第35話
文字数 4,794文字
最初からこの館には、二つの事件が存在していた。十一月八日に発覚した胎児強奪事件と、リアルタイムで進行している事件。便宜的にウィンチェスターの殺人と呼称する。物事の真相を探るには、二つの事件の真向から対面しなくてはならなかったのだ。胎児強奪事件は最初、島に訪れた人間は推理のしようがなかった。刑事達を除いて、無関係なものだと思っていたからだ。
犯人が刑事を招いたのは、そもそもそれがヒント。胎児強奪事件と関係があると知らしめるためのもの。だが刑事は参加者達に喋らない可能性があった。遺言はいわば保険のようなもので、刑事が何も行動を起こさず二人だけの力で犯人を捕らえようとした場合の、第二のヒント。
愚かながらも黒須紗良は自分が胎児強奪事件の犯人なのだと語るような言動を取った。まだ自供してはいないが、関係があるとみて間違いはないだろう。
つまるところ、遺言は胎児強奪事件の犯人に向けた脅迫状の要素も満たしていたのだ。
「紗良、まだ言い訳できるチャンスはあるんだ。お前じゃないんだろ。あの事件の犯人」
ウィンチェスターの殺人、その犯人が十六人を島に呼び寄せたのはどんな理由があるのだろうか。復讐のためであれば、十六人も必要はなかったはずだ。更に言えば黒須紗良を殺害するだけで、こんな大がかりな催しを開く必要さえなかった。
この動機に、犯人の全てが詰まっている。この事件の謎を明かすための要素が眠っている。そのような気がしてならなかった。
「ママ。私はママを信じてる。さっきはちょっとビックリしただけなんだよね。確かにさ、私に暴力を振るう日だってあったよ。だけど、違うよね」
多くの人間が死んでいる。犯人の狙いは紗良を怯えさせ、彼女以外の人間が次々と死んでいく恐怖を演出したかったのだろうか。
しかし真は、大前提となっている原初の謎に気付くのだった。犯人はどうやって黒須紗良が事件の犯人だと気付いたのだろう。これまで散々真が耳にしてきたオンラインカウンセラーが犯人だと言うのなら、誰かから相談を受けて知った可能性がある。例えば紗良がオンラインカウンセラーを利用しているならば、殺人の重責に耐え切れずに相談し、犯行が発覚したと考えられる。
しかしここに、一筋の矛盾が生じる。紗良がそれを利用しているならば、最初の言葉は違和感があるのだ。紗良といえど、自分が犯人だと知っている人間で真っ先に疑うべきはカウンセラーなのだ。拓真を疑うのは普通ではない。紗良はオンラインカウンセラーを利用していないか、相談していなかった可能性がある。
なれば、犯人はどうやって紗良を見つけ出したというのか。ウィンチェスターの魔術の前には、逃げも隠れもできないとでも言うのだろうか。
まだ紗良は自供をしていない。彼女の家族が、まだ紗良が犯人だと認めていない。だがこの場にいる誰もが、彼女を胎児強奪事件の犯人だと確信していた。犯人が自らの行動で語ってしまうという方法としては不細工ではあるが、遺言が脅迫状になる人間にとっては最も適切な行動だったのだ。
「そうよ、私があの女を殺したのよ」
まだ言い逃れをする余地はあった。この島には証拠も何もないのだから、自分は犯人じゃないと言い張るだけで無罪を主張できるのだ。紗良からすれば、圧倒的に有利なはずだった。
だが、自供した。
違う、自供させられたのだ。
紗良には二つの選択肢があった。犯人の狙いが復讐であるならば、自らの口で罪を認めた時点で復讐は果たされる。その後に紗良を殺害すれば、これ以上犠牲者は増えない。もし犯人ではないと否定し続ければ犠牲者は増え、待っているのは破滅だった。この島にいる誰もが死ぬ。
ソファの肩を掴んだ紗良は天井を見上げて叫んだ。
「どこかにいる犯人に言ってやるよ! 私が殺したのよ、名前も知らないあの女をね! だって、だって……本当に憎かったんだよ!」
ママ、と杏がぽつりと呟いた。どんな感情が乗っていたのか、真には知る由もない。
「家庭がメチャクチャで、私は育児もまともにできなくて。子供も産めなくて。自分じゃ満足に金も稼げない、私は拓真さんにとって邪魔な存在だと思って、山の中にいって死んでやろうと思ったのよ。でも死ねなくて、私は泣きながら電車に乗ったわ。そしたらね、あの女が目の前に立ってこう言ったのよ」
――席、譲ってもらえませんか。
「丸くなったお腹が羨ましいなんて思いながら、その女は笑顔だった。私はね、すごく惨めな思いになった! あの女は私が惨めな思いになると知っててわざと私に声をかけたんじゃないかって思ったのよ。そして私は連想したわ。その女がこれから起こるであろう幸せな時間を。お腹にいる子供が産まれて、夫と喜びあって幸せな家庭になっていく時間を。その時にね、気付いたのよ。私、ナイフ持ってるって」
「紗良、もういい。もう何も喋らなくていい」
拓真は助け船を出したのだろうが、英はそれに反してこう言った。
「いえ、紗良さん。最後まで話してください」
「刑事さん。紗良はもう苦しんできたんだ。これ以上語らせても、もっと辛い思いをするだけじゃないか」
「今できる精一杯の
歯がゆい表情のまま、拓真は沈黙した。だが苦い表情をしていたのは英も同じだった。胎児強奪事件の真相はあまりにも突拍子もなく、偶然的で、悲劇そのものでしかなかったからだ。殺害された竹井聡美は、ただ運が悪かった。隣の席に座っていた誰かに声をかければ、殺されずに済んだのだ。もしくは紗良が乗り合わせていなかったら、紗良の人生がもっと幸せであったなら。
