く予定だ。お前達はどうする」
語りが止まらなくなったリミーに遠慮することなく真がそう言うと、彼女は両手を胸の前に出して大げさな素振りをしながら頷いた。
「よし、行こう!」
その動作を茉莉も真似て、鼓舞を送るように右腕を空に伸ばした。
「行きましょう!」
変な虫が二人もくっついてくるようになったことに、真は特別な感情が湧くことはなかった。強いていうなれば、やや面倒くさそうな表情をするだけであった。
最初は一人だった冒険は三人になり、一行は波の音を目指して森の中を歩き続けるのだった。
真がそこはかとなく探索を満喫している中、怜美のスタート地点も自室であった。島から脱出できそうな物はやはり見つからず、室内の探索は十五分もあればおおよそ終わってしまうものだった。ボートがなければ作れば良いとも思ったが、モーター付きの船で一時間はかかる島から脱出するための船を作る技術はあるはずもなかった。
「大丈夫とは言ったものの、どうしようかな。どこからどうやって調べればいいんだろう」
一人の部屋で独り言。怜美は一人不安を覚えると少しでも抵抗するために独り言を言う癖があった。
日常生活で屋敷を訪れることもないし、屋敷を調べることになると考えたこともなかった。だからどう物事を運べばいいのか彼女はさっぱり分からなかったのだ。
全員分の部屋を調べるわけにもいかない。特に若杉亜里沙と新城文世の部屋を調べようものなら、警察から懐疑の目で見られることは避けられない。ならば、談話室が先だろうか。しかし、談話室にボートがあるというのもおかしな話だった。
例えばこの屋敷にからくりがあり、隠し扉や通路があって、その中にモーターボートがあるというなら頷ける。ただ隠し通路を発見する手だてもなければ、そういった通路があるという根拠もなかった。
「ミステリー小説なら、大体隠し通路の一つや二つはあるんだけどなあ。こういうところは」
怜美にとって、現状はお手上げの状態だ。屋敷の建築図があれば話は早いが、犯人がそれを公表できる位置に置くはずがない。
「そうだ、三階のあの部屋……! 全然調べてなかった気がする。行ってみないと」
思い立ったら即行動が怜美のモットーだ。探偵たるもの、思い付きは解決への糸口。その糸を掴んだのだから行動しないわけにはいかない。怜美は急いで部屋を出た。
だが通路を曲がろうとした時、怜美は足を止めた。話し声が聞こえたからだ。
本来なら素通りもできたはずだった。だが異様な空気に、怜美は足を止める以外に選択肢がないように感じた。
「泣けば許されると思ってんの?」
聞いたことのある声だ。彼女は黒須紗良。三人家族の妻だ。声の方向から察するに一階のロビーだろう。一体何を話しているのか怜美が覗こうとした時、ロビーに痛々しい音が響き渡った。
ロビーにいたのは紗良と、杏だった。杏は片方の頬を手で押さえながら、悲しそうな目で紗良を見上げていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
「子供はいいわよね。泣いて謝れば、それで許されると思ってる。社会に出るとそんなんじゃ通用しないのよ。あんたね、自分が何をしたか分かってる? 私、部屋に籠ってろって言ったわよね。そんな簡単なことも守れないの?」
「違うの、根本恒っていう人がミステリー小説好きで、話が合うから一緒に話そうって言ってくれたから」
「私の約束よりも、知らない人を優先するのね。そう。私は悲しいわ、あんたはそういう子供だったのね――なんで泣いてるの? 泣きたいのはこっちなんだけど」
「ママの約束も大事だよ、だけどパパからも他の人と仲良くしなさいって言われたから」
「今パパは関係ないでしょ!」
紗良は頬だけでは飽き足らず、杏の腕を掴んで上げ、脇腹を拳で殴打した。杏はその場にうずくまり、殴打された場所を何度も手で摩っていた。
「だから、泣くのをやめなさい! 私が悪いの? あんたは私が悪いことにして被害者面したいだけでしょうが! いい加減にしろ、この出来損ないが!」
再び紗良が手を振り上げた時、怜美は身を乗り出して叫ぼうとした。だが怜美が叫ぶよりも前に、反対側の通路からロビーに駆け下りた影があった。
馬宮蒼佑だ。蒼佑は振り上げられた紗良の手を掴み、杏との間に入り込んだ。