「その女が電車を降りたから、私も電車を降りたわ。後ろ姿を見ていくうちに、私の中の憎しみは膨れ上がるばかりだった。その女の家についた後はもう、抑えきれなかった。ドアが開いた途端、私はその女の背中にナイフを刺した。手が震えてたから、その時自分の手も切っちゃったのよね。それでうつ伏せに倒れるもんだから、何度も刺して、でも死ななかったから近くにあった時計で頭を何度も殴って、でもまだ生きてたから仰向けにして、腹を割いてやったの。そして中にいた子供を持ちだして、見つかるのが怖かったから、海に投げた」
誰もが目を伏せた。だから紗良が話している間にこぼした涙を、誰も見なかった。
「次の日のニュースをまだ覚えてるわ。十一月八日、十六時に事件が発覚したってニュースキャスターが告げた時、私は尋常じゃないほど怖かった。こんなの一人じゃ耐え切れない、だからね……相談したのよ。根本純也君に」
額を手で押さえていた恒が顔をあげ、呆然とした顔で紗良を見た。
「どうすればいいのか分からなかった。刑務所には行きたくなかった。だから純也君に相談したのよ。そしたら、警察には通報しないでくれるって。一緒に逃げる方法を考えてくれた」
座っていた恒は立ち上がって、紗良と真向から向き合ってこう言った。
「兄さんを、共犯者にしたのか?」
「そうよ。その様子だと、純也君はあなたに上手に隠しながら暮らしてくれていたみたいね。嬉しいわ」
「ふざけんなよてめえ!」
恒は紗良に駆け寄って体ごとぶつかり、ガラスの窓に体を押し付けて彼女を睨みながらこう言った。
「あんたが兄さんに相談したから、僕たちはここに呼ばれて兄さんは殺された! 兄さんはな、断れないんだよ。どんな頼みも引き受ける、バカ真面目な奴なんだよ。人生損してるって僕が何度も言っても、これが僕だからって言い切るほどの馬鹿で真面目で良い奴なんだよ。あんたに殺人を告白されて、一緒にどうすればいいか考えてほしいって懇願された兄さんは、そりゃ一生懸命考えただろうよ。だけど殺人の片棒を担いだってのは、いくら馬鹿でも気付くだろうな。気付いた時、兄さんは辛かったと思うよ!」
英に腕を組み伏せられて恒は紗良から遠ざけられたが、恒は睨んだまま吠え続けた。
「それでお人好し根性を見せつけたと思ったら、なんだよ! 挙句の果てには殺されちまうのかよ! ふざけんな、マジでふざけんなよ! 兄さんは優しいんだ! しんじゃいけない人間なんだよ!」
「それくらい分かってるわよ! 私だって純也君は生きていなくちゃいけないって思ってる!」
「じゃあ兄さんが死んだ時、なんであんなにも無感情でいられたんだよ! 兄さんのために泣きもしなかった!」
「私だって辛いの、分かってよ! 生きていたくもないのに、死ぬ覚悟もありやしない臆病者ってね、息をするだけでも辛いの!」
「あんたはまだ家族が生きてるから良かったよな! 兄さんはもう死んだよ! 辛いのはどっちだよ!」
「もうやめて! それ以上私を責めないで、睨まないで! 悪いのは全部私だって分かってるから、もうやめて……」
紗良は力なくその場にへたり込んだ。化粧が乱れるほどの涙が流れ、彼女はポケットの中から取り出したハンカチで顔を覆った。
ただただ、悲惨だった。もう誰も紗良を責める人間はいない。
「浅葱君、やっぱり犯罪って……悲しいね」
怜美は真の隣に立つやいなや、そう言った。彼女は悲しい目をしていた。
「必ず誰かが悲しい思いをする。そしてほとんどが、犯罪者も不幸。紗良さんみたいにさ。私、ここまで悲しい事件は初めてだよ。ウィンチェスターが起こしてる事件も復讐なんでしょ。聡美さんが好きだった人が起こしてるんだ。だから、本当に悲しい」
まだ胎児強奪事件は終わっていない。聡美を殺害したのは紗良だと判明したが、その後に帰ってきたであろう夫の首を刈り取ったのが誰なのか、真には想像もできなかった。
動機を無視するならば、脱走した精神病患者が一番濃厚だろう。その精神病患者は竹井家と何らかの繋がりがあって、聡美に好意を抱いていた。それならば、ウィンチェスターの殺人で起きている事件の動機は理解ができる。
「俺は、今自分がどうすればいいのか、何を喋れば正解なのかも分からない。教えてくれる人もいなさそうだしな」
「何も喋らなくていいんじゃないかな」
恒はとっくに落ち着いて、英から解放されて目を赤くしながらソファにうつ伏せになっていた。
犯人の目的は達成されたのだろうか。だとするならば、そろそろ真相を喋り出す人物が現れ始めてもおかしくはない。目的が達成された後の時間は、虚無。真は今の時間を、カーテンコール後の観客席のようだと例えた。呼び戻された出演者達は、何を語るのだろう。
しかし、ウィンチェスターを名乗る犯人は姿を現さない。それが妙に恐ろしく感じるのだった。
怜美は両手で真の腕を抱き、肩に顔を埋めた。少しの間だけでも現実から逃れたいのだろう。紗良の辛いという感情が、
一つ、真に近付いてくる足音が耳に響いた。それは亜里沙だった。
「浅葱さん、金井さん。今少しよろしいでしょうか」
少し照れたような表情をしながら、怜美は真の腕を離した。なんだ、と真が訊くと亜里沙は小さな声で言った。
「ここでは話しにくいので、外でお話させてください」
この場を